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第3章 談話(2)中華料理店「龍門」

◇ 中華料理店「龍門」


厨房では炎が天井まで立ち上がる。中華鍋が激しく振られ、油と調味料が焦げる匂いが充満している。若い料理人が汗を拭いながら、手を休めることなく次の皿に取りかかる。


「エビチリ二番!」「チャーハン一丁!」


ホールスタッフの声が飛び交う。円卓では会社帰りのサラリーマンたちが紹興酒を酌み交わし、窓際では家族連れが回転テーブルを囲んでいる。


しかし、空気が変わり始めていた。


店の隅の液晶テレビ——油汚れで画面の端が茶色く変色した32インチ——に、総理の顔が映っている。地デジ化の時に仕方なく買い替えたものだが、もう15年は使っている。最初は誰も気にしていなかった。だが、画面の下を流れる字幕が、一人、また一人と客の視線を捕らえ始めた。


麻婆豆腐をレンゲですくいかけた会社員の手が止まる。

餃子を箸でつまんだ主婦が、皿の上で静止している。

ビールのグラスを口元まで運んだ若者が、そのまま固まった。


《これらの施策は、期待された効果を上げることができませんでした》


厨房からは相変わらず中華鍋を振る音が響いている。料理人たちはまだテレビに気づいていない。客だけが、静かに現実を噛みしめ始めていた。



◇ 大学の研究室 午後6時04分


東京大学経済学部の研究室。書架に並ぶケインズ、ピケティ、クルーグマン。黒板には人口動態のグラフが描かれたまま消されずに残っている。普段なら、この時間は院生が一人か二人、キーボードを叩く音だけが響いている時間だ。


しかし今日は違った。


白髪の教授を中心に、7人が32インチのテレビを囲んでいた。コンビニのコーヒーカップが机に並び、誰も手を付けていない。画面に釘付けだ。


《...これらの施策は、期待された効果を上げることができませんでした》


教授が眼鏡を外し、レンズを拭きながら呟いた。

「ついに認めたか。20年遅い」


博士課程3年の院生が、手元のThinkPadから顔を上げた。

「これ、僕の博士論文のテーマなんですけど...『少子化対策の政策効果検証』」


「君の論文より、現実の方が先に崩壊してしまったな」教授の苦笑には、学者としての無力感が滲んでいた。


M2の女子院生がノートに数式を走り書きしながら呟く。「マルコフ連鎖で計算すると、臨界点は2029年...いや、もう過ぎてる?」隣のポスドクが覗き込んで首を振った。「賦課方式の限界なんて、とっくに見えてたでしょ」


留学生の中国人院生が、スマートフォンで母国のニュースサイトをチェックしている。画面には「日本総理緊急談話」の文字が既に踊っていた。


数式とモデルで予測してきた未来が、今、テレビの中で現実になろうとしている。


廊下から、学部生たちの笑い声が聞こえてくる。サークルの新歓の話で盛り上がっているようだ。彼らはまだ、自分たちの未来が今まさに語られていることを知らない。



◇ Twitter - 18:03


@mama_rina0403

総理談話見てる。なんか嫌な予感しかしない


@keizai_analyst

「これらの施策は期待された効果を上げることができませんでした」って認めちゃったよ...日経先物急落してる


@political_watcher

政策の失敗を認めるって、相当追い詰められてるな



◇ 記者会見室


総理は次の章に進んだ。原稿から目を上げ、会見室全体を見渡す。


「現在の人口動態が継続した場合、令和17年(2035年)頃には、現行の年金制度は実質的に機能不全に陥ることが、複数の試算により明らかとなっております。医療保険制度、介護保険制度についても、同様の危機に直面することは避けられません」


産経新聞の佐藤記者が、思わず声を漏らした。「2035年...あと8年しかない」


総理は淡々と続ける。


「賦課方式を基本とする我が国の社会保障制度は、現役世代が高齢世代を支えることを前提としております。しかし、令和22年(2040年)には、1.2人の現役世代で1人の高齢者を支える計算となり、これは物理的、経済的に不可能であります」



◇ 証券会社のトレーディングフロア


六本木の高層ビル23階。窓の外には東京タワーが赤く光っている。モニターが6面、8面と並ぶデスクが整然と配置され、青白い光がトレーダーたちの汗ばんだ額に反射していた。


誰もがBloombergのイヤホンを片耳に、もう片方で総理談話を聞いている。キーボードを叩く音が機関銃のように響く中、Bloombergターミナルの警告音が不協和音を奏で、時折「Sell」「ヘッジ」という声が飛び交う。


《...これは物理的、経済的に不可能であります》


日経平均先物のチャートが崖から転落するように下降線を描いた。赤い数字が画面を埋め尽くしていく。-387、-412、-523...終値比マイナス2.8%。


「待て!時間外でピジョン気配値急騰!」セクター担当がPTS(私設取引システム)の画面を指差す。「明日の寄りはストップ高確実だ!」


別のモニターでは、機関投資家向けの時間外取引で異常な動きが起きていた。ベビー用品、マタニティ関連、不妊治療クリニック運営会社。全ての気配値が上昇している。


「NYのプレマーケットでも日本のベビー関連ADR(米国預託証券)が爆上げ開始!」若手トレーダーが興奮する。「IBJもマザーズの婚活系も、明日の寄りで買い殺到だ!」


隣のデスクでは、為替トレーダーがドル円の急騰に対応している。「152円47銭突破!でも機関の注文見ると、明日はベビー株に資金集中しそう!」


フロアの奥、ガラス張りの個室で、チーフトレーダーが薄く笑った。「明日の寄り付きでセクターローテーションだ。建設株売り、ベビー株買い。介護株売り、婚活株買い」


「明日の東証は大荒れだな」アナリストが翌日の相場を予想し始めた。



◇ 特別養護老人ホーム「さくらの園」


夕食後の食堂。プラスチック製のテーブルに、湯呑みと薬のケースが並んでいる。車椅子の列、歩行器の金属音、どこかから聞こえる認知症の方の独り言。そんな日常の音の中、壁に掛けられた65インチの大型テレビだけが異質な緊張感を放っていた。


《...1.2人の現役世代で1人の高齢者を支える計算となり》


補聴器を調整しながら画面を見つめる88歳の女性。隣では、92歳の元会社員が震える手でメモを取ろうとしている。


「私たちのせいかねえ」


車椅子の女性が、誰にともなく呟いた。補聴器の女性が首を横に振る。


「違うわよ。私たちは戦後に5人も6人も産んだ。団塊の世代を作ったのは私たちよ」


「でも、その子たちが...」元会社員が言いかけて、言葉を飲み込んだ。


視線の先、介護士の若い女性が薬を配っている。25歳くらいだろうか。フィリピン人の研修生だ。彼女は日本語がまだ拙いが、優しく丁寧に働いている。


首から下げたIDカードが、かがんだ拍子に裏返った。透明なケースの裏側に、小さな写真が挟まっている。4歳と1歳くらいの子供たち。祖母らしき女性に抱かれて、カメラに向かって笑っている。マニラに残してきた家族だろう。


その彼女が、自分たちを支える「1.2人」の一人なのだ。自分の子供を祖母に預けて、日本の老人を介護している。


食堂に沈黙が落ちた。テレビの音だけが、容赦なく現実を告げ続けている。



◇ Twitter - 18:05


@tokyo_wolf

総理「2035年に年金制度が機能不全」

あと8年かよ...


@crypto_king

だから言ったろ?ビットコイン買っとけって


@pension_worry

年金払い損確定じゃん。もう払いたくない


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