バイカル湖と寒冷適応
何度も書いてるが未だにネットの情報はあまりに酷いので書いておきたい。日本人と言うより東アジア全体でバイカル湖との関係をきちんとしておきたい。東アジア人のルーツとしてバイカル湖が述べられるがそう単純じゃない。
バイカル湖に最初に住みだしたのは西洋人に近い集団になる。西洋人のコアともいうべき集団が東西に分かれて西に向かったのが東欧辺りに住み着いた。東へ向かったのがそこからアメリカ大陸までつながる大集団になる。バイカル湖の西側もそれらの集団が古代人骨出てくる。重要じゃないが例外的にインドアジアに多いオーストラノイドに近い集団がちらほら出るぐらい。
何故じゃバイカル湖起源説が出てきたか?と言うと彼らの歯が問題だったからになる。はっきりいうと歯は集団を占めるのに不適当なものだと言える。欧州集団も元は歯が大きかったらしい、後の農業化の時期に退化しただけでとても歴史が浅い。バイカル湖に欧州集団の先祖が住みだした時代にはまだ歯が大きかったと考えられるので歯で判断したから失敗したと見ている。
今のアフリカ集団よりは近いが、アジアの中ではかなり遠い集団だったと言える。端的に言うと、今のバイカル湖の集団は東海岸から移動してきた全くの別集団である。これにわずかに残った欧州先祖集団が混血した程度じゃないか?と考えられる。古人骨mtハプロの中にわずかに欧州系のハプロが出てくるからになる。それでもほぼ別集団だといって良い。
東アジア人にとって重要なのはバイカル湖に2つめの集団がやってきたのはいつか?になる。はっきり言えば全く分からない。分かってるのは新石器時代という長い期間の遺跡で東海岸集団と似たDNAの人骨が出ているという事になる。その細かい年代を私は知らない。これが青銅器時代なら期間が短いが新石器時代はかなり長いのでいつやってきたか?が良くわからない。
本来バイカル湖は重要じゃなかった。だが中国の西北で黄河中流域とは全く違う大柄な人骨が発見されている点。これは明らかに寒冷適応の集団だとわかる。この集団は黄河中流域を通らずにいきなり西北に表れたとなる。寒冷適応の集団だと思わるため、北方から移動してきたと考えられる。
そのルートは?となる。当初内蒙古で考えたが、ひょっとしたらバイカル湖からだったのでは?と思い直している。モンゴル高原、バイカル湖、内蒙古。このあたりで一番古い人骨が出てるのは内蒙古近辺が主になる。そこなら現在見つかってる人骨なら移動ルートを特定できる。しかもこの近辺にかなり古い農業に使われたと思われる石器も残っていてほぼ確定じゃないか?と思う。
でも引っ掛かりもある。西北の農業関係の遺跡がかなり古い。もっと前から来ていたのじゃないか?と思わる点。現時点で分かっている考古学的証拠からは内蒙古ルートだと考えられる。だがその場合同じ考古学的証拠から同様の時期に表れる西北の農業開始時期の遺跡が矛盾する。徐々に広がっていった時代関係にならない。
農業開始のノウハウを持った採集集団が農業開始前に広がっていて、それらが同時多発的に農業を始めたのではないか?と考えられる。元々採集時代の穀物加工石器がそのまま使えるので、草原狩猟集団には違和感のある石器も採集が重視される集団の場合重なっている場合が多い。
ちょっとややこしくなるのが、最終氷河期に広がった集団はそのまま拡散したのか?ならこれがやっかい。最終氷河期後の寒冷化=ヤンガードリアス期には植生がやや寒い時代に逆戻りしてしまったため植生の広がりとともに拡散した河川漁労森林採集集団という図式がなりたたない。最終氷河期から新石器時代の間の期間の土器の拡散の流れがどうもあやふやになっている。
最終氷河期から暖かくなっていく期間確かに土器は河川の下流から上流へと拡散している。それは別の河への移住も含めてになる。だが12000年から10000年付近のヤンガードリアス期の付近の拡散については良くわかってない。私の調査不足なのか?実際見つかってないのか?が良くわからない。
旧石器から新石器の変化が良くわからない。これがかなり致命的。
ただ一つだけ言えるのは、東シベリア、東アジアこれらをまとめた寒冷適応の集団がバイカル湖で生まれたは全くの間違い。具体的に寒冷適応がどこで起きたのか?は全く分からない。まず第一に寒冷適応遺伝子が生まれた地域は1つで良いと思う。複数の地域で生まれた遺伝子が混血で集まったはない。
その理由として、寒冷適応はバラバラに分かれて民族集団に広がってないからすべてまとめてセットで広がっている。これは別地域で生まれたバラバラの遺伝子が混血で1つになったわけじゃないのを示している。敢えて言うなら耳垢遺伝子だけは時代的に前の時代で生まれている。その証拠にアメリカ先住民もこの遺伝子を持ってるから。
これはバラバラで生まれた証拠になる。
どれぐらい関わってるか?わからないが、ある程度まとめてセットでできた遺伝子が東アジア、シベリアに拡散して適応的に増えたと見ている。これらのセットから外すのは耳垢と直毛とシナドント的歯の特徴になる。これらはアメリカ先住民にも共通してるため他の寒冷適応の特徴とは別の時代地域で生まれたのが分かる。
しかも歯と直毛と汗腺は同じ遺伝子らしいのでセットで見て良いのと、耳垢も汗腺に関する遺伝子と同じなので、汗腺関係の違う遺伝子2つと見ていい。アメリカ先住民はひげも薄いので、汗腺に関する2つの遺伝子が寒冷適応で変化したと見ている。
それ以外のアメリカ先住民にはない特徴が東アジアシベリアの寒冷適応の特徴となる。遺伝子が生まれた場所と適応的に遺伝子が広がった場所は別だと見ている。その理由は、これらの遺伝子だけが共通してるだけで、他の部分は東アジア人と東シベリア人の集団は近い集団ではない。むしろ東シベリア集団はアメリカ先住民の集団に近い。
単純な同一集団ならこの遺伝距離にはならない。特定の遺伝子だけが適応的だったので広がったとなる。ハプロが分かりやすい例だと思う。フィンランド人と東アジア人はわずかだが遺伝的関係がある。だが遺伝的な集団としてはフィンランド人は欧州人になる。全DNAの中で父系直系の遺伝子だけが何故強く残ってしまっただけになる。日本人の縄文父系も同じになる。
適応的ではないが社会的に特定の遺伝子が選別されて残ってしまった似た例になる。
バイカル湖でも寒冷適応があった可能性がある。だがバイカル湖から寒冷適応が広がったわけじゃない。その証拠に後から移住したブリヤート人も寒冷適応が強い集団になっている。遺伝子だけが拡散して、それらが適応的に増えたのは同時多発的だったと私は見ている。
寒冷適応の時期が分からないのだが、それでもバイカル湖でもそれが同時多発的にあったとすれば、中国西北の農業集団はバイカル湖から南下した集団である可能性も十分にある。モンゴル高原はとにかく旧石器時代の人骨がほとんど見つからない。石器だけが見つかる。人骨が見つからないというのは、この付近元は西方の欧州集団の地域だったために、石器からは遺伝集団の移動は判別できない。
内蒙古は新石器時代に石器に東北アジア集団と関係性がうかがえる。人骨はかなり後で、内蒙古で人骨が見つかるころには同時に東アジア全体で人骨が見つかってるため、東海岸集団がいつ西に広がったのが分からない。
何故人骨が見つかるか?の理屈がとても単純なのだが、農業で人口が増えたのと定住するようになったからになる。特定の地域を掘ってりゃそのうち当たるって確率論になる。実際の移動は人工が少なかったもっと前になされてる可能性が高い。内蒙古で見つかる遺跡の前の時代に本当はバイカル湖に拡散した集団が、南下してきた可能性も捨てられないのだ。
中国中部北上した可能性はないのか?中国の稲作集団の歴史は古いが、彼らが北上したのか?はなんとも言えない。南下は間違いない。その理由として、人骨に寒冷適応したはっきりとした証拠が残されてるからで、それらの集団が南部から北上した集団ではありえない。それはDNAを見るまでもない。
ただ北上した集団もある。黄河南部では稲作地域もあったからになる。それでも大半の人骨に寒冷適応の後が見れるので、先に農業を黄河流域で始めたのは寒冷適応した南下集団であった可能性が高い。そしてこれらは強引な推論じゃない。南部と北部で旧石器時代から森林採集漁労土器集団が別々にいたのが分かってるからになる。
いくつかある可能性を絞り込むには証拠がいる。そのために必要なものはまずバイカル湖の新石器時代の遺跡の細かな年代。次にそれらがどこまでさかのぼれるか?になる。後は寒冷適応の人骨の年代になる。そもそもバイカル湖は欧州系の人骨の後いきなり空白時代があり飛んで新石器時代に寒冷適応した人骨が見つかるとなる。
漠然と新石器時代では困るというのは、すでにカザフあたりに寒冷適応した人骨が新石器時代には出ているからになる。当然だろう、これらの集団がサモエードやフィンランド人の祖先なので。東から西に向かった集団なのでバイカル湖はそれらの集団より前の時代にならないといけない。中国の西北の新石器時代の遺跡の人骨より前の時代の人骨がバイカル湖でみつからないといけない。
後は内蒙古は東北よりならかなり古い人骨が見つかってるが、西にいくほどそれほど古くはない。だからここは石器でもいいかな?とは思う。狩猟ではなく農業に関係した石器が見つかる遺跡でいいと思う。バイカル湖がここより古い寒冷適応した人骨や農業採集などの石器がみつからないとバイカル湖は内蒙古から北上したのでは?となってしまう。
遺伝的には南部から北部そして、東部から西部と言う流れでたどれるようになっている。そこから考えるとやはりバイカル湖のグループは東海岸の集団が西に移動したものだとわかる。ただ問題はじゃ中国人のルーツともいえる西北の集団はどのルートをたどったのか?までは分からない。
後はシベリアや中国東北地方で寒冷適応してから移住したのか?それともその前に移動してバイカル湖で適応したのか?適応的に拡散したのは遺伝的な関係でほぼ間違いない。一部の地域で寒冷適応した集団が東アジアシベリアに拡大したとすると集団の遠い遺伝的距離に矛盾が生じる。
私はバイカル湖で適応したというのは疑わしいと思っている。ヤンガードリアス期後の11000~10000年の間の温暖化の時期に中国東北部から移動したと見ている。東シベリア集団はあまり移動してない。アルタイやバイカル湖西に住む集団は、ヤンガードリアス期の前にすでに移住していたのではないか?と見ている。
彼らは寒冷適応をほとんどしてない。ただし集団によってはサモエードファン人の祖先の西進の過程で混血してるため寒冷適応した集団も多々いるが新石器時代のそれは混血だとすぐにわかる。
寒冷適応の時代にバイカル湖に人はいなかったと私は見ている。実際何も出てこないんだから。敢えて今回テーマとしたのは可能性としてはそれほど突拍子もない発想ではないって意味にすぎない。私は中国の西北の集団は内蒙古から広がったものだと見ている。