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第3章 談話(1)2027年4月1日 午後5時45分

◆ 2027年4月1日 午後5時45分



◇ 首相官邸・執務室


石原慎吾は執務室の鏡の前に立っていた。


70歳。深く刻まれた額の皺が、蛍光灯の光を複雑に反射させる。白髪混じりの髪を、普段より入念に整えた。紺色の無地のネクタイを結び直す。いつもより、わずかにきつく。


「総理、あと15分です」


振り返ると、富沢内閣官房副長官が扉の前に立っていた。その表情にも、覚悟の色が滲んでいる。


「富沢君、これで良かったのかな」


「総理が決断されたことです。我々は最後まで支えます」


石原は窓に視線を移した。官邸の桜が、夕暮れの風に花びらを散らしている。4月1日────エイプリルフール。世界中で嘘が許される日に、最も残酷な真実を告げようとしている。その皮肉を、噛みしめるように息を吐いた。


机上には談話の原稿。幾度となく推敲を重ね、言葉を削り、また足した。それでも────いや、だからこそ────国民に与える衝撃は計り知れない。


「もう後戻りはできない」


石原は深く、静かに息を吸った。歴史の扉を開く、その瞬間が迫っていた。



◇ 新橋・居酒屋「さくら」 午後5時55分


サラリーマンで満員の居酒屋。タバコの煙が、天井の黄ばんだ蛍光灯の周りで渦を巻いている。


カウンター席の常連たちが、一斉にテレビを見上げた。箸を持つ手が止まり、ビールジョッキが中途半端な高さで宙に浮いている。


「おい、音量上げてくれ!」


40代の会社員が店主に向かって叫んだ。ネクタイは緩め、ワイシャツの袖はまくり上げている。今日で三杯目のビール。いつもなら、まだ一杯目を舐めるように飲んでいる時間だ。


「何か重大発表らしいな」隣の男が串カツを頬張りながら言う。

「どうせ増税だろ」若い営業マンが吐き捨てるように応じた。

「いや、今回は違うらしい」


店主が黙ってリモコンを操作する。音量バーが画面を横切り、騒がしい店内に総理談話の予告音が響き始めた。いつもなら野球中継に熱中している客たちが、今日は違う種類の緊張を共有していた。



◇ 港区・不妊治療クリニック 午後5時58分


加藤レディースクリニックの待合室。


山田恵子(36歳)は、プラスチックの椅子に浅く腰かけていた。膝の上のハンドバッグを、無意識に強く握りしめている。三年間。千百九十五日。今朝も基礎体温表に、小さな×印を書き込んだ。


壁掛けテレビが、無音のまま字幕を流している。待合室特有の、希望と絶望が入り混じった空気。他に三人の女性。皆、お互いの顔を見ないように、それでいて同じ痛みを共有しているかのように、静かに息をしている。


「何か重要な発表らしいわね」


窓際の年配の女性が、誰にともなく呟いた。声は小さいが、静寂の中では意外なほど響く。誰も答えない。答える余裕などない。それぞれが抱える不安は、すでに容量の限界を超えている。


恵子は画面に目を向けたまま、診察券の番号を確認した。あと二人。その後に待っているのは、また希望か、また絶望か。そんなことを考えていると、画面が切り替わった。


「まもなく総理談話」


赤い文字が、待合室の白い壁に不吉な色を投げかけた。



◇ Twitter - 17:59


@news_flash

【まもなく】総理談話、午後6時より全局同時中継


@ordinary_man

エイプリルフールに重大発表とか、冗談だろ?

壮大なドッキリだったら笑うわ


@housewife_tokyo

子供寝かしつけ中なのに、見なきゃいけない感じ?

でも全局同時って…ヤバいやつ?


@market_trader_jp

日経先物が妙な動き

インサイダー組は何か知ってるな


@single_life_best

どうせ俺には関係ない話

ビール飲みながら見るか



◆ 午後6時 談話開始



◇ 首相官邸・記者会見室


石原慎吾が入室した。


いつもの自信に満ちた足取りではない。一歩一歩が、見えない重さを引きずっているかのようだった。壇上へ向かう前に、一度立ち止まる。正面に掲げられた日章旗に向かって、深く一礼した。その所作は丁寧で、いつもより長かった。


壇上への二段の階段を上る間、会見室の空気が凝固した。


原稿を取り出す手が、わずかに震えた。それを隠すように、両手で紙の端をしっかりと掴む。深い呼吸。肺の奥まで空気を入れ、ゆっくりと吐き出す。カメラのフラッシュが機関銃のように連射され、白い光の嵐が総理の顔を洗った。


やがて、静寂。


「国民の皆様」


第一声が、会見室の壁に吸い込まれていく。通常の倍以上となる百三十人を超える記者たちが、一斉に息を止めた。最前列には内閣記者会常勤19社の席が並び、その後ろに臨時で増設された座席、さらに後方には立ち見の記者たちがびっしりと詰めかけている。


「本日、私は、内閣総理大臣として、我が国が直面する人口問題について、率直に、そして真摯に、国民の皆様にお話をしなければならない重大な局面を迎えたことを、深い憂慮とともに申し上げます」


NHKの山田記者の万年筆が、ノートの上を走る。インクが紙に染み込む音さえ聞こえそうなほど、室内は静まり返っていた。「人口問題」「重大な局面」「深い憂慮」──── キーワードに二重線を引く。


朝日新聞の田中美咲記者は、録音機器の赤いランプを確認した。デジタル表示が正確に秒を刻んでいる。手元のメモには、すでに予想される質問事項が並んでいた。


最前列、フリーランスジャーナリストの水田真理(38歳)は、総理の表情を凝視していた。五年前から少子化問題を追い続けてきた。取材ノートは二十冊を超える。皮肉なことに────いや、必然かもしれない────自身も不妊治療の経験者だった。体内の記憶が、今も時折、鈍い痛みとなって蘇る。



◇ 渋谷スクランブル交差点 午後6時01分


夕暮れの交差点は、いつもの喧騒に包まれていた。信号が青に変わるたび、数百人が一斉に動き出す。肩がぶつかり、鞄が擦れ合い、誰も誰を見ていない。


しかし、何かが違っていた。


109の巨大ビジョン、TSUTAYAのスクリーン、ビル壁面の電光掲示板——普段はバラバラの広告や音楽番組を流しているはずの画面が、すべて同じ顔を映していた。石原慎吾。七十歳の総理大臣が、渋谷の空を埋め尽くしている。


それでも、ほとんどの人は気づかない。ワイヤレスイヤホンが作る個人の音響空間。スマートフォンの5インチの宇宙。各々が各々の世界に没入している。


「なんか全部同じ画面じゃない?」


制服姿の女子高生が友達の袖を引いた。iPhoneを掲げて、ビジョンを背景にセルフィーを撮る。「なんかディストピア感あってエモい」


信号待ちのサラリーマンが、缶コーヒーを飲みながらふと顔を上げた。総理の唇が動いている。街の騒音——車のクラクション、若者の笑い声、店の呼び込み——にかき消されて音声は聞こえないが、字幕が流れている。


《...深い憂慮とともに申し上げます》


「へえ、また増税か?」彼は興味なさそうにスマートフォンに視線を戻し、競馬アプリで明日のレースをチェックし始めた。


巨大スクリーンの中の総理は、誰も聞いていない街に向かって、国家の危機を語り続けている。



◇ Twitter - 18:01


@news_bot

【速報】総理談話開始。人口問題について「重大な局面」


@salaryman_taro

え、今テレビつけたら総理が何か深刻そうな顔してるんだが


@student_life

授業中だけど、教授もテレビつけた



◇ 記者会見室


石原総理は続けた。原稿に目を落としながら、時折顔を上げて記者たちを見る。


「我が国の合計特殊出生率は、昨年ついに1.20を下回り、出生数は70万人を割り込みました。この数字が意味するところは、もはや統計上の問題ではありません。我々の社会保障制度、経済システム、そして国家としての持続可能性そのものが、根本から問われる事態に立ち至ったのであります」


記者たちのペンを走らせる音が響く。フリーランスの岩田記者が、身を乗り出した。


総理は一呼吸置いて続けた。


「政府は、これまで少子化対策を国政の最重要課題と位置づけ、児童手当の拡充、保育所の整備、育児休業制度の充実など、あらゆる施策を講じてまいりました」


総理の声が重くなる。


「しかしながら、ここに率直に認めなければなりません。これらの施策は、期待された効果を上げることができませんでした」


会見室にざわめきが走った。政策の失敗を、これほど明確に認めるのは異例だった。


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