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第7章 総理婚ラッシュ(1)

◆ 2027年4月2日(金)午前8時30分


◇ 東京・新宿 結婚相談所「ハッピーマリッジ新宿」


佐藤美咲は、いつもより30分早く事務所に到着した。


38歳。5年前に独立して、この結婚相談所を開業した。普段なら金曜日の朝は9時開店だが、昨夜から携帯に届いたLINEやメールの数が尋常ではなかった。


ドアの前に、すでに10人ほどが並んでいた。


「あの...まだ開店前ですが」


最前列の男性——30代後半のスーツ姿——が前のめりに出た。声が上ずる。


「すみません、でも、どうしても今日中に登録したくて」


美咲は時計を見た。8時32分。


昨夜、総理の会見を最後まで見た。そして、NHKの緊急討論も。専門家たちが口々に「もう時間がない」「今すぐ行動を」と繰り返す姿に、何かが変わる予感がした。


でも、まさかこんなに早く、こんなに多くの人が。


「...分かりました。今すぐ開けます」


列の人々から安堵のため息が漏れた。


事務所に入り、パソコンを起動する。メールボックスには87件の未読メール。昨夜18時以降に集中している。件名を見るだけで、事態の深刻さが分かった。


「至急登録希望」

「本日中に面談を」

「もう時間がありません」

「助けてください」


美咲は深呼吸をした。


(これは...何かが始まっている)



◆ 午前9時 本格的な混乱


「お待たせしました。順番に受付いたします」


開店時刻になる頃には、列は建物の外まで伸びていた。30人は超えている。金曜日の朝、新宿の雑居ビルに、これだけの人が結婚相談所に並ぶ。明らかに異常事態だった。


最初の客は、先ほどの30代男性だった。


スーツ姿の男性は、少し疲れた様子で椅子に座った。登録用紙に記入する手元を見ると、年収欄に「520万円」と書かれている。


「ご希望の条件は?」


「...正直、今まで高望みしすぎていたのかもしれません」


男性は苦笑いを浮かべた。


「昨日の総理の談話、衝撃的でしたね。年金の話とか。今まで『いつかは』って思ってたけど、もう38歳ですし」


美咲は頷きながら、端末に情報を入力した。


「確かに昨日から問い合わせが急増していますが、焦らずに...」


「いや、焦ってるわけじゃないんです」


男性は首を振った。視線は落ちたまま。手元の登録用紙の角を、無意識に指でなぞっている。


「むしろ、やっと現実的になれたというか。今まで理想ばかり追いかけてたけど、普通に支え合えるパートナーがいればそれでいいんだって」



◆ 午前10時 ペアーズ本社の混乱


恵比寿ガーデンプレイスタワー18階、マッチグループジャパン。


サーバールームのモニターが赤一色に染まっていた。エンジニアの小林達也(28歳)は、徹夜明けの目をこすりながらキーボードを叩いていた。


「同時接続数50万突破。CPU使用率99%」


隣のデスクで、佐藤の声が跳ね上がった。椅子を蹴って立ち上がる音。


「AWSのオートスケールが追いつかない!手動でインスタンス追加してるけど限界です!」


ドアが勢いよく開き、CTOの中野が駆け込んできた。シャツの襟元を正しながら、モニターを覆い込むように見つめる。


「現在のステータスは?」


小林の指がキーボードを走り続ける。画面から目を離さない。


「9時42分からアクセスが急増。通常の50倍です。ログイン試行が1秒間3000件。新規登録が10分で1万人ペース」


「1万人!?」


中野がスマートフォンを取り出した。Twitterのトレンド1位は「#ペアーズ落ちた」。


「一時的にサービス停止するか?」


エンジニアたちが一瞬顔を見合わせた。佐藤の指がキーボードから離れ、宙に浮く。


「今止めたら、他のアプリに流れます。競合も全部落ちてますが、うちが先に復旧すれば────」


その時、モニターの一つが真っ黒になった。


「データベースサーバー1号機、ダウン!」


> @salaryman_42

> 「昨夜彼女にプロポーズした。『年金のため?』って聞かれて『それもある』と正直に答えた。でも彼女は『いいよ』と言ってくれた。午後、区役所行きます」

> d(´∀`*)3.2万 RT1.8万


> @office_lady_28

> 「マッチングアプリ、いきなり本気の人増えた。『年収』『子供希望』『親との同居』とか、初回メッセージで聞いてくる。でも正直、効率的かも」

> d(´∀`*)2.3万 RT8,500


小林が画面から目を離さずに呟いた。


「これ...本当に起きているんですね」


佐藤の肩が小さく震えた。笑いとも疲労ともつかない。「『総理婚』がトレンド1位。うちのサービス名より上ですよ」



◆ 午前11時 田中雄太と山本麻衣の入籍


テレビのワイドショーが、速報を流した。


『総理談話後初の「スピード婚」カップル、本日入籍!渋谷区役所前から中継』


画面には、渋谷区役所前に詰めかけた報道陣が映っている。その中心に、田中雄太(29歳)と山本麻衣(27歳)の姿があった。二人は昨日の総理談話を見て、その夜のうちに結婚を決意したという。


「おめでとうございます!入籍の決め手は?」


雄太は少し考えるような間を置いた。麻衣の手を握る力が、わずかに強くなる。


「正直に言います。総理の談話がなければ、まだ2、3年は付き合ってから考えたと思います。でも、もう時間がない。彼女を愛しているし、一緒に生きていきたい。それが今日という日になっただけです」


麻衣が雄太の手を握り締めた。


「『総理婚』って言われるのは嫌です。でも、きっかけが何であれ、私たちの気持ちは本物です。これから3人、いえ、4人の子供を育てたいと思っています」


スタジオからは拍手が起きた。


美咲の事務所でも、待合室にいた人々がテレビに釘付けになっている。


待合室の隅で、男性の一人がスマートフォンから顔を上げた。その呟きは、誰に向けたものでもなかった。


「勇気もらえるな」



◆ 午後1時 緊急対策会議


ペアーズ本社、役員会議室。


「10時43分から12時58分まで、完全にサービス停止しました」


CTOの中野が報告した。CEOの藤田は腕を組んで考え込んでいる。


「現在の状況は?」


中野の声は低く抑えられているが、その手はすでにスマートフォンを握りしめていた。


「サーバーを増強して、一応復旧しました。ただし、同時接続数30万人が限界です。通常の10倍ですが、今の需要には追いついていません」


マーケティング部長がタブレットを見せた。


「今日だけで新規登録が15万人。通常の1ヶ月分です。『総理婚』という言葉がトレンド入りして、うちのアプリがその代名詞になっています」


藤田が突然立ち上がった。


「これはチャンスだ。一時的な障害より、この流れを掴む方が損失が大きい。今日中にAWSを全力で拡張。明日までには安定させろ」


「歴史的な一日になりそうですね」


CTOの中野が窓の外を見た。恵比寿の街並みが、いつもと同じように広がっている。しかし、何かが確実に変わりつつあった。


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