第8章 抵抗者たち(5)2027年8月5日 新宿・再び小さなバー
◆ 2027年8月5日 新宿・再び小さなバー
3ヶ月ぶりに、抵抗者たちが集まった。
しかし、メンバーは減っていた。
沙耶香がグラスを両手で包むように持ちながら、静かに口を開いた。西村からの連絡——職場の同僚から言い寄られて、周囲の圧力にも耐えきれず、ついに結婚を決めたという報告。
(「向こうから言い寄られて」——その時の西村の声には、言い訳めいた響きがあった。きっと、疲れた時に優しくされて、いい匂いに包まれて、「これでもいいか」と思ったのだろう。36歳の自分には、その弱さを責める資格はない。むしろ羨ましいとさえ...いや、そんなことを考えてはいけない)
沙耶香は軽く頭を振って、事実だけを淡々と伝えた。田辺も小林の婚活開始を告げた。5人いた仲間は、もう3人しかいない。
「私たちも、いずれ...」
山田の声が震えた。カウンターに置いた手が、微かに痙攣している。
田辺が心配そうに覗き込んだ。「山田、あなたは?」
長い沈黙。バーの時計の音だけが、規則正しく時を刻む。山田はようやく顔を上げた。その目に涙が滲んでいる。
「実は...偽装結婚を考えています」
二人の息を呑む音が、静寂を破った。山田は震える声で続ける。レズビアンの友人との取り決め。互いの生存のための妥協。でも、彼女の中にも葛藤がある——「種さえあれば産める」という可能性が、二人の立場を決定的に分けていく。
「分断が始まってるんです」
山田の拳がテーブルを軽く叩いた。グラスの氷が小さく鳴る。
「ゲイは絶対に産めない。でもレズビアンは産める。同じLGBTの中でも、『生産性』で序列ができ始めている」
田辺がスマートフォンを取り出し、SNSの画面をスクロールしながら重い口を開いた。「確かに、最近では『レズビアンカップルの出産は社会貢献』という論調が...」
山田の肩が小刻みに震えた。「僕たちゲイは、完全に『非生産的』のレッテルを貼られる」
窓の外を、若いカップルが手を繋いで通り過ぎていく。沙耶香は、その幸せそうな姿を見つめながら思った。あの中に、どれだけの偽装があるのだろうか。
◇ 政府回答という追い打ち
田辺が突然、スマートフォンの画面を見つめたまま固まった。その表情が見る見る青ざめていく。
「どうしたんですか?」沙耶香が身を乗り出した。
「今日...政府が国連への回答を公表したようです」
田辺の指が震えながら画面をスクロールする。外務省のウェブサイトにひっそりと掲載された文書。霞が関文学の粋を集めたような、巧妙な言い回しの連続。
「これ...見てください」
田辺がスマートフォンを二人の間に置いた。画面を覗き込む沙耶香と山田。三つの頭が寄せ合わさり、小さな光に照らされた文字を追っていく。
『日本政府の回答(仮訳)
1. 日本政府は、すべての人の尊厳と権利を尊重することの重要性を十分に認識している。LGBT当事者を含むすべての国民が、その性的指向・性自認にかかわらず、法の下に平等であることは、我が国憲法の基本理念である。
2. 日本政府は、2023年に「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律」を制定し、理解増進のための施策を推進してきた。この取組は今後も継続される。
3. 他方、日本は深刻な少子高齢化に直面しており、持続可能な社会保障制度の構築が喫緊の課題となっている。この文脈において、政府による家族支援策は、実際に子どもを養育する世帯への支援に重点を置くこととなる。
4. これは特定の属性を持つ個人への差別を意図するものではなく、限られた財政資源を最も効果的に配分するための政策的判断である。なお、養育する子どもの有無は、婚姻形態や性的指向とは独立した基準である。
5. 同性カップルの養子縁組、生殖補助医療へのアクセス等については、国民的議論を踏まえつつ、引き続き慎重に検討を進めている。』
山田はスマートフォンの画面を睨みつけていた。外務省のウェブサイトに掲載された回答書。何度読み返しても、怒りが込み上げてくる。
「『養育している子どもの数』って...」
声が震えている。手にしたグラスの表面に、水滴が浮いていた。
「僕たちゲイには絶対に不可能じゃないか」
田辺がタブレットを取り出し、同じ文書を開いた。弁護士として数々の法的文書を分析してきた経験から、文章の構造を読み解いていく。
「巧妙ですね」
静かな声だが、そこには冷ややかな怒りが潜んでいた。
「表向きは『性的指向による差別はしない』と言いながら、『子どもの有無』という別の基準を使って、実質的にLGBTを排除している」
田辺が資料から顔を上げ、皮肉な笑みを浮かべた。弁護士として数々の詭弁を見てきたが、これほど露骨なものは珍しい。
「『婚姻形態や性的指向とは独立した基準』...」
その部分を指でなぞりながら、首を振る。
「これを書いた官僚、自分でも笑いをこらえてたんじゃないですか?」
田辺は静かに首を振った。
「いや、彼らは本気でしょう。論理的には間違ってない、と本当に信じている」
一呼吸置いて、続けた。
「それが一番怖い」
田辺はスマートフォンで憲法14条の条文を検索した。法の下の平等。しかし、判例の積み重ねが示す現実は...
「でも、法的には反論が難しい」
溜息混じりにスマートフォンを置く。
「『子どもは公共財で、次世代の納税者。その養育に国家予算を投入するのは合理的』という論理は...」
言いかけて、苦い表情を浮かべた。
「実際、その通りだから」
山田が缶コーヒーをテーブルに置く音が、バーの静寂に響いた。
「じゃあ、僕たちは社会に貢献していないと?」
怒りを抑えようとしているが、声が上ずっている。
田辺は指を組み、しばらく言葉を選んでいた。50年の人生で培った慎重さが、軽率な発言を許さない。
「法的な観点から言えば...」
ゆっくりと、まるで地雷原を歩くように言葉を紡ぐ。
「現在の貢献と将来の負担は分けて考える必要があります」
沙耶香が身を乗り出した。ライターとして、曖昧な表現は許せない。
「どういうことですか?」
田辺は組んでいた指を解き、テーブルに両手を置いた。これから話すことの重さを、その仕草が物語っている。
「現役時代は誰もが納税者として貢献している。それは間違いない」
一拍置いて、核心に触れる。
「しかし、世代間扶養という年金システムの前提では...」
言葉が途切れた。沙耶香が静かに引き取る。
「問題は老後ですよね」
窓の外を見ながら、まるで遠い未来を見つめるように続けた。
「私たちは誰かの年金や介護を一方的に受け取る立場になる。でも、それを支える次世代を用意できない」
田辺が結論を述べる番だった。
「世代間の互酬性が成立しない、ということです」
山田が困惑したように聞き返す。
「ごしゅうせい?」
田辺の頬が緩んだ。職業病だ。
「あ、すみません。つい法律用語が」
手をひらひらと振りながら、言い直す。
「要は『お互い様』が成り立たないってことです。子育て世代は、自分の親を支えながら、子どもという『将来の支え手』も育てている」
山田の表情から、怒りが消えていた。代わりに浮かんだのは、深い諦念。
「つまり、僕たちは受け取るだけ、と」
それは質問ではなかった。自分で出した答えの確認だった。
田辺はゆっくりと頷いた。嘘で慰めることはしない。それが彼の誠実さだった。
「残酷ですが、それが政府の論理です」
テーブルを軽く叩きながら、続ける。
「そして裁判所もおそらくこの論理を支持する。『差別的効果があっても、目的が正当で手段が合理的なら違憲ではない』と」
沙耶香は、ずっと黙って聞いていた。そして、小さく、しかしはっきりと言った。
「つまり、私たちは論理で負けている」
その言葉が、バーの空気に溶けていった。
重い沈黙。それは単なる静寂ではなかった。感情では反発しても、論理では反論できない。その矛盾に押し潰されそうな、息苦しい沈黙だった。
山田はグラスを手に取ったが、飲まずにまた置いた。田辺は両手を組んで、天井を見上げていた。沙耶香は窓の外を見つめたまま動かなかった。
それが、最も辛い現実だった。




