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第8章 抵抗者たち(4)2027年7月28日 西村からの相談

◆ 2027年7月28日 西村からの相談


沙耶香のスマートフォンが震えた。西村からのメッセージ。


画面に浮かぶ「相談があります。二人だけで会えませんか」という文字を、何度も読み返した。句読点の位置、改行の仕方、いつもと違う。焦りと迷いが文面から滲み出ている。嫌な予感が胸を締め付けた。


翌日、渋谷の喫茶店。


ドアベルが鳴り、西村が入ってきた。沙耶香は一瞬、間違えそうになった。髪を短く切り、薄いピンクのシャツを着ている。1ヶ月前の疲れた研究者の面影はない。頬には少し血色が戻り、新しい眼鏡をかけていた。何か生活に変化があったのは明らかだった。


窓際の席に着くなり、西村は視線を落とした。両手でコーヒーカップを包み込む。その手が微かに震えていた。外見は整えても、内心の葛藤は隠せない。スプーンが受け皿に当たる小さな音が、二人の間の緊張を物語っていた。


「実は...結婚を考えています」


沙耶香の背筋が凍った。予感は的中した。


「え、でも西村さんは...」


「職場の同僚です。向こうから言い寄られて」


西村の声が上ずった。慌てて咳払いをする。沙耶香は黙って相手を観察した。視線は宙を泳ぎ、決して目を合わせようとしない。人差し指がカップの縁を何度もなぞる。規則的な円運動。自己暗示のように、同じ動作を繰り返している。


(言い寄られて——その言葉の裏に、何があったのか。きっと残業で疲れた夜、優しく声をかけられて。「大丈夫?」と肩に手を置かれて。その温もりと、香水の匂いに...)


西村が言葉を探すように天井を見上げた。蛍光灯の光が、整えられた髪型を照らし出す。


「僕のデータ分析、覚えていますか。総理婚の統計」


指がテーブルの上で、見えないキーボードを叩く動作をした。データアナリストの癖だ。


「あれを作っているうちに、自分も統計の一部になるのかもしれないと」


口元に浮かんだ笑みは、自嘲とも諦念ともつかない。沙耶香は思わず身を乗り出した。椅子が軋む音が、静かな店内に響いた。


「でも、それは本当に西村さんの選択ですか?」


問いかけながら、沙耶香は自分の偽善を感じていた。36歳独身の自分に、誰かの選択を責める資格があるだろうか。もし今、誰かが優しく言い寄ってきたら、自分は拒めるだろうか。


西村が顔を上げた。新しい眼鏡の奥で、目が揺れていた。


「選択?」


西村の声が裏返った。震える手でカップを持ち上げる。


「もう分からないんです」


コーヒーを口に運ぶ。一口飲んで、顔をしかめた。苦い。いつも砂糖を三つ入れるのに、今日は忘れていた。そのまま飲み込む。喉を通る熱い液体の感覚だけが、現実を教えてくれる。


「職場では独身者への風当たりが日に日に強くなって。『まだ結婚しないの?』『相手を紹介しようか?』毎日です。そんな時に、彼女が...」


言葉が途切れた。西村の頬が、かすかに赤らんだ。


(ああ、もう落ちているんだ。理性では抵抗しようとしているけど、体は、心は、もう...)


沙耶香は何も言えなかった。言葉を探したが、見つからない。慰めも、叱責も、全てが空虚に思えた。


「森田さん、僕は臆病者です」


西村がつぶやいた。自己憐憫ではなく、単なる事実の確認のように。


西村がピンクのシャツの襟元を直した。無意識の動作だろう。背もたれに寄りかかり、深く息を吐く。窓の外を行き交う人々を眺めた。


「でも、もう疲れました。抵抗するより、流される方が楽なんです」


沙耶香の指が、膝の上で握り締められた。爪が手のひらに食い込む。痛みで自分を保とうとするかのように。複雑な感情が胸を締め付ける。軽蔑?同情?それとも...羨望?


(少なくとも西村には、流される先がある。自分には、それすらない)


喫茶店の BGM が、場違いに明るいジャズを奏でていた。


「8月5日の会合には、もう参加できません。裏切り者と思われても仕方ない」


西村が席を立った。伝票に手を伸ばそうとして、沙耶香が制した。せめてもの餞別。西村は小さく頭を下げて、ドアへ向かった。


ドアの前で、西村が振り返った。逆光で表情は見えない。黒いシルエットだけが、そこに立っていた。


「森田さんたちは強い」


声が震えた。言葉を続けようとして、唇が動く。でも音にならない。数秒の沈黙。


「でも、僕にはもう無理です」


最後の言葉は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。西村がドアを押し開ける。チリン、とドアベルが鳴った。優しい音色が、決定的な別れを告げていた。


沙耶香は一人残されて、冷めていくコーヒーを見つめた。強い?いや、違う。ただ、流される場所すら見つからないだけだ。


(西村さんの「彼女」は、どんな女性なんだろう。優しくて、いい匂いがして、疲れた男を包み込むような...)


不意に、激しい孤独が襲ってきた。36歳。誰も言い寄ってこない。誰も求めてこない。それが「強さ」だと言うのなら、なんと皮肉な強さだろう。


それが、西村との最後の会話になった。



◆ 2027年8月1日 オンライン署名活動


「#独身の尊厳」運動は、Change.orgで署名活動を開始した。


『独身税導入に反対します────すべての人の生き方を尊重する社会を』


初日で1万人、1週間で5万人の署名が集まった。


しかし、批判も殺到した。


「国の未来を考えない自己中心的な連中」

「少子化で日本が滅んでもいいのか」

「独身貴族の甘え」


SNSは、賛成派と反対派の罵り合いの場と化した。


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