第1章 極秘試算(4)◆7 過去の警告
◆ 7 過去の警告
「入省して3年目かな。2006年。まだ主査にもなっていない頃」
当時の藤原は26歳。東大法学部を卒業して、意気揚々と厚労省に入った。日本の社会保障を支えるという使命感に燃えていた。
配属は年金局。最初の仕事は、年金財政の長期推計だった。
「エクセルと格闘する日々だったよ。当時はまだAIなんて実用化されていなかった。手作業で、膨大なデータを処理した」
藤原は、缶コーヒーを一口飲んだ。苦い味が、記憶を呼び覚ます。
「そして、ある日、気づいた。このままでは、2040年に破綻する、と」
山田が息を呑んだ。「20年も前に?」
「ああ。50ページのレポートを書いた。グラフ、表、数式。すべてのデータが、同じ結論を示していた」
藤原は、窓ガラスに映る自分の顔を見た。20年前より、確実に老けている。額のしわ、白髪、疲れた目。時間は、確実に流れている。
「上司の課長補佐に提出したら、3日後、局長室に呼ばれた」
「局長に?」
「当時の年金局長、今は退官している田村さんだ。そして同席していたのが、現在の厚生労働審議官の佐々木」
藤原は、その時の光景を鮮明に覚えている。局長室の重厚な扉。ノックする時の緊張。そして、田村局長の疲れ切った顔。
「田村局長は言った。『藤原君、君は優秀だ。東大法学部出身、将来の事務次官候補だ』と」
「それで?」
「『でも、優秀すぎる』と言われた。そして、佐々木課長補佐(当時)が私のレポートをシュレッダーにかけた」
山田が驚いた。「シュレッダーに?」
「目の前でね。ガガガッという音を立てて、私の50ページが細切れになっていった」
藤原は、その時の無力感を思い出した。自分の分析が、努力が、真実が、ゴミになっていく。
「佐々木課長補佐は言った。『これは君のキャリアのためだ。このレポートを出せば、君は不都合な真実を語る面倒な奴というレッテルを貼られる』と」
「でも、国民には真実を」
「『国民は真実なんて求めていない。安心を求めている』それが、田村局長の答えだった」
山田は黙り込んだ。そして、小声で聞いた。
「藤原さんは、後悔していますか?」
藤原は、しばらく考えた。
「後悔...そうだな。あの時、もっと強く抵抗すべきだったかもしれない。でも、26歳の私には、その勇気がなかった」
「でも、今は違う」
「ああ。今は違う。47歳になって、ようやく真実を語る勇気を持てた。遅すぎたかもしれないが」
山田は、藤原の横顔を見た。そこには、20年間の苦悩と、そして決意が刻まれていた。
「藤原さん」山田が言った。「私も、真実を語る勇気を持ちたい」
藤原は、山田の肩に手を置いた。
「山田君、君ならできる。君は、私より優秀だ」
二人は、静かに缶コーヒーを飲み干した。
そして、会議室に戻った。真実と向き合うために。
◆ 8 地域格差の現実
会議室に戻ると、若手たちが新しいシミュレーションを走らせていた。
「藤原さん、面白いデータが出ました」
鈴木がモニターを指さす。
「地域別の分析をしてみたんです」
日本地図が表示されている。色分けされた都道府県。赤から青へのグラデーションが、まるで体温計のように、日本の健康状態を示している。
「赤いところが?」
「出生率1.0以下です。東京0.85、大阪0.92、京都0.89、福岡0.94」
大都市圏が真っ赤に染まっている。まるで、日本列島が出血しているかのように。
「逆に、青いところは?」
「1.5以上。沖縄1.68、福井1.52、山形1.51、島根1.50」
「地方の方が子供を産んでいる」
「ええ。でも、人口の7割は赤い地域に住んでいます」
藤原は、データを見つめた。福井。自分の故郷だ。
福井の出生率が高い理由を、藤原は知っている。3世代同居が多い。祖父母が孫の面倒を見る。保育園の待機児童もいない。地域全体で子育てをする文化がまだ残っている。
でも、若者は東京に出ていく。大学進学、就職。そして、戻ってこない。
「藤原さん」小林が声をかけた。「これを逆手に取れば」
「何か考えがあるのか?」
「はい。もし、3世代での近居・同居に大規模なインセンティブを与えたら」
小林は新しいシミュレーションを開始した。若い指が、キーボードを踊るように叩く。
「都市部での3世代近居に月5万円の補助」
「親世代の都市部移住支援、または子世代の地方移住支援」
「どちらを選んでも住宅補助」
「子供3人以上で所得税免除」
次々と条件を入力していく。
画面に、新しい未来が描かれていく。出生率の上昇カーブ。3世代での子育て支援。
そして、一つの解が出た。
【出生率2.1達成に必要な条件】
1. 3人以上の出産を標準化:全出産の40%以上
2. 婚姻率を70%以上に引き上げ
3. 初産年齢を25歳に引き下げ
4. 3世代近居率(同一市区町村内)を50%以上に
「不可能だ」
岡田が呟いた。
その一言に、会議室の空気が再び重くなった。
「でも」小林が反論する。「フランスは似たような政策で」
「フランスは移民を受け入れた」藤原が言った。「しかも、旧植民地からの移民だ。言語も文化もある程度共有している。日本にはそんな基盤がない」
「それに」鈴木が付け加えた。「移民は、その国で20年以上かけて育成された人材を奪うことでもある。倫理的にも問題がある」
沈黙。
誰も答えられない。日本人の心の奥底にある、外国人への恐怖。それを乗り越える覚悟が、この国にあるのか。