第10章 115万人の衝撃(3)2月1日 木曜日 午前9時
◆ 2月1日 木曜日 午前9時
◇ 東京大学社会科学研究所 片瀬研究室
片瀬は、1月の出生データを見て息を呑んだ。全国で9万8千人。前年同月比で35%増だった。
「これが続けば、本当に115万人になる」
隣の席の研究員が覗き込んだ。「すごいですね。でも、妊娠届も同時に増えているようです」
片瀬はデータを確認した。「1月の妊娠届、前年比80%増...これは第二波ですね」
研究員が続けた。「出産と妊娠が同時進行。医療現場は大変でしょうね」
片瀬は答えなかった。答えられなかった。自分たちが仕掛けようとしている「実験」のことは、誰にも言えない。
メールが届いた。伊勢野からだった。
「福井県知事との面談、無事終了。パイロット事業の準備が始まります」
片瀬は返信した。
「了解しました。ただし、効果が出るまでには時間がかかります。施設建設だけでも1年は必要でしょう」
◆ 2月8日 木曜日 午後3時
◇ 内閣府 伊勢野の執務室
伊勢野は、2月1日付けで内閣府参事官補佐として着任してから1週間が経っていた。内閣官房の小林から、石森直哉の連絡先を教えてもらった。
「石森さん、内閣府の伊勢野です。エンカウント政策のプロジェクトでご一緒することになります」
電話の向こうで石森が答えた。「生活保護の観点から協力できることがあれば」
「実は、片瀬先生とも情報交換を続けています。3月末に三人で会えませんか」
「承知しました。それまでに、高齢者福祉施設の現状データをまとめておきます」
◆ 2月14日 バレンタインデー 午後7時
◇ 東京・渋谷 結婚相談所
「今日だけで、30組のカップルが成立しました」
相談所の代表・高橋は、疲れ果てた顔で報告した。去年の4月以来、休む暇もない。
「総理婚から10ヶ月」スタッフの一人が言った。「もうすぐ、最初の総理ベビーが生まれますね」
高橋は窓の外を見た。渋谷の街は、カップルで溢れていた。バレンタインという日本では特別な日。プロポーズする男性の姿があちこちで見られた。
「でも、本当にこれでいいのかな」高橋は呟いた。
「どういう意味ですか」
「愛じゃなくて、恐怖で結婚する人たち。それで幸せになれるのか」
スタッフは答えに困った。でも、現実は動いていた。止められない勢いで。
「でも」別のスタッフが言った。「新規登録者の妊娠報告も増えています。結婚して半年以内に妊娠する人が7割を超えています」
高橋は複雑な表情になった。「結婚と出産の連鎖反応...これが日本の新しい形なのか」
◆ 2月20日 火曜日 午前11時
◇ 聖路加国際病院 分娩室
「もう一息!頑張って!」
加藤の励ましの声が響く。午前11時23分、元気な産声が上がった。
「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」
母親は涙を流しながら、生まれたばかりの我が子を抱きしめた。この日、聖路加病院だけで15人の赤ちゃんが生まれた。
「先生、次の分娩が始まります」助産師が駆け込んできた。
加藤は汗を拭いながら、次の分娩室へ向かった。廊下では、陣痛に耐える妊婦たちが列をなしていた。まさに「戦場」だった。
看護師長が報告した。「先生、妊娠初期の外来も満員です。新規の妊娠が止まりません」
加藤は深呼吸した。「第一波の出産と第二波の妊娠が重なっている。これは長期戦になる」
◆ 3月1日 木曜日 午前0時
◇ 聖路加国際病院 新生児室
加藤は、ガラス越しに新生児室を眺めていた。50のベッドが、すべて埋まっている。廊下にも簡易ベッドが並んでいた。
「先生、お疲れ様です」
振り返ると、田中麻衣が立っていた。生後1ヶ月の息子を抱いている。
「1ヶ月検診ですか」
「はい。でも、すごい混雑で」麻衣は新生児室を見た。「みんな、同じ時期に生まれた子たち」
加藤は頷いた。「総理ベビー第1世代。でも、これは始まりに過ぎません」
麻衣が驚いた。「というと?」
「妊娠届の数を見てください」加藤はデータを見せた。「2月だけで、前年の2.5倍。秋にはもっと大きな出産ラッシュが来ます」
麻衣は息子の顔を見つめた。「この子たちが大人になる頃、どんな日本になっているのでしょう」
「きっと、今より良い国になっていますよ」加藤は微笑んだが、心の中では不安もあった。
急激な変化は、必ず歪みを生む。その歪みが、どんな形で現れるのか——




