⑪
「申し訳ございませんが、今一度、お戻りいただけないでしょうか。当主からお二方に折り入ってご相談がございます」
深海色のガラス扉から敷地外に出ようとした時だった。
オレ達は後ろから呼び止められた。
振り返ると強張った顔のエチゴ家の侍女頭が息を切らして立っていた。
(なんだろう。厄介な匂いがする)
その予感は当たる事となった。
応接室に戻ったオレたちに、エチゴ夫人は強張った顔で口を開いた。
「仮に、ですけどね。私達が何かトラブルに巻き込まれていたとして……あなたに依頼したら、秘密裏に解決してくださるのかしら」
(トラブル?)
「もちろん」と、バショウ隊長は間髪入れずに頷いた。
「北の不祥事、南の不合理、東の不都合、西の不始末。この国の全部を、あたくし共がお包みします」
回りくどい口上だ。
(はっきり『あなた達の事は特別扱いしますのでぜひご安心を』とでも言えばいいのに)
エチゴ夫人は随分と思い悩んでいるようだった。
そして、なぜかオレの方をじっと見つめた。
(な……なんだ?)
居心地が悪くて身じろぎしていると、夫人は何かを決断したかのように頷いた。
「あなた方に調べていただきたい事がございます」
エチゴ夫人はそう言って、ついて来るようオレ達を促した。
案内された部屋の扉の前で夫人は「こちらで見聞きした事は外部に漏らさぬようお約束ください」と念押ししてきた。
厄介事。
嫌な予感。
不穏な匂い。
それは比喩なんかじゃない。
扉を挟んだ向こう側から漂ってくる、生臭い匂いはバショウ隊長も感じ取っているはずだ。
エチゴ夫人は傍らにいた執事に扉を開けさせた。
途端、強烈な悪臭がオレ達を襲った。
思わず鼻を塞ぐ。
見るとエチゴ夫人も執事も、鼻先を布で覆っている。
バショウ隊長だけが、ピクリと眉を動かしただけで、スタスタと部屋の中に入って行った。
ゆらりと尻尾が揺れている。
慌ててオレも後を追う。
淀んだ臭気がオレ達を包む。
(……これは……)
家財道具がいくつか引き倒されている。
床の上には、奇妙な模様が描かれていた。
ところどころがかすれていて、まるで子供が床にでたらめに書き殴ったような、不規則な模様。
(……なんだこれは……? 絵……いや、文字か……?)
そして部屋中央。
そこにはバショウ隊長が立ち、じっと足元を見下ろしている。
「……た……隊長……」
オレは声を絞り出した。
「それは……死体……ですか」
「ご遺体、だね」
バショウ隊長はオレの方を見ずに言った。
バショウ隊長の視線の先。
そこには獣人が倒れていた。
苦悶の形に歪められた顔。
赤黒く染まっている毛皮。
見開かれた目からは生気が感じられない。
(殺された……のか?)
「んふぅ。これアレだねぇ」
バショウ隊長はそう言ってかがみ込んだ。
「……死因は腹部の傷かな?」
そう言って腹を覗き込む。
血に塗れてはっきりしないけれど、おそらく茶縞の獣人のようだ。
肩のあたりは筋肉がつき、がっちりとしているが、腹のあたりはガリガリだ。
爪にキャップは付いていない。
開いたままの口から覗く牙は、嘔吐物か何かで汚れていた。
「……この有様……部屋で争ったんですかね……?」
血の匂いに眩暈を起こしそうになるのを必死に堪えて、オレはかすれ声で言った。
そんなオレに、バショウ隊長は気遣わしげな視線を向ける。
(……くそ、このままではガキ扱いされる……)
腹に力を入れ、吐きそうになるのを堪える。
バショウ隊長は顔色ひとつ変えずにエチゴ夫人に質問を投げかける。
「ここはどなたの部屋でしょうか」
「行方不明中の……息子の部屋です」
「ははあ、なるほど。ご長男の……」
バショウ隊長は立ち上がって、部屋をゆっくりと歩き回る。
書棚や書物机、床やベッドを屈んだり覗き込んだりと、じっくりと観察していく。
部屋の隅に小さなクッションが置かれている。
その前に来た隊長はひっくり返っている皿を持ち上げ、近くに落ちている小石らしきものをつまみ上げてしげしげと眺めている。
そのまま窓の前まで歩いて行った彼女は、木目でも数えているのかというぐらいに窓枠に目を近づけて首を傾げた。
その姿勢のまま、穏やかな口調で質問を続ける。
「この遺体はどなたが発見されたのですか?」
「執事です」
夫人は短く答え、傍らに控えていた執事に目をやる。
影のように佇んでいた彼は夫人の視線を受け、ゆっくりと口を開いた。
「その……ぼっちゃまが行方不明になった後、こちらの部屋は掃除などの都合上、施錠しておりませんでした。しかし昨日の朝、使用人が入ろうとしたところ、鍵がかかっていたそうなのです。そのため、私が確認をしにこちらの部屋へ参りました。鍵を開けて中に入ると、この有様で……」
「鍵?」
オレは思わず聞き返す。
「鍵が閉まっていたんですか?」
「ええ。その通りです」
(……わからない。なんで扉に鍵なんて……)
「んふぅ。これまったくアレですねぇ」
バショウ隊長はそう言って頷き「それで、肝心な事なのですが」と夫人に向き直った。
「こちらはどなたでしょうか」
「存じ上げません」
「え?」
反射的に聞き返したオレを、夫人はキッと睨んで言った。
「この方がどなたなのか、私共は存じ上げません」
「知らない男が、屋敷の部屋で――ご長男の部屋で殺されていたって言うんですか?」
「そうです」
(いや、そんなわけはないだろう)
オレは死んでいる獣人を見つめた。
歪んだ顔は血や吐瀉物に汚されて、本来の毛色の判別がつかない。
けれど、夫人は奇妙なほどきっぱりと「存じ上げない」と言い切った。
「見知らぬ男が、エチゴ家の屋敷で殺されていたのです。こんな醜聞、外部に漏らすわけには参りません」
部屋の荒らされた様子をもう一度見る。
さっきは争った後だと思ったけれど、よくよく考えれば、自殺を試みた者が、痛みにのたうち回ることも無いわけでもない。
けれど、他殺にしろ自殺にしろ、見知らぬ屋敷に忍び込んだ獣人が、たまたまそこで命を落とすなんて事あるわけがない。
絶対に、この死体はエチゴ家と関係があるはずだ。
エチゴ夫人はすがるような目をしてバショウ隊長に告げた。
「あなた方には、秘密裏に、この男の正体を突き止めて欲しいのです」




