第14章 収穫と代償(8)2032年6月22日 水曜日 午後3時
◆ 2032年6月22日 水曜日 午後3時
◇ 首相官邸 記者会見室
「本日は、国民の皆様に重要なお知らせがございます」
石原慎吾は、いつもの記者会見の席についていた。75歳、髪は完全に白くなったが、背筋は真っ直ぐだった。
「私は、今月末をもって、民自党総裁の職を辞することを決意いたしました」
記者席がざわめいた。フラッシュが一斉に光る。事実上の退任表明だった。
「2027年の談話以来、我が国は大きな転換点を迎えました。年金制度の拜本的改革、出生数の回復、そして国民意識の変化。これらはすべて、国民の皆様のご理解とご協力の賜物であります」
石原は一呼吸置いた。
「しかしながら、真の試練はこれからであります。2034年問題、すなわち115万人の子供たちが小学校に入学する時代。この未曾有の課題には、新たなリーダーシップと新たな発想が不可欠です」
記者が手を挙げる。「後継者については?」
「それは党員の皆様にお任せします」石原は穏やかに答えた。「民自党には、優秀な人材が多数おります。必ずや、次の時代にふさわしいリーダーが選出されるものと確信しております」
「総理、約7年半の長期政権を振り返っていかがですか?」
石原は遠くを見つめた。
「私が総理に就任して7年半。この間、日本は大きな転換を遂げました。厳しい決断の連続でしたが、国民の皆様のご理解とご協力により、ここまで来ることができました」
「後悔はありませんか?」
石原は一瞬、目を閉じた。瞼の裏に、この5年間の光景が浮かぶ。産声を上げる赤ん坊、保育園の前の長い列、教室に入りきらない子供たち。
「ありません」
ただ一言、答えた。
記者たちは、それ以上何も聞かなかった。
◆ 2032年7月1日 金曜日
◇ 民自党本部
「民自党総裁選挙を、7月8日に告示、7月22日に投開票とすることを決定しました」
幹事長が記者団に発表した。
すでに複数の立候補予定者の名前が挙がっている。官房長官、財務大臣、そして若手からも…
誰が選ばれるにせよ、次期総理に課せられた使命は明確だった。
115万人の総理ベビーが小学校に入学する2034年4月まで、あと1年9ヶ月。
少子化で閉鎖した教室を再開しても、なお不足する教室数。
廃校になった校舎の再利用を検討しても、教員不足2万人。
そして翌年は140万人、翌々年は160万人…
日本の教育システムは、かつてない試練を迎えようとしている。
◆ 2032年7月8日 金曜日 午前10時
◇ 民自党本部 記者会見室
総裁選が告示された。
立候補者たちが、それぞれの政策を訴える。
「廃校の再利用だけでは足りない。プレハブ校舎も必要だ」
「教員免許の規制を緩和すべきだ」
「統廃合前の旧校舎も総動員する」
「時限的に中学校の教室を借りる法整備を」
「それでも足りない分は、オンライン授業で…」
誰もが必死だった。
誰もが分かっていた。
これは選挙ではない。
日本の未来を賭けた、サバイバルゲームだ。
石原慎吾は、官邸の執務室から、テレビに映る候補者たちを見つめていた。
「誰が選ばれても、地獄だな」
秘書官が頷く。「しかし、嬉しい地獄です」
「そうだな」石原は微笑んだ。「子供たちの声で溢れる地獄なら、本望だ」
窓の外では、夏の日差しがアスファルトを焼いていた。
2027年の談話から5年。
日本は、確実に変わりつつあった。
問題は山積みだ。
しかし、もう後戻りはできない。
総裁選の結果がどうあれ、日本の戦いは続く。
115万人の子供たちと共に。
(第14章 完)
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エピローグへ続く