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第1章 極秘試算(3)◆5 AI予測モデル

◆ 5 AI予測モデル


藤原は、最新の予測モデルを起動した。人工知能による解析システム。あらゆる変数を考慮して、最も確率の高い未来を計算する。


このシステムは、藤原が3年かけて開発したものだ。機械学習、深層学習、強化学習。最新のAI技術を総動員した。データサイエンティストの鈴木と、プログラマーの小林の協力を得て、ようやく完成した。


開発の過程で、藤原は何度も挫折しかけた。プログラムのバグ、データの不整合、計算の矛盾。深夜、一人でモニターに向かいながら、何度も思った。こんなもの、作らない方が良かったのではないか。真実を知らない方が、幸せだったのではないか。


「不払い率が現在のペースで上昇すると仮定すると」


カチカチとキーボードを叩く音だけが響く。


モニターに、複雑な数式が流れていく。微分方程式、確率分布、モンテカルロシミュレーション。一般人には理解不能な数学の世界。


∂P/∂t = -λP(t) + μN(t) - νB(t)


P(t):時刻tにおける積立金残高

N(t):保険料収入

B(t):給付支出

λ、μ、ν:各種パラメータ


「人口動態も加味します」


藤原は、別のデータを入力した。


出生率:1.20(2026年実績)

死亡率の改善:年0.5%

平均寿命の延び:年0.2歳


数字を入力しながら、藤原は思った。平均寿命が延びるということは、年金受給期間が長くなるということ。財政への負担は増す一方だ。


「さらに、経済要因も」


GDP成長率:0.5%

インフレ率:2%

賃金上昇率:1%


「社会心理学的要因も考慮します」


パニック発生確率:年金不信が閾値を超えた場合、80%

群集心理による加速度:2.5倍


すべてのデータを入力し終えると、藤原はエンターキーを押した。


その瞬間、藤原の手が震えた。これから表示される数字が、日本の運命を決める。いや、もう決まっているものを、確認するだけかもしれない。


コンピューターが計算を始める。プログレスバーが、ゆっくりと進んでいく。


10%...30%...50%...


全員が、息を詰めて画面を見つめている。


山田の額に、汗が浮かんでいる。鈴木は、無意識に拳を握りしめている。小林は、祈るように手を組んでいる。岡田は、まばたきすら忘れている。


70%...90%...100%


結果が表示された。


【年金積立金枯渇予測】

基本シナリオ:2030年9月

楽観シナリオ:2031年3月

悲観シナリオ:2029年6月


「3年半」


誰かが呟いた。


その声は、まるで葬式で聞く読経のように、低く、重かった。


「いや、これでもまだ楽観的だ」


藤原は、さらに条件を追加した。


「もし、この事実が国民に知られたら?パニックが起きて、さらに不払いが加速したら?」


新しい計算結果。


【相転移的崩壊シナリオ】

2029年3月


「2年」


会議室に、重い沈黙が降りた。


2年。たった2年で、日本の年金制度が崩壊する。100年安心プランが、2年で終わる。


藤原は、窓の外を見た。まだ真っ暗だ。2月の早朝、日の出まではまだ3時間以上ある。この暗闇が、日本の未来を象徴しているかのようだった。



◆ 6 深夜の休憩


「ちょっと、休憩しよう」


藤原は立ち上がった。時計は午前3時を回っている。


全員が、疲労困憊の表情だった。単なる肉体的な疲れではない。精神的な重圧が、彼らを押し潰そうとしていた。


廊下に出ると、冷たい空気が顔を撫でた。省エネのため、廊下の空調は切られている。2011年の東日本大震災以来、霞が関の省エネは徹底されている。


藤原は、その冷気を深く吸い込んだ。肺が、針で刺されるように痛い。でも、その痛みが、自分がまだ生きていることを実感させてくれる。


自動販売機の前で、缶コーヒーを買う。ブラック、砂糖なし。この24年間、変わらない選択。


缶を開ける。プシュッという音が、静かな廊下に響く。


その音を聞きながら、藤原は思った。24年前、初めて霞が関で缶コーヒーを買った日。期待と不安に満ちていた新人官僚。日本を良くしたい、国民のために働きたい、そんな理想に燃えていた。


今、その理想は、どこに行ったのか。


廊下の窓から、霞が関の夜景が見える。不夜城と呼ばれる官庁街。今夜も、あちこちの窓に明かりが灯っている。財務省、経産省、外務省。みんな、何かと戦っている。


でも、勝ち目のない戦いだということを、どれだけの人が理解しているだろうか。


藤原の携帯が震えた。妻の美智子からのLINEだった。


『まだ帰らないの?体を壊さないで』


美智子。1988年生まれ、39歳。8歳年下の妻。


出会いは、入省5年目の2008年。恩師の東大教授を訪ねた時、偶然研究室にいた学部3年生が美智子だった。「先生、この方は?」と聞かれ、教授が「私の自慢の教え子だ。今は厚労省で頑張っている」と紹介してくれた。


その時の美智子の眼差しを、藤原は今も覚えている。尊敬と好奇心に満ちた、まっすぐな眼差し。


藤原は返信した。


『もう少しかかる。朝には帰る』


『朝ごはん作って待ってる』


『ありがとう』


美智子は、藤原の仕事の詳細を聞かない。でも、分かっている。何か重大なことが起きていることを。そして、黙って支えてくれる。


「藤原さん」


後ろから声をかけられた。山田だった。


「山田君も、コーヒー?」


「ええ。今夜は長くなりそうですから」


山田も缶コーヒーを買った。微糖。若者らしい選択だ。


二人並んで、窓の外を見る。


遠くに、東京タワーのライトが見える。もうすぐ消灯時間だ。省エネのため、深夜1時で消える。いや、もう消えているはずだ。今は3時過ぎ。


「藤原さんは、いつ気づいていました?」


「何に?」


「年金が、持たないということに」


藤原は苦笑した。そして、20年近く前の記憶を辿った。


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