第7章 総理婚ラッシュ(6)7月1日(金) 新たな動き
◆ 7月1日(金) 新たな動き
朝一番のメールチェック。美咲の指が、マウスの上で止まった。
全国結婚相談業連盟からの一斉送信。件名は『総理婚現象に関する学術調査への協力依頼』。普段なら読み飛ばす類のメールだが、添付されたPDFのヘッダーに厚生労働省と内閣府のロゴが並んでいるのを見て、背筋が伸びた。
研究代表者:東京大学社会科学研究所 杉浦美央子教授
実務担当:片瀬朔実助教
美咲は受話器を取り上げた。連盟の担当者への電話。呼び出し音を聞きながら、窓の外を見る。新宿の朝の風景は、いつもと変わらない。でも何かが違う。
「この調査、参加は任意ですか?」
受話器から明るい声が漏れた。
「もちろん任意です。ただ、多くの相談所様にご協力いただければ、より精度の高いデータが集まりますので」
丁寧な口調。書類をめくる音が聞こえる。
「現在、全国の相談所の約7割が参加表明されています。皆様、日本の将来のためにという思いで」
美咲は素早く計算した。調査協力のメリットとデメリット。
(政府後援の調査に協力すれば、うちの信頼性も上がる。ホームページに「政府調査協力店」って書けるし。それに、全国のデータ分析結果を共有してもらえるなら、今後のマーケティングにも使える)
「ところで、協力店には調査結果の詳細データも提供されるんですよね?」
「はい、もちろんです。地域別、年齢別の詳細な分析レポートを」
(それなら価値がある。無料で市場調査ができるようなものだ)
「分かりました。協力させていただきます」
「ありがとうございます!データの取り扱いについては、後日詳しい説明書をお送りしますね」
別のメールも届いていた。片瀬朔実からの個別連絡。
『ハッピーマリッジ新宿・佐藤様』
他人行儀な書き出し。でも最後の一文に、何か切実なものを感じた。
『日本の未来のために、データが必要なのです』
美咲は返信ボタンに手を伸ばしかけて、止めた。どうせ協力せざるを得ない。ならば、せめて顧客たちのプライバシーは守り抜く。それが自分にできる、唯一の抵抗かもしれない。
◆ 7月10日(日) 海の日の誓い
湘南海岸。
数百組のカップルが集まっていた。「総理婚カップル湘南の集い」。4月以降に結婚した人々の交流イベントだ。
美咲も、仕事として参加していた。
ステージに、田中雄太と麻衣が上がった。妊娠3ヶ月、まだお腹は目立たない。
「みなさん、『総理婚』って呼ばれるの、嫌じゃないですか?」
雄太の問いかけに、会場から「そうだ!」という声が上がる。
「でも、僕は思うんです。きっかけは何でもいい。大切なのは、これから」
麻衣がマイクを取った。
「私たち、『令和の団塊世代』を作るんです。この子たちが大人になる時、『あの時のお父さんお母さんの決断は正しかった』って言われるように」
会場から拍手が湧き起こった。
海風に混じって、若い男性の声が響いた。拳を突き上げる影が、夕陽に照らされて伸びる。
「総理婚、万歳!」
「令和ベビー、万歳!」
美咲は、その光景を見ながら思った。
これは本当に幸せなのだろうか。それとも、国家に操られた集団幻想なのだろうか。
◆ 7月20日(水) データが示す未来
美咲のメールボックスに、東京大学社会科学研究所からの一斉メールが届いた。
【総理婚現象追跡調査 中間報告】
送信者:片瀬朔実(東京大学社会科学研究所)
宛先:調査協力結婚相談所各位
『調査にご協力いただいている皆様へ
お世話になっております。総理婚現象に関する追跡調査の中間集計が完了しましたので、ご報告いたします』
添付されたPDFを開く。グラフと数字が並んでいた。
総理婚カップルの特徴(全国集計)
- 平均希望子供数:3.2人
- 妊娠率(3ヶ月以内):48%
- 離婚検討率:12%
- 生活満足度:意外にも72%が「満足」
美咲は数字を見つめた。自分の相談所のデータとも符合している。
PDFにはさらに、地域別の詳細データも含まれていた。
地域別申込み率(4-6月)
- 新宿区:前年同期比 420%
- 渋谷区:前年同期比 395%
- 世田谷区:前年同期比 285%
- 港区:前年同期比 268%
美咲は数字を見つめた。自分の相談所がある新宿が最も高い。なぜだろう。人口密度?若年層の多さ?それとも別の要因が...
窓の外を見る。朝の新宿駅前。通勤客の流れの中に、時折、段ボールを抱えた高齢者の姿が見える。
(まさか、それが関係している?いや、考えすぎか)
メールの最後には、お決まりの文言が並んでいた。
『なお、個別のご質問については、下記の問い合わせフォームよりお願いいたします。
東京大学社会科学研究所 総理婚現象調査事務局』
美咲はPDFを保存し、メールを既読にした。一斉送信の報告書。それ以上でも以下でもない。
ただ、データを見ていて思った。この片瀬という研究者は、数字の向こうにある人間の姿を、どこまで見ているのだろうか。
◆ 7月31日(日) 夏の終わりに
7月最後の日曜日。
美咲は、一人で事務所にいた。
4ヶ月で、新規登録者は500人を超えた。通常の年の3倍のペースだ。
成婚カップルは80組を超えた。通常なら1年かかる成果を4ヶ月で達成している。みんな、決断が早くなった。
でも、本当に彼らを幸せにできたのだろうか。
スマートフォンが鳴った。小林翔からだった。
「美咲さん、報告です。さくらが妊娠しました!」
また一組、総理ベビーの親になる。
「おめでとうございます」
「美咲さんのおかげです。あの日、相談に来て良かった」
電話を切った後、美咲は窓の外を見た。
新宿の街は、相変わらず人で溢れている。
でも、その多くが、左手の薬指に指輪を光らせている。
4ヶ月前には考えられなかった光景だ。
ノートパソコンを開き、8月の予定を確認する。
相談予約は、すでに3,000件を超えていた。
総理婚ラッシュは、まだ終わらない。
いや、これは始まりに過ぎないのかもしれない。
美咲は、深呼吸をした。
明日から、また新しい「決断」に立ち会うことになる。
その一つ一つが、日本の未来を作っていく。
良くも、悪くも。
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(第7章 完)




