プロローグ 2070年の教室
# プロローグ
2070年2月28日 木曜日 午後2時45分
福井県立武生高等学校 2年12組
藤原七香は、窓の外をぼんやりと眺めていた。
校庭の向こうで、新校舎の建設工事が進んでいる。来年は13クラス、でも15クラスまでいけるようにするらしい。今でも12クラスあるのに。
日本史の山田先生の声が、遠くから聞こえてくる。
「...では、教科書325ページを開いてください。最後に2027年の出来事について触れておきます...」
七香の視線は、工事現場のクレーンを追っていた。2月末らしい、春の暖かさだ。
「田中君、ここを読んでもらえますか」
前の席の田中翔太が立ち上がる音がした。教科書をタップする小さな音。
「『国民の皆様。本日、私は...』」
翔太が読み始めた瞬間、七香の意識が教室に戻った。自分の教科書のページをめくる。
《*国民の皆様。本日、私は、内閣総理大臣として、我が国が直面する人口問題について、率直に、そして真摯に、国民の皆様にお話をしなければならない重大な局面を迎えたことを、深い憂慮とともに申し上げます。<中略>我が国の合計特殊出生率は、昨年ついに1.20を下回り、出生数は70万人を割り込みました。この数字が意味するところは—*》
(あ...これ、ひいおじいちゃんが言ってたやつだ)
窓の外で、工事現場のクレーンが大きく旋回した。鉄骨を吊り上げている。すごい。あんな重いものを...七香の意識は完全に外に向いてしまった。
「そこ、飛ばして...もう少し先の『現在の出生率』から」
翔太がページをスクロールする音。「あ、ここですね」
「『現在の出生率では...』」
七香は窓の外を見ていたが、その言葉でまた教科書に目を落とした。指が無意識に画面をなぞる。
《*現在の出生率では、政府の力だけでは、もはや全ての国民の老後を保障することは困難であります。<中略>各家庭において、可能な限り、複数の子どもを持つことをご検討いただきたい。これは、国家のためではありません。皆様ご自身と、皆様の家族の将来の生活を守るためであります。*》
「はい、そこまで。鈴木さん、次の部分を」
七香の隣の美月が立った。
「『結婚や出産は、確かに個人の選択であり...』」
美月の声を聞きながら、七香の視線は自分の教科書に落ちた。
《*結婚や出産は、確かに個人の選択であり、自由であります。しかし、その選択が、将来の皆様自身の生活に直結することを、どうか真剣にお考えください。子どもを持たないという選択をされた方々を批判するつもりはありません。しかし、その選択には、老後の生活設計において、相応の準備が必要となることを、ご理解いただきたいのです。*》
あ、クレーンの先端に作業員さんが。4本の腕を器用に使って、ものすごいスピードでネジを締めていく。校庭からリレーの練習の声援が聞こえてきて、作業員さんが猫の耳をピクッとそちらに向けた。かわいい。高所恐怖症の七香には絶対無理だ。ひいおじいちゃんも高いところ苦手だったっけ。そういえば、この言葉もよく言ってたな...
山田先生が教室を見回した。
「この部分、どう思います?」
後ろの席から声が上がった。「自由だって言いながら、選択には責任が伴うって...矛盾してるような」
「そうね。個人の自由を尊重しつつ、現実の厳しさも伝えている。この緊張感が当時の議論を呼んだのよ」
山田先生が頷く。七香はまたぼんやりと窓の外を見始めた。
工事現場では、作業員たちが忙しく動き回っている。生徒数が増え続けているから、教室が足りないのだ。
「では...おっと、藤原さん」
「...はい?」
七香は慌てて顔を上げた。クラスの何人かがクスッと笑った。
「起きてましたか?」
「起きてます!」
慌てて背筋を伸ばす。山田先生が苦笑した。
「じゃあ、談話の締めくくり、最も議論を呼んだ一文を読んでもらえますか」
「えっと...」
美月が素早く横から手を伸ばして、七香の教科書画面を二本指でピンチアウト。該当箇所が拡大表示された。
「『どうか、皆様一人一人が...』」
七香は声に出して読みながら、画面の文字を目で追った。
《*どうか、皆様一人一人が、ご自身と家族の未来のために、そして我が国の未来のために、真剣に人生設計をお考えいただきたい。子どもを持つことは、負担ではなく、最も確実な未来への投資であることを、ご理解いただければ幸いです。*》
あれ?クレーンの横に鳥が...カラス?いや、もっと大きい。トンビかな?都会でも見るんだ。
読み終わると、教室が静かになった。
「ありがとう。これが、2027年4月1日に発表された談話の一部です」
山田先生が黒板に「2027.4.1」と大きく書いた。
「この日から、日本は大きく変わりました。詳しくは来週やりますが...」
チャイムが鳴った。
「はい、今日はここまで」
生徒たちが立ち上がる。七香も慌てて教科書をスリープモードにして鞄に滑り込ませた。
「起立、礼!」
「ありがとうございました!」
荷物をまとめて、教室後ろの冷凍庫からアイスを取り出していると、廊下から声がした。
「七香〜!」
姉の六花が、教室のドアから顔を覗かせている。
「一緒に帰ろう!」
「うん、今行く!」
美月も自分のアイスを取り出しながら立ち上がった。
「私も一緒にいい?」
「もちろん!」
3人で教室を出る。廊下は生徒でごった返していた。1組から12組まで、どの教室からも生徒が溢れ出してくる。
「ねぇ、あと一ヶ月ちょっとで4月1日だよね」
美月が言った。
「エイプリルフール」
「そう。43年前の4月1日に、あの談話が発表されたんだ」
六花が言いながら、階段を下りていく。
「なんか皮肉だよね。最も残酷な真実を、嘘の日に」
七香は、さっき読んだ文章を思い出していた。
(ひいおじいちゃん、あの談話に関わってたのかな...)
「ほらー、七香行くよ〜!置いてっちゃうよ〜!」
六花と美月が、もう昇降口まで行っている。
「待って待って!今行くから!」
七香は、アイスを持ったまま駆け出した。
窓の外では、新校舎の鉄骨が、青空に向かって伸びていた。
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(プロローグ 完)