第1章 極秘試算(1)◆ 1 枯渇
◆ 1 枯渇
2027年2月3日 火曜日 午前2時23分 厚生労働省
数字は嘘をつかない。
藤原健一は、モニターに映る数列を見つめながら、二十年前に大学で習った言葉を思い出していた。数学科の教授が言った。「数字は残酷なまでに正直だ。人間がどんなに願望を込めても、数字は真実しか語らない」
目の前のエクセルシートに、日本の未来が数字として表示されている。
公的年金積立金残高推移予測:
2027年度末:42兆円
2028年度末:31兆円
2029年度末:18兆円
2030年度末:3兆円
2031年度末:-14兆円
マイナス14兆円。
積立金が枯渇して、なお14兆円足りない。
部屋の空調の音だけが響いている。外は真っ暗だ。霞が関の不夜城と呼ばれるこのビルも、さすがにこの時間は人がまばらだ。窓の外を見ると、向かいの財務省の建物にもまだ明かりが灯っている。彼らも何かと戦っているのだろう。予算編成の季節はとうに過ぎたが、補正予算の準備か、あるいは別の火消しか。
会議室には5人の職員がいた。全員がキャリア組。これは意図的な人選だった。年金局の中でも、特に優秀で、かつ口の堅い人間だけを集めた。
藤原健一 年金局年金課企画官(47歳、2003年入省)
山田優一 年金課課長補佐(28歳、2022年入省・東大法首席)
鈴木正人 年金課専門官(30歳、2020年入省・東大経済)
小林翔 年金課調査官(26歳、2024年入省・京大法)
岡田修 年金課調査官(27歳、2023年入省・一橋経済)
全員、今夜ここで見たものを口外しないという誓約書にサインしている。省内でも極秘中の極秘。年金局長の斎藤信之でさえ、まだこの試算の全貌を知らない。
「藤原企画官、やっぱり間違いですよね?」
山田が、祈るような目で聞いてきた。28歳、2022年入省。東大法学部を首席で卒業した秀才だ。開成高校出身。まだ希望を捨てきれない年齢だ。
藤原は山田の表情を見て、20年近く前の自分を思い出した。2006年、入省3年目。初めて年金破綻の可能性に気づいた時の、あの絶望感。信じたくない、でも数字は嘘をつかない、その狭間での苦悩。
「山田君、君の計算に間違いはあったか?」
「いえ、3回確認しました。異なるアルゴリズムでも検証しました」
山田の声が微かに震えている。彼は優秀だ。だからこそ、この数字の意味を理解している。日本という国家の、事実上の破産宣告だということを。
「なら、これが答えだ」
山田の顔が青ざめていく。彼はまだ独身だ。昨年、付き合っていた彼女と別れたと聞いた。「官僚は忙しすぎる」というのが理由だったらしい。実際、この2週間、山田は泊まり込みで試算を続けていた。会議室の隅に、彼の寝袋が置かれている。
藤原は立ち上がり、ホワイトボードに向かった。マーカーのキャップを外す音が、静寂の中で異様に大きく響く。その音に、全員がびくりと身を震わせた。まるで、処刑台への第一歩を踏み出すような、そんな音だった。
◆ 2 数字の重み
「まず、収入から見直そう」
藤原は数字を書き始めた。1980年生まれ、47歳。福井県立武生高校から1年の浪人を経て東大法学部に進学した、地方の秀才の典型的なコースを歩んだ男だ。
マーカーを握る手が、わずかに震えている。疲労のせいだろうか。この試算が日本全体にもたらす事態を恐れているのか。おそらく、その両方だろう。
彼の脳裏には、故郷の風景が浮かんでいた。武生高校。福井県の進学校として知られているが、東大合格者は年に2〜3人程度。400人の同期のうち、東大に合格したのは藤原を含めて3人だけだった。その希少性ゆえに、地元では神童扱いされた。しかし、東大に入って最初に感じたのは、圧倒的な劣等感だった。学力では「希少な存在」ではなくなり、首都圏出身の同期が当たり前のように手にしているものの多さに、ただ圧倒されるしかなかった。
──そして今。
この試算の数字の背後には、この国に住むすべての人々の人生がある。故郷の人々、高校の同級、大学の同期。ゼミの仲間、恩師、そして家族。かれらすべての人生が重なっているのだ。
【年金保険料収入】
- 基礎年金保険料:年間19兆円
- 厚生年金保険料:年間30兆円
- 国庫負担(税金):年間12兆円
- 合計:61兆円
「これは2026年度の実績値だ」藤原は数字を書きながら説明した。黒い数字が、まるで墓標のように並んでいる。「問題は、これが今後も維持できるかだ」
「藤原企画官」鈴木が手を挙げた。30歳、東大経済学部卒。筑波大学附属駒場高校出身。数理に強い。「保険料収入が減少傾向にあるのは事実ですが、それでも」
鈴木の声には、かすかな希望が込められていた。まだ何か、見落としている要素があるのではないか。計算ミスがあるのではないか。そんな願いが。
「鈴木君、君は結婚しているか?」
唐突な質問に、鈴木は戸惑った。
「いえ、まだです」
「なぜだ?」
鈴木は困ったような顔をした。会議室の蛍光灯の下で、彼の額に汗が光っている。
「正直、経済的な不安があって」
「君は国家公務員だ。安定した収入がある。それでも不安か?」
「はい。将来を考えると」
鈴木の年収は約600万円。世間的には高給取りだ。でも、東京で子供3人を育てるには足りない。私立中学に入れたら、1人あたり年間100万円以上かかる。3人なら300万円。とても無理だ。
藤原は頷いた。鈴木の不安は、日本中の若者が抱えている不安の縮図だった。
「君がそうなら、一般の若者はもっと不安だ。結婚しない、子供を作らない、そして年金保険料も払わない」
藤原の心の中で、ある記憶が蘇った。先週、コンビニで見かけた若い店員。レジで年金保険料の督促状を破り捨てていた。「どうせもらえないのに、なんで払わなきゃいけないんだ」と呟きながら。