第9章 地方の変貌(1)2027年9月1日(水)
◆ 2027年9月1日(水)午前10時
◇ 福井新聞社 編集局
窓から見える足羽山が、まだ夏の緑を残している。
北川誠一は、パソコンの画面を睨んでいた。42歳、福井新聞の社会部記者。地元の武生高校を出て、金沢大学を卒業後、20年間この新聞社で働いている。
画面には、県内の婚姻統計が表示されていた。
福井県婚姻届提出数(2027年4月〜8月)
- 4月:821件(前年同期:243件)
- 5月:654件(前年同期:198件)
- 6月:589件(前年同期:201件)
- 7月:512件(前年同期:189件)
- 8月:487件(前年同期:176件)
北川の指が、マウスをクリックする音。隣のデスクで、若い女性記者がキーボードを叩いている。社会部は6人の小さな所帯だ。
「北川さん、また取材依頼が」
新人記者の岡崎真由が、メモを差し出した。24歳、福井大学を出たばかり。地元志向の強い、今どきの若者だ。
「3世代同居を始めた家族の取材希望です。越前市の田村さんという方から」
北川はメモを受け取った。今週だけで、同じような依頼が5件目だ。総理談話から5ヶ月、福井でも確実に何かが変わり始めている。
デスクの上の電話が鳴った。
「はい、福井新聞、北川です」
受話器の向こうから、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「北川か、俺だ、大塚」
大塚真一。武生高校OBで、今は福井県庁に勤めている。北川より6歳年上だが、地元の情報網で繋がっている。
「どうした、急に」
「実は、面白い話がある。東京から帰ってくる奴がいるんだ」
北川は身を乗り出した。受話器を持ち替える。
「誰だ?」
「藤原健一。覚えてるか?」
藤原健一。武生高校から東大に進んだ、学年のスターだった。今は厚労省の官僚のはずだ。
「まさか、Uターン?」
「まだ検討中らしいが、来月の選挙期間中に有給を取って帰ってくる。個人的に会ってみないか?」
北川は手帳を開いた。10月の予定表は、すでに選挙取材で埋まっている。
「分かった。連絡先を教えてくれ」
◆ 9月15日(水)午後2時
◇ 越前市 田村家
古い農家の縁側で、田村幸子(68歳)が洗濯物を干していた。
北川は、カメラマンの佐藤と共に取材に訪れていた。庭には、真新しいプレハブの離れが建っている。
「息子夫婦が東京から帰ってきたんです」
幸子の顔に、抑えきれない喜びが浮かんでいる。手の動きが、いつもより軽やかだ。
居間に通されると、若い夫婦がいた。田村翔太(31歳)と妻の香織(29歳)。香織のお腹は、明らかに膨らんでいる。
翔太がノートパソコンを閉じて、立ち上がった。
「すみません、リモート会議中でした」
東京のIT企業に勤めたまま、福井で仕事をしているという。北川はメモを取り始めた。
「なぜ福井に?」
香織が答えた。お腹に手を当てながら、少し照れくさそうに。
「総理談話を聞いて、考えが変わったんです。東京で子育ては無理だって」
翔太が補足した。椅子に座り直し、真っ直ぐ北川を見る。
「それに、3世代同居加算も始まるって聞いて。月3万円は大きいです」
幸子が茶を運んできた。湯呑みを置く手が、微かに震えている。嬉しさを隠しきれない。
「息子が帰ってきて、家が明るくなりました。孫も生まれるし」
取材が一段落した後、翔太が庭に出た。母の幸子が畑でナスを収穫している。
「手伝うよ」
土に触れながら、翔太は不思議な感覚を覚えた。東京では週末にジムで2時間汗を流し、プロテインを飲み、フィットネスアプリで消費カロリーを記録していた。月会費は15,000円。それが「健康的な生活」だと信じていた。
でも、このナスを収穫する作業。腰は痛いし、手は汚れる。アプリには記録できない。誰も「いいね」をくれない。なのに、なぜか充実感がある。
「ナスのトゲ、痛いでしょ」
母の言葉に、翔太は気づいた。この小さな痛みさえ、リアルだ。土の匂い、母の笑顔、遠くで鳴く鳥の声。これらは誰かが用意したコンテンツではない。ただ、そこにあるものだ。
「東京では野菜も宅配で買ってた。オーガニックの」
「自分で作った方が美味しいよ」
幸子の言葉はシンプルだった。でも、翔太にはその意味が分かった。消費することと、生み出すことの違い。与えられる楽しみと、自ら作り出す喜びの違い。
北川は、親子のやり取りを遠くから見ていた。Wi-Fiルーターが設置された古い農家。最新のエアコンと、仏壇が同じ部屋にある。東京と地方、現代と伝統が混在している。しかし、本当に大切なものは、もしかしたら変わっていないのかもしれない。
◆ 9月20日(月)午後4時
◇ 福井市 ショッピングセンター
北川は、買い物客でごった返すショッピングセンターを歩いていた。
マタニティコーナーが、明らかに拡張されている。以前の倍以上の売り場面積だ。妊婦服を選ぶ女性たちで賑わっている。
「今年は例年の3倍売れてます」
店員の言葉を聞きながら、北川はフードコートに向かった。
そこで見た光景に、息を呑んだ。
平日の午後だというのに、妊婦たちでほぼ満席。マタニティマークをつけた女性たちが、あちこちのテーブルで談笑している。時折見える子連れは、総理談話以前からの子供たちだ。
隣のテーブルでは、妊婦同士が情報交換していた。
「産婦人科、どこにした?」
「福井日赤。でも、もう予約いっぱいみたい」
「県立病院も同じ。来年の春は、出産ラッシュになりそう」
北川は、その会話を聞きながら記事の構想を練った。「福井に訪れた第二次ベビーブーム」。見出しが頭に浮かぶ。
◆ 10月10日(日)午後2時
◇ 武生高校 同窓会館
衆議院解散から3日後。武生高校の同窓会館で、臨時の集まりがあった。
北川が会場に入ると、すでに20人ほどが集まっていた。地元の経営者、市議会議員、県議会議員、県庁職員。武生高校OBの、地域の実力者たちだ。福井市在住者も多く、1区と2区の有力者が混在している。
入口近くでは、衆議院議員だった古川慶一(61期生)が、支援者らしき人々と談笑していた。
「いやあ、3日前から失業中でしてね」
古川が笑いながら言うと、周りから軽い笑い声が起きた。解散で失職したばかりだが、その表情は自信に満ちている。再選は確実視されているのだろう。
その中心に、藤原健一がいた。
47歳。髪に白いものが混じり始めているが、背筋は真っ直ぐだ。東京の官僚らしい、きちんとしたスーツ姿。
「北川、久しぶりだな」
藤原が手を差し出してきた。その握手は、思ったより力強い。
「20年ぶりか?東京はどうだ?」
「もう疲れたよ」
藤原の表情に、一瞬影が差した。すぐに消えたが、北川は見逃さなかった。
大塚が缶ビールを持ってきた。
「藤原が福井に戻ってくるらしいぞ」
周りがざわついた。東大から厚労省という、地元の誇りだった男が帰ってくる。それは大きなニュースだ。
藤原が苦笑した。缶ビールを受け取りながら。
「まだ決めてない。ただ、来年の春頃には...」
「何があった?」
北川の問いに、藤原は窓の外を見た。武生の街並みが、秋の陽光に照らされている。
「総理談話の裏側を、全部見てきた。これから日本に何が起きるか、大体分かる」
その声は、疲労と諦観に満ちていた。
「だから?」
「だから、地元で家族と過ごしたい。子供たちに、故郷を見せたい」




