大広間
妙に重たく感じる瞼を開けて、孝弘が最初に見たのはだだ不気味なまっくらな空間だった。
自身が仰向けの状態で横になっていることを、おぼろげに自覚しながら孝弘の意識は徐々に鮮明なモノへと変わっていく。
自身が寝ているのは、感触的におそらくは畳だろう。そして、ここは大分、薄暗い。物が見えないという程ではないが、字を読むには難儀しそうな暗さで、言ってみればカーテンを閉め切った日中の部屋程度の明るさしかないそうだった。それを踏まえてよくよく見れば、最初にみた真っ暗な空間も、高さはあれど天井はきちんとあり、そこに無限の闇が広がっているわけではなく少し安堵する。
そんなことを思いながら視線をキョロキョロ巡らせ、ここがかなり広い和室である事が分かってくる。
ここはどこだ?
まるで寺の本堂を思い起こさせる広い和室。それが分かったところで、ここがどこかはわからない。どこか見覚えがあるような気もするし、まったく知らない場所という気もする。
情報が足りない。
孝弘はゆっくりと身体を起こした。
「おや、目が覚めましたか?」
すると、上半身を起こした孝弘の背後から声が掛り、思わずビクリと肩が上がってしまう。
「あぁすいません。脅かすつもりはなかったのですが」
続けざまに背後から、今度は申し訳なさが使わるおだやかな口調の声が再度掛けられ、今度は落ち着いてゆっくり自身の背後へと視線を向けた。
声をかけてきた誰何は、ほぼ孝弘の真後ろに胡坐をかいて座っていた。
その人物は仕立てのよさそうなワイシャツを着て、こちらを安心させる為か柔和なほほえみをこしらえてこちらを見ていた。印象としてはどこか気品を感じさせる穏やかそうな男性で、部屋自体の薄暗さもあってはっきりしないものの、年は孝弘より一回りくらいは上な気がした。
「あなたは」誰ですか? そう聞こうと口を開いた孝弘の一声は、無遠慮に割り込んだ別の声によって遮られた。
「おい、お前! ここはどこだ!?」
先ほどのワイシャツの男性とは別の、脅しかけるような乱暴な問いに孝弘は途端に萎縮し、有り体に言ってビビりながら「わ、分かりません…」と言葉を詰まらせながらなんとか返す。
たった今、起きたばかりの孝弘にここがどこかなんで分かる訳がなかった。
今の状況すら、よく分かっていない。むしろ、孝弘自身がそれを知りたいくらいだ。
「使えねぇおっさんだ。くそが」
舌打ちと共に勝手な事を吐き捨てるその声の主は、ちらっと見た限り年は大分若く細身な青年のようだ。ただ、ガラの悪さを微塵も隠さないその態度から関わり合いになりなくない孝弘は、即座に目を逸らしてそっちに関しては無心を決め込むことにする。
「状況は皆同じなんですから、そう恫喝するものではありませんよ?」
「うっせぇ、くそジジィ」
先ほどのガラの悪い青年を窘める声と、それに被せるように喚く青年の声を極力無視して周囲を観察する。すると、この部屋には他にも複数、人が居る。
と、そこで孝弘はハッと我に返った。ここがどこかという以前に、先ほどまで同行していた妻は、春香はどこだ。周囲を見渡しても、彼女の姿は見えない。薄暗い部屋のどこを見ても、妻の姿は、無い。
「大丈夫?」
孝弘より若干高いところから掛けられたその声に孝弘は、少し落ち着きを取り戻す。
そして改めて、その声の主を見やる。
相手は子供だった。まだ声変わり前であどけなさが残る男の子。小学校の低学年くらいの背丈をした彼は、孝弘の足元付近、その右側に立ったまま、孝弘のほうを眺めるようにして見ていた。
「大丈夫?」
〈少年〉が繰り返し、そういった。
「あ、あぁ…大丈夫だよ。びっくりはしてるけど」
「そう?」
何やら不思議そうな、でもさほど興味もないようなつかみどころのない口調で〈少年〉はそう言って、孝弘の顔、というより目を見てくる。釣られるように孝弘もその〈少年〉を見て、思わず背筋がゾクりとした。その目は一見無邪気な子供のつぶらな瞳のようだが、その実、こちらを見透かすような、はたまた観察するような、もしくは生身ではなく映像を介してこちらを見ているような、言葉にして表すのは難しく、冷たさとは違う得体の知れなさに溢れている。少なくとも、孝弘はそう感じ取って思わず目を逸らす。ありえないと分かっていても、直視していると食われるような気がしたから。
「貴方も、ここに連れてこられたクチですか?」
そう声を掛けてきたのは、最初に声を掛けてきたワイシャツの男。妙にホッとしたのを自覚しながら、孝弘は男の問いかけに返事した。
「多分、そうなりますね。少なくとも、自分からここに来た記憶はないですし」
「私もです。事務所で書き物をしていた筈なのですが、気が付いたらここに居ました」
「私も似たようなモノですね。妻と温泉旅行に向かう最中、気が付いたらココに居たって感じです」
「ほお、温泉ですか。良いですね、夫婦水入らず楽しそうだ。奥さんは…」
「ここには居ないようです。あいつは車に残ってスマホを弄ってたのは見ましたが、私自身、車から降りて自販機の茶を買った辺りで記憶が途絶えてます」
「それは…心配ですね」
「えぇ、無事で居てくれれば良いが」
そんな会話をしながら、自分よりは状況を理解していそうな男に更なる問を投げかけようとして、失敗した。
「全員、起きたようだね」
一切の抑揚も感じられない無機質な音声が、奇妙なこの場に響き渡ったからだ。