第2章 決断(3)◆4 志茂野創平との対決
◆ 4 志茂野創平との対決
3月16日 火曜日 午後2時 総理官邸 応接室
志茂野創平が、颯爽と入ってきた。
45歳。元IT企業経営者から不動産業に転身。3人の子供の父親。ジムと現場仕事で鍛えた体躯は、まるで格闘家のようだ。日焼けした顔と太い首筋から「不動産ゴリラ」と陰で呼ばれているが、本人はその見た目と頭脳のギャップを武器にしている。
「総理、緊急の呼び出しとは」
石原は単刀直入に切り出した。
「年金が2030年に枯渇します」
志茂野の表情が引き締まった。一瞬、目が泳いだが、すぐに落ち着きを取り戻した。
「……藤原氏の試算ですね。私も独自にシンクタンクに分析させました。残念ながら、同じ結論でした」
石原は続けた。
「あなたの母親給付金が、致命傷になった」
志茂野の顔に複雑な表情が浮かび、しばらくの沈黙の後、重い口を開いた。
「総理、正直に申し上げます。私の誤算でした」
「誤算?」
「当初、私は一般会計からの支出を主張しました。しかし財務省は『これ以上の負担は不可能』の一点張り。そこで年金積立金を狙ったのです。『積立金が40兆円もある』と」
志茂野は立ち上がり、窓の外を見た。
「あれを使えば数年で底をつく。そうなれば、世論も味方につけ、財務省も追加の財政出動を認めざるを得ない。年金破綻という緊急事態を前にすれば、『基礎年金の国庫負担を守る』という大義名分で動くはずだと」
志茂野の声に、苦い後悔が滲んだ。
「まさか、本当に追加繰り入れを拒否するとは。官僚機構の硬直性を読み違えた。私の戦略ミスです」
「つまり、官僚に負けたと」
「いえ」
志茂野は首を振った。その目に、悔いとは違う、新たな闘志が宿った。
「私の本当の失敗は、もっと大きなビジョンを最初から提示しなかったことです。妥協してしまったことだ」
「ビジョン?」
「総理」
志茂野は、がっしりした体を前に乗り出した。
「子供は公共財です。次世代の年金を支え、イノベーションを起こし、国防を担う。それなのに、今まで子育ては『個人的な趣味』として親の自己負担に押し付けられてきた。これは明らかな市場の失敗です。最も重要な社会インフラである『人』への投資を怠ってきたのです」
石原は、志茂野の理論に驚いた。見た目とは裏腹に、彼は徹底した理論家だった。
「だからこそ、財源は国債で賄うべきだった。『未来投資国債』でも『人的資本形成債』でもいい。子供は将来の納税者です。投資として考えれば、リターンは必ずある」
志茂野の声に熱がこもった。
「日本が滅びるか、財政規律を守るか、どちらが大事ですか?必要なら日銀に国債を買わせればいい。異次元の金融緩和ができたのなら、異次元の少子化対策もできるはずです」
志茂野の本音が出た。彼は母親給付金を後悔していない。むしろ、金額も手法も、あまりに小さく、そして臆病だったと悔いているのだ。
石原は、談話の骨子を見せた。
志茂野は素早く目を通した。
「『できれば3人以上』……なるほど」
しばらく考え込んだ後、志茂野は顔を上げた。
「総理、これを言うのであれば、私の先ほどの話も入れていただきたい」
「財源の話かね?」
「はい。『子育ては社会全体の最重要投資である』と明確に位置づけ、『そのために必要な財源は、未来への投資として、大胆な財政出動をもって確保する』と約束してください。国民に負担を求めるなら、国家も覚悟を示すべきです」
石原は考えた。志茂野の主張は過激だが、一理ある。
志茂野は立ち上がった。
「総理、私個人としては、あなたの決断を支持します。父親として、日本の未来を憂う者として」
「しかし?」
「政党代表としては、別です。党内をまとめるのは至難の業でしょう」
「覚悟しています」
志茂野は、石原に手を差し出した。その手は分厚く、力強かった。
「少なくとも、私は最後まで閣内に留まります。ただし、批判の矢面に立つのは、総理、あなた一人でお願いします」
「分かっている」
二人は、固い握手を交わした。
◆ 5 塩田太郎との密談
3月16日 火曜日 午後8時 赤坂の料亭「花月」
石原は、創世党党首の塩田太郎と密会していた。
料亭の個室。障子越しに、庭の竹林が見える。風が吹くと、笹の葉がさらさらと音を立てた。
塩田太郎、68歳。石原より2歳年下だが、政界では大先輩だ。1950年代生まれの最後の大物政治家。父も祖父も政治家という、典型的な世襲議員。
「石原君」
塩田は、日本酒を注ぎながら言った。
「君は何を考えている」
「日本の未来です」
「抽象的だな」
塩田は、刺身を箸でつまんだ。本マグロの大トロ。一切れ3000円はするだろう。
「具体的に言おう」
石原は言った。
「年金制度の真実を、国民に語るつもりです」
塩田の箸が止まった。
「正気か」
「正気です」
塩田は、深いため息をついた。そして、窓の外を見た。
「石原君、政治とは何か知っているか」
「国民のために働くことです」
「違う」
塩田は、石原を見た。その目は、長年政界を生き抜いてきた者の、冷徹な目だった。
「政治とは、可能性の芸術だ。理想ではなく、現実を見る。真実ではなく、受け入れられる嘘を選ぶ」
「それでは、国民を欺くことになります」
「欺く?」
塩田は鼻で笑った。
「国民は真実なんて求めていない。安心を求めている。希望を求めている」
塩田は、日本酒を飲んだ。高級な大吟醸。一合5000円。
「私の父も、祖父も、そうやって政治をしてきた。国民に夢を見せ、希望を与え、そして選挙に勝つ。それが政治家の仕事だ」
「でも、もう限界です」
「限界?まだ大丈夫だ。少なくとも、あと10年は」
「いいえ、2030年には」
「知っている」
塩田が遮った。
「藤原とかいう若造の試算だろう。私も見た」
石原は驚いた。
「ご存じだったんですか」
「当たり前だ。私を誰だと思っている。30年以上、この世界にいるんだ」
塩田は、懐から煙草を取り出した。高級な葉巻。
「でも、だからといって、真実を語る必要はない」
「なぜです」
「パニックが起きる。株価は暴落し、円は紙くずになり、日本経済は崩壊する」
「でも、いずれは」
「いずれは、私たちはもういない」
塩田の言葉は、冷酷だった。
「石原君、君は70歳。私は68歳。あと10年生きられるかどうか。なぜ、私たちが泥をかぶる必要がある」
「次の世代のためです」
「次の世代?」
塩田は笑った。
「彼らには彼らの戦い方がある。私たちの仕事は、今を守ることだ」
二人は、しばらく沈黙した。
料亭の廊下から、仲居の足音が聞こえる。畳を踏む、優雅な音。
「石原君」
塩田が、真剣な表情で言った。
「考え直せ。今なら、まだ間に合う」
「申し訳ありません」
「君は、自分だけでなく、連立政権全体を道連れにするつもりか」
「そのつもりはありません。でも、真実を語らなければ」
塩田は立ち上がった。
「分かった。もう何も言わない。ただ、覚えておけ」
塩田は、石原を見下ろした。
「政治家に必要なのは、正義感ではない。生き残る力だ。君には、それがない」
そう言い残して、塩田は部屋を出て行った。
石原は、一人残された。
窓の外で、竹が風に揺れていた。




