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第4章:記者会見という戦場(10)第5部 疲労と本音(午後10時00分〜10時30分)

◆ 第5部 疲労と本音(午後10時00分〜10時30分)



◇ 5-1 3時間半の疲労(10時00分)


会見開始から3時間半。総理も記者たちも、明らかに疲労の色が濃くなっていた。


石原は時々、水を飲みながら質問に答えている。声もかすれ始めていた。



◇ 5-3 疲労の限界(10時05分)


4時間を超えた会見。総理も記者も、限界に近づいていた。


石原は、答弁の途中で言葉に詰まることが増えた。水を飲む回数も多くなっている。


ネクタイは緩められ、額には汗が光っている。


記者たちも疲れていた。メモを取る手が止まり、まぶたが重くなっている者もいる。


しかし、誰も帰ろうとしない。歴史的な会見を、最後まで見届ける責任がある。



◇ 5-6 東スポ記者の直球(10時18分)


東京スポーツの青木大輔(1983年生まれ、44歳)が手を挙げた。


「東スポの青木です。ぶっちゃけ、総理ご自身は何人お子さんがいらっしゃるんですか?」


石原は一瞬、躊躇した。


「私どもには2人の子供がおります」


会場がざわついた。


「2人?3人必要と言いながら?」


青木の追及が続く。


「総理、偉そうに3人産めと言いながら、ご自身は2人だけ。これこそ偽善では?」


石原は深く息を吸った。37年間、秘めてきたことを話す時が来た。


「青木記者、そして皆様。私が3人目を持てなかった理由を、今日初めて申し上げます」


会場の空気が変わった。


「37年前、私は再選を目指す選挙戦で、応援先の川本候補の選挙カーで事故に遭いました。大腿骨骨折で長期療養したことは報道されていますが...」


石原は一瞬、言葉を切った。


「実は、その時私は下腹部にも重傷を負い、その後遺症で...子をなす能力を失いました」


会場が氷河のように凍りついた。青木は口をパクパクと動かしたが、声にならない。彼の頬から血の気が引いていく様は、まるで絵の具が水に溶けて流れていくようだった。


「妻と私は3人目を強く望んでいました。しかし、もはや不可能でした。1990年当時、男性の生殖能力の喪失は『男としての欠陥』と見なされ、嘲笑と侮蔑の対象でした。『種無し』という言葉が、どれほど残酷な凶器だったか。家族を守るため、そして政治家として生き残るため、私は沈黙を選びました」


CNNのジェームズが、隣の日本人記者に小声で確認している。

「What did he just say? Did I understand correctly?」

「He became infertile from the accident... thirty-seven years ago...」


BBCのサラの顔が青ざめた。10年間の東京駐在で培った日本語力が、今この瞬間に限って恨めしい。理解してしまうからこそ、逃れられない。石原の告白が一言一句、防御の隙間を縫って心の奥へと突き刺さっていく。手元のペンが小刻みに震えている。隣の中国の王記者も絶句していた。一人の政治家が、37年間守り続けた最も深い秘密を公の場で告白する瞬間の重みが、会場全体を押し潰していた。


石原は静かに続けた。


「私には幸い2人の子がおります。子を一人も持てない方々の苦しみに比べれば、私の経験は取るに足りないものでしょう。それでも、3人目を切望しながら、もう二度と子を持てないと知った時の絶望...その痛みの、ほんの一端だけでも、私は知っています。だからこそ、まだ可能性のある皆様には、どうかその機会を大切にしていただきたいのです」


会場を包んだ静寂は、もはや沈黙ではなかった。それは言葉を超えた何か──同情でもなく、憐憫でもなく、ただ一人の人間の勇気に対する、原始的な畏敬だった。


青木の中で、攻撃的な記者としての自分が音もなく崩れ落ちていく。目の前にいるのは、もう政敵でも政治家でもない。37年間、誰にも言えない痛みを抱えて生きてきた、一人の男だった。


その時、会場の隅で水田真理の瞳に一粒の涙が宿った。石原の視線がゆっくりと彼女を見つけた時、言葉など必要なかった。不妊という名の暗闇を共に歩んだ者だけが知る、静かな連帯がそこにあった。


会場の誰もが感じていた。歴史の証人になったのだと。日本の総理大臣が、権力の仮面を脱ぎ捨て、一人の人間として立った瞬間の証人に。



◇ 5-7 ベテラン記者の述懐(10時20分)


石原総理の告白から、会場は鉛のような静寂に沈んでいた。その重い空気の中で、一人の老記者がゆっくりと手を挙げた。


「私から一言、よろしいでしょうか」


声を上げたのは、共同通信の最長老記者、佐伯晃(1960年生まれ、67歳)だった。石原より3歳年下だが、記者歴は45年に及ぶ。


「総理、私は1990年のあの事故も取材しました」


石原の表情が微かに動いた。


「当時、大腿骨骨折の重傷と聞いて、選挙戦への影響を心配する記事を書きました。しかし、まさか...そのような深い傷を負われていたとは」


佐伯は一呼吸置いた。


「45年間、政治を見てきました。数多の総理を見届けてまいりました。スキャンダルを隠す者、失政を糊塗する者、責任から逃れる者...」


佐伯のペンを握る手が、かすかに震えていた。45年間で培った職業的な冷静さが、今初めて揺らいでいる。会場の記者たちが、この老記者の言葉に耳を傾けていた。


「しかし石原総理、あなたは今夜、37年間の最も個人的な秘密を、国民の前で告白された。そして、子を持てない苦しみを知る者として、国民に訴えかけた」


佐伯の声に、言葉にできない何かが滲んでいた。それは驚きでも感動でもなく、長年の職業観が根底から揺さぶられる困惑だった。


「正直申し上げて、私は混乱しています。政治家がここまで自分を晒すことが、果たして正しいのか。それとも、これこそが今の日本に必要な誠実さなのか」


45年間、政治家の言葉を「翻訳」することに慣れ切っていた。建前は本音に、約束は妥協に、謝罪は保身に──すべては予定調和の茶番だった。しかし今夜、目の前にいるのは仮面を脱ぎ捨てた一人の男だった。


「佐伯さん...」


「総理、一つだけ伺います。37年間の秘密を今日公表する決断をされたのは、なぜですか?」


石原は静かに答えた。


「青木記者に『偽善者』と言われた時...」


石原の声が遠くを見つめるように響いた。


「気づいたのです。私もまた、子を望みながら持てなかった一人として、この問題と向き合う資格があるのだと。いや、向き合う責任があるのだと」


37年という歳月の重さが、言葉の隙間から滲み出ていた。


佐伯は深く頷いた。老記者の目に、かすかな光るものがあった。それは涙ではない。長年の経験を持つ記者が、初めて真実の重みに触れた時の、職業的感動とも言える何かだった。



◇ 5-8 最後の女性の質問(10時25分)


フリーランスの佐々木まゆみ(2002年生まれ、25歳)が、震える声で立ち上がった。


「すみません、フリーランスの佐々木です」


最年少の記者だった。


「私、25歳です。正直、怖いです」


会場が静まった。


「これから私は、ただ子どもを産むためだけに生きるんですか?私の夢は?キャリアは?自己実現は?」


石原の表情が和らいだ。40年の政治人生で培った、若い世代への配慮が滲み出ていた。孫でもおかしくない年齢の女性を見る目には、政治家としての責任感と、一人の祖父としての優しさが混在していた。


「佐々木さん、そのようなことではございません」


石原は、ゆっくりと語りかけた。


「子どもを持つことと自己実現の両立は可能であると考えております。また、子育てを通じた人間的成長も、重要な自己実現の一つの形であると認識しております」


「でも、キャリアが...」


「キャリアの継続性については、社会全体で支援体制を構築していく必要があると考えております。育児後の職場復帰支援、柔軟な働き方の推進など、関係省庁と連携して取り組んでまいります」


「例えば25歳でお子様をお持ちになり、30歳頃にキャリアを再開されるケースを考えますと、45歳でお産みになるケースと比較して、体力面でも、その後のキャリア形成においても、より選択肢が多いと思われます」


「でも、社会がそれを許しません」


「だから、社会制度の見直しが必要と認識しております。育児後の再就職支援につきましても、関係省庁と連携し、あらゆる施策を検討してまいります。キャリアの中断が不利にならない社会の実現に向け、最大限の努力を図ってまいりたいと考えております」


佐々木は黙った。納得したわけではない。でも、少しだけ、希望が見えたような気がした。


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