第6章 メディアと現実(9)NHK - 議論の続き
○ NHK - 議論の続き
上原がゆっくりと立ち上がった。その動作は怒りからではなく、重要なことを言わねばならないという責任感からだった。
「守本さん、独身税は憲法の幸福追求権に反します」
彼女の声は震えていたが、まだ諦めていなかった。
「北欧モデルを見てください。フィンランドは男女平等と教育で世界一、フランスはn分n乗方式で子育て世帯を支援、スウェーデンは480日の育児休暇を男女で分担。どれも女性の社会進出と出生率を両立させています」
一気にまくし立てた。50年の研究の集大成だった。
守本が眼鏡を直した。経済学者らしい冷徹さで、一つずつ解体していく。
「フィンランドの出生率は1.32まで低下。フランスの1.83は移民世帯が押し上げている。スウェーデンは...」
一呼吸置いて、核心を突く。
「育児休暇を取れる正規雇用の男性と、取れない非正規の男性。結果として一部の男性に子供が集中し、残りは『余剰』となる。平等を追求した結果の、新たな格差です」
上原の顔が青ざめた。自分が理想としてきた国々の、語られない現実だった。
杉浦がノートPCから顔を上げた。データ分析をしながら聞いていたらしい。
「人口学的に見れば、先進国の出生率低下は皮肉な現象です」
淡々とした口調で続ける。
「社会保障が充実し、老後も子供に頼らなくて済む。女性も経済的に自立できる。つまり『産まなくても何とかなる』社会を作った結果、誰も産まなくなった」
守本が頷きながら補足した。
「経済学で言う『合成の誤謬』ですね。個人が合理的選択をした結果、社会全体が非合理的な状態に陥る」
上原が顔を上げた。その瞳に怒りが宿ったが、すぐに疲労に変わった。自分が追求してきた「女性の自立」が、まさにその一因だと突きつけられた。79歳の老学者は、深く息を吸い込んだ。
「...私も、理解しています」
言葉を絞り出すように続ける。
「現在のシステムが、このままでは持続不可能だということは。でも...」
彼女は一瞬言葉を切り、まるで最後の抵抗のように付け加えた。
「でも、だからといって女性に『産め』と要請することが答えだとは、やはり思えません」
会場がざわめいた。上原静子が現実を認めながらも、最後の一線は譲らなかった。その頑固さは、ある意味で彼女の尊厳そのものだった。
和久井が沈黙を破った。上原の苦悩を目の当たりにして、番組の進行を続ける必要があった。
「では、視聴者の皆様から届いているメッセージも見てみましょう」
5人の識者たちは、それぞれの思考に沈んでいた。上原の葛藤は、彼ら全員に重い問いを投げかけていた。理想と現実、どちらを選ぶのか。その答えは誰も持っていなかった。
○ エンディング:答えのない問い(23:55)
残り5分。
スタジオの照明が少し暗くなり、エンディングの雰囲気を演出する。5人の識者たちと2人の司会者、計7人の顔には、2時間の激論の疲労と、答えの出ない問題への苦悩が滲んでいた。
城崎が、まるで重い荷物を背負うような表情で口を開いた。
「2時間にわたって議論してきましたが、結論は出ません。いや、出せません」
その声には、ジャーナリストとしての誠実さと限界への自覚が込められていた。普段なら明快な結論を導き出すことを使命とする彼が、今夜ばかりは白旗を上げざるを得なかった。
城崎が続ける。
「今夜の議論で明らかになったのは、誰か一人の悪意でこうなったわけではないということです」
静かな声だが、そこには深い洞察があった。
「出生率が2を超え、平均寿命が70歳未満だった時代に設計されたシステム。その前提が崩れた後も、誰もが目の前の問題だけを見ていた」
一呼吸置いて、続ける。
「官僚は問題を先送りして任期を全うした。政治家は高齢者の票を優先した。若者は自分の生活を守ろうとした。女性はキャリアか出産かで悩み続けた。企業は正社員を減らしてコストを削った。誰もが、それぞれの立場で合理的に行動した」
守本が小さく頷く。
「『地獄への道は善意で舗装されている』という言葉がありますが、まさにその通りかもしれません」
「でも、善意だったから許されるんですか?」
兼松の問いかけが、スタジオに重く響いた。
「僕たちの世代は、その善意の結果を背負わされている」
城崎は答えられなかった。誰も答えられなかった。
和久井が城崎の言葉を引き継ぐ。彼女の表情には、母親としての複雑な感情が浮かんでいた。
「これは、国民一人一人が考え、選択すべき問題だからです」
カメラが引いていき、画面が切り替わる。
官邸前の映像が映し出された。深夜にもかかわらず、1万人を超える人々が集まっている。警察の推計では過去10年で最大規模のデモだという。しかし、これは通常のデモとは違っていた。
「産む機械じゃない」と書かれたプラカードを掲げる女性たちと、スマホの画面に「総理の勇気に感謝」と表示させて掲げる若者たちが、同じ空間で対峙している。しかし、そこに暴力的な衝突はない。むしろ、互いの存在を認めながら、それぞれの主張を掲げているという、奇妙な共存状態が生まれていた。
照明に照らされた人々の顔には、怒り、困惑、希望、絶望、様々な感情が入り混じっている。若いカップル、中年の夫婦、独身の男女、車椅子の高齢者まで、あらゆる世代、あらゆる立場の人々がそこにいた。
城崎の声が、映像にかぶさる。
「4月1日、エイプリルフール。しかし、総理が語った現実は冗談ではありませんでした」
皮肉な日付の選択が、かえって事態の深刻さを際立たせていた。嘘の日に語られた真実。その逆説が、日本社会に突きつけられた選択の重さを物語っている。
和久井が番組を締めくくる言葉を紡ぐ。カメラは彼女の真摯な表情をアップで捉えた。
「明日の日本がどう変わるのか。それは、今この番組を見ている皆様の選択にかかっています」
○ 23:59 - 田中雄太のアパート
「もうすぐ終わるね」
麻衣がつぶやいた。二人は2時間、ほとんど動かずにNHKを見続けていた。
「雄太」
「ん?」
「私たち、明日、婚姻届出しに行かない?」
田中は麻衣を見た。彼女の眼は真剣だった。
「突然だな...」
「でも、今夜の話を聞いて、なんか...待ってちゃいけない気がしたの」
画面では和久井アナが最後の言葉を語っている。
「明日の日本がどう変わるのか。それは、今この番組を見ている皆様の選択にかかっています」
田中は麻衣の手を握った。
「うん。明日、行こう」
エンドクレジットが流れ始める。
○ 24:00 - 番組終了
放送終了の赤いランプが点灯。スタッフたちが安堵の息をつく中、出演者たちはゆっくりと立ち上がった。
「お疲れ様でした」
和久井と城崎が深々と頭を下げる。2時間の激論を仕切った疲労が、二人の顔に色濃く表れていた。




