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第6章 メディアと現実(10)控室の真実(4月1日 24時10分)

◆ 控室の真実(4月1日 24時10分)


出演者たちは控室に戻った。三輪と守本は荷物をまとめて先に退出。上原、杉浦、兼松の3人が残された。


「杉浦先生、さっきは本当にすみませんでした。勝手に犠牲だなんて...」


兼松が最初に口を開いた。彼の表情には申し訳なさが滲んでいた。


「いえいえ、大丈夫です。私自身が統計的に完全な外れ値ですから」


杉浦は苦笑しながら、まるで暗記していたかのようにスラスラと続けた。


「子供4人なんて、日本人女性なら30人に1人、大卒以上に限ると60人に1人くらいですが...」


少し首を傾げて、


「大学教員となると、私以外に実例を知りません」


そう言って小さく笑った。自虐的だが、どこか誇らしげでもあった。


上原は無言で荷物をまとめていた。他の出演者たちに背を向け、一人だけ別の世界にいるようだった。立ち去ろうとする彼女の背中に、杉浦が声をかけた。


「上原先生、私、先生の著書全部読んでます。学生時代から」


上原が立ち止まり、振り返らないまま、その場に固まった。


「それで?4人も産んで、私の理論を否定しに来たの?」


上原がようやく振り返った。その声は冷たく、目には複雑な感情が渦巻いていた。


「違います。先生がいたから、私は安心して4人産めたんです」


杉浦は眼鏡を直しながら、真っ直ぐに上原を見つめた。控室の空気が変わった。上原の表情に初めて動揺が走る。


「どういう意味?」


「先生が『女性には選択の自由がある』と言い続けてくれたから、私は『産んで、育てない』という選択ができた。罪悪感なく、実母と義母に預けられた」


兼松が驚きの声を上げそうになったが、杉浦は続けた。データの話になると、彼女の目が輝く。


「データで見れば、1970年代と2020年代で祖父母の育児参加率は15%から42%に上昇。これは女性の選択肢が増えた結果です」


「でも、あなたは恵まれていただけよ。母親が2人もいて」


上原の声には苦さが混じった。


「はい、外れ値です。統計的に。でも外れ値も、n数が増えれば...あ、すみません」


杉浦はあっさりと認めた。


「先生、それいわゆる過集中では...」


「診断済みです。薬も飲んでます。だから4人も産めたのかも。"衝動性"が強くて」


あまりにもさらりとしたカミングアウトに、上原が振り返った。


「...あなた、本当に学者?」


「学者だから4人産めたんです。データ分析は家でもできますから」


控室のテレビに総理談話のニュースが流れ、支持率78%という数字が表示された。杉浦の目が吸い寄せられる。


「この標本誤差を考慮すると...」


上原は静かにため息をついて、荷物をまとめ始めた。79歳の体には、2時間の激論は堪えたようだ。


「上原先生」


杉浦が呼び止めた。


「なに?」


「選択の自由って、産まない自由だけじゃない。産む自由、産みまくる自由、産んで育てない自由も含むんです。それを教えてくれたのは、先生です」


杉浦の声が、急に真剣になった。上原は立ち止まった。振り返らないまま、静かに言った。


「今夜は...ありがとう」


それは批判でも皮肉でもなかった。50年の信念を揺さぶられた夜、しかし学者としての知的誠実さが、それを恩恵として受け入れていた。


「若い世代の皆さんが、自分の道を見つけられることを願っています」


そして、ゆっくりと振り返った。その表情には、疲労とともに、ある種の解放感があった。


「杉浦さん、あなたの4人のお子さんが、あなたのような強さを持って育ちますように」


小さく頭を下げて、控室を出て行った。その背中は、討論の前よりも軽やかに見えた。


控室に静寂が戻った。


兼松がぽつりとつぶやいた。


「なんか、歴史的な夜だったような気がします」


「データ的には有意な変化かもしれませんね」


杉浦はもうノートPCの画面に没頭していた。


杉浦は眼鏡の奥で微笑んだ。深夜のNHK、人口学者は孫の写真が入ったスマホと、出生率データが表示されたノートPCを交互に見ながら、幸せそうに統計分析を続けていた。


スマホが震えた。長女からのメッセージだった。「ママ見たよ。3人目の検診行ってきた。順調」


杉浦の顔がほころんだ。「専業主婦を満喫してるみたいです」と兼松に向かって言いながら、彼女はまたデータに目を戻した。


兼松は思った。この人こそが、総理談話の真の体現者なのかもしれない。理論でも感情でもなく、ただデータと本能のままに生きて、4人産んで、まだ孫は2人だが着実に増えていきそうだ。


「ところで兼松さん、36歳でしたよね?35-39歳男性の未婚率、45.7%なんですよ」


杉浦が急に顔を上げた。


「統計的にこの年代の未婚率は異常値なんです。社会構造の問題として...」


兼松は苦笑した。この人は最後まで統計の話から離れられないらしい。


控室の窓からは、深夜の東京が見えた。ビルの明かりがまだ点々と灯っている。4月2日午前1時15分。この夜が「日本の転換点」と呼ばれることになるとは、まだ誰も知らない。



◇ 4月2日朝刊 各紙一面


朝6時、全国のコンビニと駅売店に新聞が並んだ。


朝日新聞

「総理、各家庭3人出産を要請」

「年金2037年枯渇認める」

社説:女性の自己決定権はどこへ


読売新聞

「年金制度の持続困難」

「出生率向上へ異例の要請」

社説:現実を直視した勇気ある決断


毎日新聞

「少子化対策の失敗認める」

「総理、不妊も告白」

社説:個人の苦悩と国家の要請


産経新聞

「少子化対策、待ったなし」

「総理が国民に直接訴え」

社説:国家存続の危機に立ち向かえ


日本経済新聞

「年金制度実質崩壊へ」

「財政破綻の現実味」

社説:市場への影響を注視せよ


東京新聞

「『産めない』総理が『産め』と要請」

「年金崩壊、ついに認める」

社説:矛盾と苦悩の告白


スポーツ紙だけが違った。


スポーツニッポン

「37年間の秘密」

「涙の不妊告白」

「それでも日本のために」


田中雄太と山本麻衣は、ソファで寝落ちしたまま朝を迎えた。

テレビはまだついている。

数時間後、目覚めた彼らは区役所に向かう。


同じ決断をした無数のカップルの一組として。


後にこの日、全国の婚姻届が前年同日比312%増を記録したことが判明する。

4月2日は「総理婚の日」として、日本の転換点の一つに数えられることになる。


しかし、それはまだ誰も知らない、静かな朝だった。


【第6章 完】



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