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趣味と実益

 この世で唯一不変の正義は「愛」であると私は考える。けれど、正義は客観的公平さではなく、大多数が考える公平さによって成り立つものであり、それは絶対性をもつ力であると私は考える。

 

 この力がどのように使われるか。勿論、愛する人や物、場所を守るために使われるのだ。

 

 過激的ではあるが、戦争がその顕著な例であろう。戦争において、指導者などは違うかもしれないが、普通の国民が一般兵として戦う理由はそこだと考える。指導者たちが謳うように戦争は侵犯しあい、略奪しあうものである。自分の愛すべき国を場所を、人を、守りたいと言われる。日常を日常として平凡に生きる彼らにとって看過すべき事態ではないのである。戦争を経験したこともない小童が言うことには下らんと切り捨ててもよいが、しかし、それでも歴史というものが語るほんの一部ではこのようなことが起こっている。バレンタインデーは戦争の話である。


 それは確かに過激な言い分である。けれど、私たちが日常を過ごすことにおいてもそれは多く言えると考える。愛するための家族のために頑張る。我慢をする。無茶をやり通す。守りたい人たちのために頑張る。我慢する。無茶をやり通す。本当に小さなことでもそこには“誰かのため”という注釈がついてしまう。


 しかし、それは駄目なのだと私は考える。ここで駄目だというのは頑張ったり無茶したりすることではない。“誰かのため”という注釈が付いたまま行動してはいけないのだと私は考える。

 

 最初に述べたが正義は客観的公平さを持っていない、持っているのは大多数が考える公平さだ、と。そこが問題点だと私は考える。この世の全ての行動において責任が伴う。そして、その責任は自らが背負わなくてはならない。他者が背負うことなどあってはいけないのだと考える。まぁ、一つや二つ例外はあるかもしれない。幼子とか。

 

 正義、大多数の公平性による行動の責任は必ず、自分に帰因しない。それらは、必ず大多数の公平性に帰因するのだ。帰因してしまうのだ。だから、私たちはその行動をしょうがなかったのだと、正しかったのだと、呪いのように楔のように肯定する。肯定してしまう。

 

 結局、私たちは何も学ぶことが出来なくなってしまう。暴走してしまう。

 

 だから、“自分のため”に行動をしなければならない。“自分のため”に行動して、それが結果的に愛する人や物、場所のためになればよい。間違ってしまったら、後悔して、反省して、進むことが出来る。けれど“誰かのため”が少しでも入ってしまったら……。 

 

 たぶん、私たちは進むことが出来ない。前にも後ろにも横にも、さらには上や下にも、どこにも進めなくなるのだ。

 

 私は思う。人類が築き上げてきた時間に比べたら、たかが知れている私だが、それでも思う。今後の社会を生きる上で、社会に貢献する上で、私たちには趣味と実益を兼ねられる想いをもって行動していかなければならないのだと考える。

何かのきっかけになったら嬉しいです。

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