第1章 極秘試算(2)◆ 3 母親給付金という毒薬
◆ 3 母親給付金という毒薬
藤原は続けて書いた。
【支出】
- 年金給付:年間58兆円
- 事務費その他:年間3兆円
- 合計:61兆円
「とんとん、ですね」山田が言った。
しかし、その声には安堵はなかった。山田も知っている。これが表面的な数字に過ぎないことを。
「そう見えるだろう。だが」
藤原は、別のシートを開いた。画面に新しい数字が表示される。
「母親給付金を忘れていないか」
室内の空気が凍りついた。全員が、その言葉の重みを理解している。
母親給付金。2026年11月に導入された、あの制度。衆政党が連立の条件として要求し、民自党が飲まざるを得なかった毒薬。
藤原の脳裏に、制度導入時の記憶が鮮明に蘇る。2026年10月15日、総理官邸での会議。藤原も陪席していた。
会議室の重苦しい空気。志茂野創平衆政党代表の怒声。石原総理の苦渋に満ちた表情。そして、山市厚労大臣の諦めたような目。
あの時、誰もが分かっていた。この制度が、年金制度に致命的な打撃を与えることを。でも、連立政権を維持するためには、呑まざるを得なかった。政治の現実が、数字の真実を押し潰した瞬間だった。
「詳細を確認しよう」藤原が説明を始めた。「出産後から子供が1歳になるまでの1年間、月10万円を支給。財源は年金特別会計から」
小林が電卓を叩く。26歳、京大法学部卒。京都府立洛北高校出身。数字に強い。彼の指が、まるでピアニストのように電卓のキーを踊る。
「現在の年間出生数が80万人。申請率を95%と仮定すると、76万人が対象」
「76万人×12ヶ月×10万円=」山田が計算する。
「9.12兆円」
全員が息を呑んだ。
年間9兆円。これは、防衛費の約1.5倍。文教費の約2倍。途方もない金額が、年金積立金から流出していく。
「ただし」藤原が補足した。「制度開始が昨年11月なので、2027年度は満額ではない。しかし、2028年度以降は毎年9兆円以上が流出する」
岡田が質問した。27歳、一橋経済学部卒。埼玉県立浦和高校出身。
「なぜ年金特別会計から?一般会計からでは駄目だったんですか?」
岡田の声には、怒りが滲んでいた。なぜ、将来の年金を犠牲にしなければならないのか。なぜ、自分たちの世代が割を食わなければならないのか。
「財務省が拒否した」藤原が答えた。「一般会計は既にパンパンだ。だから衆政党は年金特別会計を狙った。『積立金が40兆円もあるじゃないか』と」
藤原の心の中で、財務省への怒りが湧き上がった。彼らは知っていた。年金特別会計から金を抜けば、将来どうなるか。でも、目先の財政を優先した。いや、自分たちの省益を優先した。
「でも、それは将来の年金給付のための」
「そう。将来を食いつぶして、今の出産にばらまく。究極の近視眼的政策だ」
誰かが呟いた。
「志茂野創平の置き土産か」
衆政党代表、志茂野創平。1982年生まれ、45歳。元IT企業経営者。3人の子供を持つ雷親父。ジムで鍛えた体躯と、飛び込み営業で鍛えた大声、辻立ちで真っ黒に日焼けした姿は少々の威圧感と共に「ビッグダディ」的な雰囲気をまとう。「子供を産む人が偉い」という主張で、一定の支持を集めている。
◆ 4 崩壊への道筋
「つまり」藤原は計算を続けた。「年金特別会計の実質的な収支は」
収入61兆円-支出61兆円-母親給付金9.12兆円=マイナス9.12兆円
「年間約10兆円の赤字。積立金42兆円なら」
「4年で枯渇」
小林が呻くように言った。
小林の顔は蒼白だった。26歳の彼にとって、年金はまだ40年以上先の話のはずだった。でも、今、目の前でその未来が崩壊していく。彼の人生設計が、根底から覆されようとしている。
「いや、もっと悪い」
藤原は、別のデータを表示した。保険料の徴収率の推移グラフ。右肩下がりの線が、不吉な未来を示している。
2025年度:75%
2026年度:73%
2027年1月:68%
「下がり続けています」鈴木が言った。「特に若年層の不払いが顕著です」
鈴木の声は、データを読み上げる機械のように感情を失っていた。もはや、希望を持つことを諦めたかのように。
「そう。特に20代、30代の不払いが激増している。『どうせもらえない』という諦めが広がっている」
藤原は、パソコンの画面を切り替えた。SNSの分析データが表示される。年金局では、SNS上の国民感情を分析する専門チームがある。
「#年金払わない」:週間ツイート数45,000
「#どうせ破綻」:週間ツイート数32,000
「#自分で貯める」:週間ツイート数28,000
画面に映る数字を見ながら、藤原は思った。これは単なる数字ではない。45,000人の怒り、32,000人の諦め、28,000人の不信。それぞれの数字の向こうに、生身の人間がいる。将来に絶望し、国を信じられなくなった人々が。
「彼らを責められるか?」藤原は問いかけた。「47歳の私だって、正直、疑問に思うことがある」
その告白に、若手たちが驚いた。キャリア官僚のトップクラスである藤原が、制度への疑問を口にするなんて。
山田が口を開いた。「でも、制度への信頼が崩れたら」
「相転移的崩壊が起きる」藤原が答えた。「ある臨界点を超えると、一気に崩壊が加速する。物理学の相転移と同じだ」
藤原は、ホワイトボードに図を描き始めた。横軸に時間、縦軸に信頼度。最初は緩やかな下降線。しかし、ある点を境に、線は急激に落ち込む。
「制度は徐々に劣化していくのではない。ある点を越えれば、一気に姿を変える。水から氷が生まれるように。年金制度も同じだ。信頼が一定レベルを下回った瞬間、誰も保険料を払わなくなる」
岡田が恐る恐る手を挙げた。27歳の彼は、入省してまだ4年。
「藤原企画官、私たちの世代は、本当に年金をもらえないんですか?」
全員の視線が、藤原に集まった。
藤原は、岡田の目を真っ直ぐ見た。そこには、恐怖と、わずかな希望が入り混じっていた。27歳。結婚適齢期。子供を作るかどうかを決める年齢。その決断が、この答えにかかっている。
藤原は、正直に答えることにした。嘘はもう、つけない。
「現状のままなら、もらえない」
岡田の目に、絶望の色が浮かんだ。まるで、死刑宣告を受けた囚人のように。
「じゃあ、私たちは何のために」
「だから、今、計算している」藤原は言った。「諦めるのは、まだ早い」
でも、藤原自身、その言葉を信じているかどうか、自信がなかった。