第2章 決断(2)◆3 密談
◆ 3 密談
3月15日 月曜日 午前10時 総理官邸 総理執務室
執務室の重い扉が開き、富沢誠一郎が入ってきた。小脇に抱えた藤原レポートの厚みが、事態の深刻さを物語っている。
「総理、談話の原稿について」
石原は窓際に立ったまま、振り返らなかった。官邸の庭では、早咲きの桜がもう散り始めている。
「富沢君、2月22日の夜、私は一つの決断をした」
富沢は黙って聞いていた。あの極秘会議から3週間。総理の中で、何かが変わったことは感じていた。
「年金破綻は、延命できる。技術的には簡単だ」
石原がゆっくりと振り返る。その顔には、富沢が今まで見たことのない、諦観とも決意ともつかない表情があった。
「しかし、私はあえて延命しない」
執務机に歩み寄りながら、石原は人口動態統計の冊子を手に取った。付箋が何枚も貼られている。
「一般会計から補填する。あるいは為替特会の余剰金を回す」
石原は冊子をめくりながら続けた。
「財務省は抵抗するだろうが、『年金破綻』という四文字を突きつければ動かざるを得ない。10年、いや15年は延命できる」
富沢は黙って聞いていた。総理が何か別のことを考えているのが分かった。
「だが」
石原の指が、ある数字で止まった。
「TFR1.2。この数字が全てを物語っている」
その数字を、まるで呪文のように呟く。富沢は次の言葉を待った。
「年金を延命して、それで?医療保険は2035年に破綻する。介護は2033年。地方のインフラは既に維持できていない」
石原は富沢を見た。
「2040年、高齢者1人を現役1.3人で支える。これは算数の問題だ。解けない算数だ」
窓の外に目をやりながら、石原は続けた。
「国民は気づいていない。いや、気づこうとしない。茹でガエルの話を知っているか」
「温度をゆっくり上げれば、カエルは気づかずに茹で上がる」
富沢が答えた。
「そうだ。今の日本だ」
石原は振り返った。その目に、富沢は初めて見る光があった。
「だが年金破綻は違う。これは誰にでも分かる」
富沢の顔色が変わった。総理の意図を理解し始めていた。
「まさか総理は...年金破綻を延命せず、これを奇貨とされるおつもりですか」
「そうだ」
石原は静かに言い切った。執務室の空気が、一瞬で変わった。
富沢は手にしていたレポートを机に置いた。指先がかすかに震えている。
「それは政治的自殺です。支持率は地に落ち、野党は総辞職を要求し、メディアは連日批判を続けるでしょう」
「分かっている」
石原は富沢に近づいた。そして52歳の部下の肩に、そっと手を置く。
「富沢君」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「茹でガエルを助けようじゃないか。熱湯を注ぐぞ」
富沢は総理の目を見つめた。2月22日の夜、総理が一人で下した決断の深さを、今ようやく理解した。
「総理、2月の会議で『真実を語る』とおっしゃいました。しかし、これは...」
「ああ、"真実"だ。引用符付きの」
石原の声には、自嘲的な響きがあった。
「真実を語ることで、より大きな真実に気づかせる。年金だけの問題ではない、この国全体が静かに枯れていくという真実に」
富沢は深く頭を下げた。
「承知しました。総理の真意、確かに理解いたしました」
顔を上げた時、富沢の目にも同じ光が宿っていた。
「談話に書きます。『政府の力だけでは、もはや全ての国民の老後を保障することは困難』と」
富沢は窓の外に目をやった。桜の花びらが一枚、ガラスに貼りついて、また風に流されていく。
「その一言が出れば、もう後戻りはできません。信用の毀損は不可逆的です」
「そうだ。だからこそ効果がある」
石原は静かに言った。
「優しい嘘の時代を、終わらせる」
富沢は静かに頷いた。二人は見つめ合った。これから起こることの重大さを、二人とも理解していた。
執務室の外で、桜の花びらが風に舞った。まるで、何かの終わりを告げるように。




