⑤
部屋の中は静まり返っていた。
沈黙を破ったのは、ユキノだった。
「……あの、どうしてもっと前の段階で《王の鉤爪》に相談なさらなかったのでしょう」
その言葉は、黙りこくっているエチゴ夫人への言葉だった。
「私……どうしてノジが私の元を尋ねてくれるのか、ずっと不思議だったんです。地位もあって才能もあって、全てにおいて満たされている彼が、《牙無し》の私なんかと……同情かな、って思ってたんです」
「ノジ……が、あなたのところへ……?」
エチゴ夫人が驚いたようにユキノを見つめる。
(……? なんだか意外だな)
オレが違和感を感じたのは、エチゴ夫人の声に侮蔑の響きがなかった事だ。
体裁を重んじる夫人の事だ。
きっと差別意識も強いに違いない、とオレは思い込んでいた。
息子と《牙無し》が密かに会っていたなどと知れば、半狂乱になりそうなものだ。
けれど、夫人の瞳に浮かんでいるのは、嫌悪感ではなく純粋な驚きのように見える。
「ノジは、誰にも言えない悩みを抱えていたんですね。それをずっと隠していて……自分をずっと偽っていたんですね。ノジは、家族の事をほとんど話してくれませんでした。弟さんが薬物中毒だなんて……本人はもちろん、家族だってつらかったと思います。だったら、もっと早くに——」
「薬物中毒って言ってもね。毎日ベッドに横たわっているわけではないのよ。快活で、活動的な時だってあるの。薬の影響で暴れたり、朦朧としているばかりじゃないの……」
(『ばかりじゃない』って事は……逆に言えば、暴れて手がつけられない時もあった……って事だよな)
言い訳のように言葉を並べる夫人に、ユキノは食い下がる。
「だから、放っておいたんですか? 隠し通そうとしたんですか? 家族が悩んでいたとしても?」
「違うのよ! 違うの……ただ……守りたくて……」
「家を守るのがそんなに大事ですか!?」
「違うの!……違うのよ」
「何が違うんですか!? 家を守るためだけに犠牲になる者の気持ちがあなたにわかりますか!?」
ユキノのその言葉には、もしかしたら自分の家族への恨みもこもっていたのかもしれない。
(ユキノ自身も、家の体裁のため、隠れて暮らしているからな……)
「あなたが保身に走って……その結果どうなりましたか? こうなったのも、ノジの弟さんが、薬に溺れたりしたせいじゃないんですか? こんな事……こんな事言いたくないですけど……」
ユキノは、恨みがましく、夫人に言い放った。
「……いなくなったのが、ノジじゃなくて、弟さんの方だったらよかったのに……」
「あなたに何がわかるのよ!」
エチゴ夫人が牙を剥き、ユキノに飛びかかろうとしたところ、執事が慌てて抑える。
ユキノはタガが外れたのが、なおも夫人に言い募ろうとするので、オレは彼女を必死に抑える。
(気持ちはわからないでもないけど……それはさすがに言っちゃダメだ……)
優しく才能あふれる恋人は行方不明になり、その彼の悩みの種であった薬物中毒の弟は今も屋敷の奥で匿われている。
ユキノにしてみれば、理不尽に感じるのだろう。
そこに、「違うんです、ユキノ様」と静かな声がかかった。
バショウ隊長だ。
「違うんですよね? エチゴ夫人。あなたが隠していたのは、ヌリ様の事ではないのですね」
(……ん? どういう事だ?)
バショウ隊長は、まだ何かを知っているようだ。
けれど、オレが隊長から聞かされていたのは、屋敷で見つかった死体の真相についてだけだ。
「あなたが、大切に隠していたのは、守っていたのは、包んでいたのは——」
その時、扉が開く音がした。
エチゴ夫人が引きつった顔でそちらを向く。
部屋の扉の細く開いた隙間から、オレンジ色の縞模様がのぞいている。
「——何してるの! あなたは、自分の部屋にいてちょうだい!」
「いや……いつまでもそうしてるわけにもいかないよ」
ドアの隙間から身を滑らせて入ってきたのは、エチゴ家の次男ヌリ——?
明るいオレンジの毛並みに、黒い縞模様が波打っている。
けれど……
彼は、その毛皮を脱ぎ捨てた。
「ご挨拶が遅れて申し訳ございません」
中から現れたのは、白い肌。
茶色の短髪。
薄い唇。
細い指。
「私は……エチゴ家の長男のノジです」
彼は決意を固めた声で言った。
「《牙無し》のノジです」




