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うちの駄犬がすみません

作者: 日野うお

別の連載物も終わっていないのに、うっかり浮気をしてしまいました。

お気楽に読んでいただければ幸いです。

「本っ当に、うちのレジナルドがすみません!」

勢いよく頭を下げるクラリッサの横で、銀髪の少年は笑顔で立っている。

その笑みは、にこにこというよりにまにまに近い。しかしどちらにしても状況にそぐわない。

気配に気づいたクラリッサは、下げた顔をそのままに横目でキッと睨み上げる。

「レジナルド!何へらへらしてるのよ、ちゃんと自分でも謝りなさいっ!」

「うん、分かってるって~」

「レジナルドぉ!!」



「クラリッサさん!大変です!」

「っはいただ今!」

クラリッサは差しかけの針を針山に戻しつつ立ち上がる。その反射的な動きときたら、常日ごろから訓練を積んだ警備兵のよう。

「あのすみませんちょっと家庭の事情で昼休憩を早めに取らせていただきたいのですがその分残業して終わらせますのでっ」

これまた一息に言い切る彼女に、店主も苦笑いでうなずく。

「ありがとうございます!」

大きく下げた頭も上げきらずに走り出ていくクラリッサに、店主は呟いた。

「かわいそうに、あの子が昼を抜くのは何回目だろうね」


クラリッサは走る。

いい年の娘がこんなふうに走るものではないとは、もちろん知っている。けれども、行って帰ってその間に問題を解決してくるには昼休憩をつぶしても足りなくなるかもしれないから、ぎりぎりはしたないけれども許される程度のスピードで、小走りだ。

「あの、ばかは、きょうは、なにを?」

「えっと、こんな場所で、女性相手にいうべきでないことっていうかそんな感じです」

息切れで途切れ途切れのクラリッサの言葉を、同行者は聞き取ってくれた。そして言いにくそうに答える。

クラリッサはがくんとうなだれたが、器用にも足は動かし続けた。

「本当、そんなことで、また走らせて、ごめんなさい」

「いえ、クラリッサさんが謝ることじゃないですよ」

気遣うような声音がじんとくる。クラリッサは唇を固く結んで、泣きそうになるのをこらえた。

目的地はクラリッサの最高速度で仕事場から十分程離れたところにある。その赤煉瓦づくりの建物が見えると、クラリッサの胃袋はぎゅっと絞られたように痛くなった。うちの雑巾よりしょっちゅう絞られている気がする、とクラリッサは現実逃避する。

「大丈夫ですか?」

「平気よ。あなたこそ、もう大丈夫だから授業に戻ってね」

呼びに寄こされた彼は、ここの学生なのだ。勉学の機会を奪って、そのうえ年下に心配をかけているという状況は、さらにクラリッサの胃袋をひねりあげる。

だからにっこり笑って彼を教室に帰らせた。それから、ふうと一つ息を吐いて、呼吸とその他諸々を整える。そして迷いなくまた歩き出した。

クラリッサはこの学校の卒業生ではない。ここは、優秀な人間が士官を目指して入るところで、本当なら基礎教育を終えてすぐにお針子の見習いにでたクラリッサにとっては、一生立ち入らなかったはずの場所だ。

それがもう、すっかりこの道だけは覚えてしまった。

門をくぐってまっすぐ、そして突き当たりの階段を二階に上がる。立派なその扉をノックしようと手を上げたところで、中から扉が開いた。

正面の人物と目が合う。五十あたりに見える焦げ茶の髪と口ひげのこの男性が、校長だ。

「いつも通り迅速な対応、感謝します。こちらへ」

中の人々は、誰かと問うことすらなくクラリッサを招き入れた。

「またご迷惑をおかけしたようで、申し訳ありません」

クラリッサは席に着く前に、深々と頭を下げた。そして、頭を上げるようにいわれてそこでこちらへ向けられる強い視線に気付いた。そちらを見れば、銀髪に空色の目の少年と目が合った。彼はすぐにへらっと笑い、横に立っていた教師に注意された。

「レジナルド!」

「レディ・コナー。まずは我々から事情を説明させていただきたい」

クラリッサはたまらず声を上げたが、校長に遮られた。それで彼女は恥じ入って座り直した。

二十歳にもならない小娘でもきちんと保護者代わりとして扱い、威厳を保ちつつも丁寧な対応を崩さないこの校長を、クラリッサは尊敬している。

「今日きていただいたのは、レジナルド・グローグナー君の問題行為についてご報告と今後の相談をさせていただくためです」

これまた幾度となく繰り返された前置き。しかし、この一呼吸で、クラリッサは次に訪れるであろう衝撃への心構えを作るのだ。

しっかりと目を合わせてうなずくクラリッサに、校長は珍しく目を伏せた。


それから数十分のことは、思い出したくない。クラリッサは、保護対象であるレジナルドの不純異性交遊の子細を聞かされた。とにかくみんなが目を伏せ、気まずく重苦しい事情説明をしている最中、レジナルドだけがあっけらかんと口を挟んでは叱られていた。

「だーからさぁ、いけないことだなんて思わなかったんだよ」

「レジナルドッ敬語を使いなさい!」

「だーから、いけないと思わないでしょ、むしろ人助けじゃん?じゃ、ないですか?」

「なにを言ってるの…?!」

「だってあの子、胸のボタン三つ開けて腕組んできたんだぜ?発情期でしょ」

「は、発情って…そんなものあるわけないでしょ!」

「だから『あるわけない』って言われても、異文化だから分かんないって」

クラリッサはぐっと言葉に詰まった。レジナルドはあざとくも首をかしげてみせる。

「発情期には、チャイムも場所も関係ない。誘われたら男は決まった相手がないかぎり助けてやるべき。そうじゃないの?」

「先ほども話したが、この国ではそうではないよ。そして、この国で生活する以上、留学中は君もこの国の文化に合わせてくれ給え」

レジナルドは肩をすくめつつ、一応返事をした。『はい』とはとうてい聞こえない、へいだかほいだかだったけれど。

しかしクラリッサはそれどころではなかった。

「あの!お相手の娘さんは、大丈夫なのでしょうか…?その、体の具合や、医療の必要は…」

とてつもなく聞き辛い内容だったが、聞かないわけにはいかない。交際経験のないクラリッサは、実のところ先ほどの説明内容に目を回すばかりで、その行為の危険度合いが理解できなかったのだ。そこで出来うる限り言葉を選んで遠回しに尋ねた。校長はそれでもちゃんと意図を察してくれた。

「そこは、心配ありませんレディ・コナー。相手は確かに自分から誘っているところを目撃されていますし、事の前段のうちに発見されていますので」

不幸中の幸いというのだろうか。

レジナルドの罪状は、授業を無断欠課したことと、その時間に不純異性交遊をしていたことに限られた。もちろんそれも十分な素行不良であるが。そのため、三日間の謹慎と反省文を言い渡されて終わった。

「大変申し訳ありませんでした」

退室前、再度クラリッサは頭を下げた。もちろんへらっと立っていたレジナルドの、自分より高いところにある頭もさげさせた。

そうしてクラリッサは、今月もう何度目かになる学校を後にして、引き取ったレジナルドを家まで送ったのだ。



クラリッサ・コナーは今年十九になった。

両親を早くになくして、祖母に育てられた。独り身の叔母が援助してくれていたこともあって、特に貧しい思いをすることもなく育ったが、下に兄弟がいたので進学はしなかった。十五で基礎学校を卒業してから、ずっと勤めている洋品店でお針子をしている。一年前に見習いの文字がとれて、ようやく職人のはしくれとなったばかりだが、先輩たちからも集中力と真面目な仕事ぶりを認められている。

国の法では昨年成人もしたし、だから一応、名実ともに大人の仲間入りを果たしたといえる。

そんなクラリッサの成長を見届けて半年、祖母は安心したように息を引き取った。もうかなり高齢だったので、大きな病も痛みもない安らかな眠りは、周囲にも大きなショックは与えなかった。おばあちゃん、よく頑張ってくれたよねとご近所さんと故人をたたえたものだ。

それから半年、今度は下の弟が騎士学校の寮に入った。上の弟も入っているこの騎士学校は、厳しいことでも有名だが、無事卒業して騎士になれば学費が免除されるし、仕事も決まるわけで、これは喜ばしいことだった。寮に入ることは強制だが、同じ町の中にあるので会おうと思えば会える。

「リックがいなくなって寂しいからって悪い男に引っかかるなよ、リサ」

「いや、むしろそろそろ男見つけて女らしくならないと、いき遅れるぞ姉ちゃんは」

などとからかってきた弟たちの脛は蹴っておいた。足癖が悪いのではない、お針子のクラリッサは手を大切にしなくてはならない。

ともかくそんなわけで、クラリッサはこの春から、一人暮らしをする予定だった。

大人になったし弟の手もはなれたしと、クラリッサとしては少し羽を伸ばすくらいのつもりでいたのだ。

しかし、これを心配した人間がいた。長らく兄弟に援助してくれてきた叔母である。

「女の子の一人暮らしなんて、危ないわ」

「大丈夫なわけないでしょ、クラリッサ、貴方大人といったってまだ結婚もしてない若い娘なのよ?格好の餌食じゃない」

叔母さんだって独身じゃない、というのは禁句だ。だから、クラリッサは控えめに、叔母さんも若い時一人暮らしをしていたでしょう、と切り返したのだが、各国を飛び回るキャリアウーマンに十九の小娘が太刀打ちできるはずもなかった。叔母は護身術から鋭い弁舌から兼ね備えているが、クラリッサには身を守るすべがなにもないのだと諭されて終わった。

それから数日後、再び電話がかかってきて、叔母はこう言った。

「クラリッサ。私の古くからの知人が、息子さんの留学先を探しているの。安全な子だって保証できるし、未成年とはいえ男手があれば、犯罪者にも狙われにくいでしょう。ちょうどいいから、貴女、下宿させてあげてちょうだい」

ここまで聞いた時点で、クラリッサは悟った。これは、決定事項だと。叔母はいい人だし、独裁者ではないから、クラリッサがどうしても嫌だと騒げば考えを変えてくれるだろう。クラリッサの方も、嫌なものを嫌と言えないほど大人しい性格でもない。けれど、クラリッサはこの叔母に大変恩義を感じていた。その叔母がクラリッサに頼みたいというのなら、クラリッサには拒否する気持ちはなかったのだ。

そんなわけで、この春、弟の使っていた部屋にレジナルド・グローグナーという留学生がやってきた。

銀の髪からのぞく青い目は澄み切った空の色で、冷たく見えそうな色合いだ。しかしその整った顔に浮かんだ表情はやんちゃ坊主のようで、元気な弟たちを長年相手にしてきたクラリッサは、むしろほっとしたものだ。お人形のような美少年とか、陰のあるミステリアスさとか、そんなものは同居人には要らないのだ。欲しいのは、最低限の協調性と常識と、欲を出すなら若干の家事能力くらいだ、とクラリッサは考えていた。

「貴女がクラリッサさん?」

「ええ。レジナルドくんだよね?よろしく」

「レジナルド・グローグナーです。よろしくお願いします」

笑顔でそう挨拶を交わしたところまでは、平和だった。その直後、クラリッサは大声で叫ぶことになったのだが。

なぜならレジナルドが、玄関を閉めるなりシャツを脱ぎ捨てたので。

それから二月がたって、レジナルドは様々な異文化トラブルを巻き起こしてきた。

それはときに時間の感覚の違いであり、ときに食生活であり、ときに会話マナーなどのちょっとした習慣の違いであった。

家の中でなら、クラリッサが教え諭して、それですむ。しぶしぶであっても、レジナルドが最後には人族の文化に合わせるからだ。

しかし、なぜか問題は家の外での方が多く起こる。そして、そのたびに学校としては、レジナルドの保護者代わりのクラリッサを呼び出さなくてはならなくなる。

これまでにもう九回。暦を見ると、今日で十回目だった。幸いクラリッサの職場は、仕事さえ期日に間に合って質を落とさず行えば、その他のことには寛容だ。しかし、いくらクビになっていないとはいえ、度重なる呼び出しとその余波の残業は、確実にクラリッサの気力体力を奪っている。


仕事を終え自宅に帰るころには、日が沈んでいた。結局残業になってしまった。

「お帰りなさい」

「…ただいま」

扉を開ける前に声がかかる。しかもにこにこと。

これはいつものことで、彼がこちらに来た最初のころはクラリッサも驚いたものだが、飛び退かない程度には慣れた。

彼は__レジナルドの耳は特別なのだ。クラリッサが家のある路地に踏み込んだあたりで、彼にはクラリッサの靴だと分かるらしい。

「遅かったね。夕食はー?」

クラリッサはドン、と机に紙袋を置いた。

「昼にどたばたした分残業したからね!夕食は、作る時間ないから出来合い物だよ」

あんたのせいで、とのどまで出かかった。けれど、ぱたぱた揺れる尻尾を見て、ぐっと飲み込んだ。クラリッサは、言いたいことは結構口に出す性分だ。まして仕事中はともかく家の中では。でも。

__レジナルドは、クラリッサの兄弟ではないのだから。

彼は、諸事情により預かっている留学中の獣人だ。普段は耳も尻尾も完全にしまっているから、特別に性能のいい耳や鼻くらいしか違いを感じるところはない。それに、獣人は身体能力が高いと聞くが、レジナルドはずば抜けて筋肉がついているとか、体が大きいとかいったことはないから、なおさら見た目では分からない。黙って座っていれば、目の覚めるような青い瞳とさらさらの銀の髪が印象的な、繊細な美少年だ。

けれど、この少年はクラリッサに、毎日くっきりはっきりと"違い"を認識させる。

「…レジナルド。食事の前に服を着てきて」

今も彼は、上半身裸で、床にあぐらをかいている。兄弟で見慣れているとはいえ、血縁もない異性の裸体をまじまじ見るわけにはいかないから、クラリッサは手洗いなどして視線を外す。けれど、レジナルドはたいてい、片手間の会話では説得されてくれない。

「えー。家でくらい良くない?」

やはり言い返してきた彼に、ぐっと顎をそらして目を合わせる。視線をその空色の双眸に固定して、譲らない意志を目で伝える。

「レジナルド。郷に入れば?」

「…郷に従え」

「よろしい」

確か犬の躾も目をそらしてはいけないとか何とか、と頭に浮かんだ情報が失礼過ぎて、クラリッサはさっさと食事の支度に意識を切り替える。

「でも本当、すっごい窮屈なんだよ。クラリッサが一日中すごい高さのハイヒール履いてろって言われるようなもんだからね?」

獣人の国では、男は下穿き一枚で十分外を歩けるのだという。

「レジナルド。"クラリッサさん"だから。あと食事が冷めるよ」

取り合わないクラリッサに、彼も諦めてシャツに腕を通す。意外にもシャツはすぐそばのソファに投げてあった。着る気だったんじゃない、とクラリッサは内心思ったが、突っ込むと長いので黙って戸棚から皿を出して並べる。

「あ、俺のはトマト盛らないで」

「却下」

「なんで!?」

「曲がりなりにも親御さんから預かってんだから、貴方に栄養をとらせる責任があるんだよ、私」

レジナルドはきっといつものように不服げに口を尖らせているだろうな、とクラリッサは思って、チキンのトマト煮からちらりと顔を上げた。しかし、正面に座った少年の目はむしろ冷ややかに見えた。

クラリッサはどきっとする。

レジナルドは、たまにこんな冷めた顔をするのだ。それはほんの一瞬のことで、クラリッサがあれと思って見定めようとしているうちに消えてしまうのだが。

今も、もうレジナルドの顔は子どもっぽくふて腐れている。だから、クラリッサは見間違いだと思うことにした。

「…今日のことも、後でご報告しないと」

「えー。いらないって。獣人なら女の子から誘うって発情期ってことだから。むしろみんなこんなことで校長呼び出しだなんて言ったら驚くよ。あ、もう食べていい?いただきまーす」

「いただきます。…あのね、この町にいるの、みんな人族でしょ?人族に発情期はないからね」

分かったか、覚えたなとまた念を込めて見つめると、レジナルドはへらりと笑って、はいはいとなんとも信用ならない返事をした。

クラリッサは眉をひそめる。

「校長室でも思ったけど、貴方、本当に分かったの?」

「えー、分かったって。でもさ、そんなすぐには直せないかなぁって。仕方なくない?」

はぁとクラリッサはため息をついた。文化が違う。それだけじゃなく、種族も違う。そんな中に一人飛び込んだ自分より年下のレジナルドの心境を思えば、仕方なくないとはっきり言い返せなかった。

「そうかもね…でもまぁ、頼むから、気をつけてよ」

分かった分かったとレジナルドはまた、何の反省もない顔で言ってスプーンを動かした。

「レジナルド」

「ん?」

「私の皿にトマトを移動させないで」



夕食を食べ終えると、レジナルドが食器を洗う。リラックスしているのか、鼻歌とともに頭上に耳が現れる。髪と同じ銀色の毛で覆われた三角の耳は、普段は消しているもので、さわり心地が良さそうなこともあり思わず見つめてしまう。

あまり不躾に眺めるのも良くないと、クラリッサは彼の手元に目を落とした。

その手はクラリッサより大きいのに、意外と器用だ。桶にためた水をはねさせることなく、かつ手早く皿をきれいにしていく。

朝夕の食事の準備と、掃除はクラリッサ。食事の後始末とお風呂の支度はレジナルドで、洗濯は別々。これは頼んだわけではないのだが、今ではそういう分担になっている。最初は保護者代わりということでクラリッサが全てするつもりだった。しかし、そう器用でない彼女がドタバタと家事をしていると、レジナルドが手を出すようになり、やがてその方が早いからと分担を申し出られた。

その分担が弟がいたときと変わらないことに気づいたとき、クラリッサは少しがっくりきた。つくづく自分は不器用だと思わされたのだ。お針子としてはまずまずなのだから、手先は器用なはずだが、融通という面でクラリッサは、少し不器用なようだ。あくまでも、少しだけ。

「クラリッサ。先にお風呂、入っちゃってよ」

ぼんやり眺めていると、そう促された。

「『クラリッサさん』でしょ。そうだね。先にいただこうかな」

早くクラリッサが入らないと、レジナルドの入浴が遅くなる。レジナルドは決して家主より先に湯を使わないのだ。レジナルドが寝る前にトレーニングをするためでもあるが、もう一つ、クラリッサを後にすると、家主で女性の彼女に重たい湯の始末をさせることになるからといった理由もあるのだろう。

この少年は、なんだかんだで思慮深い。家では、着衣の件以外で繰り返しクラリッサを困らせることは、実は大してない。床に座るのも耳やしっぽを出すのも、クラリッサがまあ良いか、と思う範囲なのを分かってやっている気がする。それなのに、何故次々学校で問題をおこすのか。

「…やっぱり、不思議なんだよなぁ」



「リサ!」

クラリッサは、呼び止められて振り向く。

この呼び方は弟たちしかしないので、どちらかだ。

「テオ!」

上の方の弟だった。数カ月ぶりの再会に声が弾む。指導役の騎士のお使いなのか、重そうな袋を肩に担いでいる。

「ちゃんと食ってるか?また縮んだんじゃないか?」

「テオがまた伸びたんでしょ?ほら、いい加減にしなさい」

頭を押さえつけてからかってくる弟の手を、クラリッサは笑って払いのけた。

「同居人とは問題なくやれてんのか?」

「あー…」

「なんかあるのか?」

「うーん、まあ、ちょっと困ってる、くらいかな」

順調と言うのは嘘になるから、クラリッサははぐらかした。するとテオはがしっとクラリッサの肩をつかんできた。

「何?!なんかされたか?!」

「はぁ?」

「やっぱあぶねぇと思ったんだよクソッ、いくら叔母さんのお墨付きったって、10代の男だろ、どう考えても泥棒除けより野獣になるだろ」

「野獣って!」

「あーもうそいつぶっ飛ばすぶっ殺す今すぐやるっ!」

「何言ってんの何考えてんのこの馬鹿テオ!」

負けないだけの早口で言い返しつつ伸ばした手でべしんと頭を叩きつけて、一瞬止まった弟の首ねっこをつかんで路地へ連れて行く。

「道ばたで滅多なこと叫ぶんじゃないわよ」

「そんな場合かよリサ!」

「どんな場合だと思ってんのよっ!なんもされてないから!」

「本当か?」

テオは疑わしそうに見下ろしてくる。

「うん。同居人は野獣ってより美女寄りの綺麗な男の子だよ」

クラリッサの言葉を聞いて、テオはがくんと項垂れた。

「リサは馬鹿だ。やっぱり俺は心配になった」

「馬鹿ですって!?」

「いいか、顔かたちが美女かなんて関係ないんだ。どんな美男だろうと男は野獣なんだよ馬鹿リサ」

「それはあんただ。あの子は確かに不純異性交遊で呼び出されたりしたけど、そういう野獣系じゃないわよ」

クラリッサは大真面目に言った。レジナルドの直近の呼び出し理由を忘れた訳ではない。けれど、レジナルドが誰彼構わずそういうことをするだとか、ましてや無理矢理ことに及ぶだとかとは思えないのだ。クラリッサもまだレジナルドの人となりを完全に信用しているとはいえないが、レジナルドなら家主をどうこうなんて馬鹿げたことをしなくても相手がいることは分かっている。

胸をはったクラリッサだが、テオは片手で顔を覆ってしまった。

「…やっぱ俺、学校辞める」

「何言ってんの?!」

今度はリサが焦る。

「なんでそんな、会ってちょっとしか経ってない野郎相手に全面的に安心してんだよ。訳分かんねぇよ。リサがこのままほいほい野獣に食われるの放っとくくらいなら、騎士とかもういいし」

「あのねぇ。そんなどうでもいい心配より、自分の将来ちゃんと考えてよ」

「どうでもよくないし!馬鹿リサは全く分かってないし!」

「ねえテオ、ちょっと落ち着いてよ。あんた今年1年まともにやれば騎士になれるんだから」

むしろ今年1年を残して辞めれば、今まで三年分の学費と寮費が全て自己負担となる。それは経済的に大打撃だ。しかし直情径行気味な弟は、下手をするとこの足で退学届を出しかねない。実は同居人をおく時点でもかなり反対していた彼は、その時点でも一度退学を口にしていたのだ。

クラリッサは必死で宥めにかかる。

「よく分かんないけどさ、心配だっていうなら心配かけないように気を付けるから、ね?」

首をかしげて腕を叩いてやると、じいっとクラリッサを見下ろしていたテオは、はあ、とため息をついた。

「気を付けてもリサだしなぁ…」

「なんか失礼だけど、とにかく大丈夫だから。相手は獣人だけど野獣ではないから」

「ってもなあ…あ、そうだ」



「…そのネックレス」

帰ってくるなりレジナルドはクラリッサの首元に気付いた。

クラリッサの細い首に巻く朝はつけていなかった赤い石のついたネックレスがぶら下がっている。

「これ?弟がね、今日くれたの。なんか、お守り代わりに持ってろって」

「あぁ、弟……」

深い赤は華美でなく、あの弟が選んだにしてはしゃれているので、クラリッサはなかなか気に入っていた。だから、たとえ相手が単なる同居人だろうと無表情だろうと、気付いてくれてうれしかった。

「お守り、ね……」

「どうかした?」

「いや、あの人弟だったんだ、って。リサって呼ばれてるんだね」

「ん?あぁ、もしかして見てたの?声かけてくれればよかったのに」

少しひやりとした。テオはレジナルドを危険視していると隠しもしない発言をしていた。会話を聞かれていたら、気まずい。

「やー、なんか割り込むのはちょっとと思って逃げちゃった」

「なあにそれ」

「騎士の制服だし、やたらでっかい人だったからさぁ」

威圧的に見えたのかな、とクラリッサは納得した。確かにテオは強面だ。

「騎士学校の学生なの。いっつも私のことちび扱いしてくるのよね。昔は自分の方がちっちゃかったくせに」

「ふぅん…」

レジナルドの声が微妙に低い。どうしたのだろう。普段は無駄に明るいというのに。クラリッサは、少し心配になった。

「どうしたの?」

レジナルドは曖昧に首を振った。

「いや。そのネックレス、ずっとつけてるの?」

「うん。そのつもりだけど…似合わない?」

いや、とレジナルドはまた否定した。しかしそのまま階段の方へ向かう。

「今日買い食いしちゃったから夕飯いいや。もう寝るね。おやすみー」

「あ、うん…おやすみ」

席を立ったレジナルドを、呼び止めるほどまだ親しくはない。

もしかして、会話を聞いてしまったのか。それとも他に引っかかることがあったのか。

弟たちなら、暗い顔するなら理由を吐けと迫れるのに。もしくは、もっと年が離れていたら、優しく話を聞き出してやれたろうか。

難しい。クラリッサは、裁縫以外はまどろっこしいのが全て苦手なのだ。弟にあって膨らんでいた気持ちが、へにゃりとしぼんだ気がする。

クラリッサは小さくため息をついて、ネックレスの小さな石を指先で撫でた。



翌々日は休日だった。

クラリッサは朝から気合いを入れてコーヒーを入れた。

コーヒーは好きだ。豆を挽くのが面倒で、挽いてくれる弟たちが家を出てからあまり使っていなかったけれど。

「おはよ。何?これ」

「おはよう……って、ボタン!」

起きてきたレジナルドは、今日もシャツのボタンを閉じていない。クラリッサの朝の挨拶は、ボタンとセットになりつつある。レジナルドが肩をすくめて三個ほどボタンを留めるのを確認してから、答えた。

「これはコーヒーだよ。飲んだことない?」

「面白い匂いだね」

レジナルドが鼻をひくひく動かす。同時に頭の上の耳もぴくぴくと動いた。その仕草が子どもっぽくて、クラリッサは少し笑った。

買っておいたパンと、スクランブルエッグとベークドポテトにサラダで朝食をとって、物足りなげなレジナルドにベーコンを焼いてやってから、コーヒーをドリップする。

カップを二人分テーブルにおくころには、レジナルドが他の食器を洗い終えていた。

「ねえ、レジナルド。話をしよう」

「改まって何」

クラリッサは一つ深呼吸した。コーヒーの香が鼻を抜ける。

「レジナルドは、留学したくなかったの?」

言いにくいことを口にするとき、うまく周辺から話せれば良いのに、クラリッサにはうまい言葉がうかばなかった。

あまりにも単刀直入だったせいか、レジナルドは一瞬ぽかんとした。それからすっとコーヒーのカップを下ろした。

「何かと思えばそんなことー?」

いつもどおりの軽い口調。でも、耳がぴんとたっている。

クラリッサはじっとレジナルドを見つめた。

「そりゃ、戸惑ったよね!いくら見聞を広めるためって言ったって、他の獣人の街とかじゃなくて人族の国に行くって言うんだから。まあ、決まったことぐたぐた言ってらんないし、楽しむけどさ」

レジナルドの言うとおり、彼も全てにおいて投げやりという訳ではない。トラブルをおこしながらも友だちもいるようだし、学業を怠けている訳でもない。

ただ、学校でのトラブルを避けようとしているようには見えない。むしろ、積極的におこしている。そう、その落差が、気になるのだ。

クラリッサは努めて淡々と言った。

「貴方、退学を狙ってるように見える」

「だったら、どうだっていうの?」

レジナルドの目が鋭く眇められた。

青い瞳が、氷のように冷たく見える。

「クラリッサさんは、厄介な獣人のおもりから解放されるだけで、なんも困ることないでしょ」

ああ、これか、と思った。

自分が感じてきた違和感は、やはり気のせいではなかったと確信する。

レジナルドは、無邪気で元気な犬獣人として振る舞っていた。

けれど、時折こんな冷たい空気が漏れているのを、クラリッサは感じていた。それは、クラリッサが学校に呼び出されたとき。それから、レジナルドの親のことに触れたとき。キーワードは学校、家族だ。

無邪気を装い親しげに振る舞いつつ、そこに悟られまい、踏み込ませまいとしていたのだろう。

苛立ちのような、悲しみのような、拒絶のような、寂しさのようなもの。レジナルドの青い目からこぼれ落ちるのはそんなまぜこぜの感情だ。

「レジナルド」

クラリッサは、考えがまとまるより先にまた口を開いていた。

レジナルドは突き放すような目だけを向ける。コーヒーはもう飲まないようだ。

それを少し残念に思う。

「レジナルドが学校辞めようが辞めまいが、貴方の好きにすればいいよ。あのね、」

がたん、と大きな音を立てて椅子が引かれる。

クラリッサはレジナルドを見上げた。

レジナルドは、口角をいびつに持ち上げた。

「他人のくせに、口出さないでくれる?」

それから、出かけてくる、と背を向けて言う。

「いってらっしゃい」

クラリッサは、なんとか応えた。

扉が閉まって、荒々しい足音が聞こえなくなると、ゆっくり息を吐き出した。出かけてくるだなんて、レジナルドは妙なところで律儀だなと思いながら。

本当のところ、クラリッサも多少ひやひやしていた。レジナルドの全身から向けられる拒絶の感情もさることながら、『他人のくせに』というあの一言は、痛かった。クラリッサがいくら家主として責任を感じようと、年長者として弟のように心配しようと、どうしたって肉親ではない。今までだってそこで遠慮したりもどかしさを感じたりしてきたが、当の本人から突きつけられると、殊更重かった。

「……それでも、少しは気を許してくれてると思ってたんだけどな」

重たく感じる腰を上げて、半分近く残された彼のコーヒーのカップを下げる。冷めた黒い液体が、なんだか憎らしくなって、乱暴に流しに捨てたら、跳ねて布巾に茶色い染みを作った。




「あ、リサがかわいいのつけてる!」

「え?」

翌週、職場についてすぐに同僚のナタリーに指を指され、クラリッサは面食らった。

「いいデザインね。誰かからのプレゼント?」

指の先をたどると、首もとのチェーンに触れる。

「ああ、これ?弟からだけど」

「なるほど。虫除けね」

ナタリーの声はよく通る。始業前でまだ手を動かしていなかった同僚が皆振り向いた。

「似合ってるわ」

「素敵」

「あっありがとうございます」

先輩方にも声をかけられて、やや気恥ずかしい。クラリッサはそそくさと自分の席に着いた。隣のナタリーがよく見せてと椅子を寄せてきた。彼女は衣類だけでなく宝飾品もこよなく愛するファッション愛好家なのだ。

「あれ、もしかしてその石って…ああ、そういうこと」

少し眉を寄せたナタリーが、今度は納得した顔で頷く。それを見たクラリッサの頭には、反対に疑問符が浮かんだ。

「何、どういう意味?」

ナタリーは少し考えるようにゆっくりと言った。

「いや、ほんとのほんとに虫除けだったなって」

「この石が『虫除け』なの?」

ネックレスくらい、恋人の有無にかかわらずつける。現にクラリッサもつけている。ナタリーは肩をすくめた。

「クラリッサって、しっかり者に見えて危機管理能力は弱いから。弟さんも心配してるんだろうね」

「ちょっと、はっきり言ってよ」

わけの分からない奥歯にものが挟まったような言い方は勘弁してほしい。身を乗り出して迫ると、ナタリーも顔を近づけて来た。

「じゃあ言うわ。あのねクラリッサ。その石には、未婚の女性が魔物に魅入られないように贈る魔除けの意味があるの。太古の魔物の血が結晶化したなんて説もあってね、まあ、それは眉唾だけども、知ってる人が見れば魔除けかなと思う」

クラリッサはふんふんと頷いて聞いていた。すると、ナタリーはさらに声を潜めた。

「それでね、その『魔』の中に、獣人や魔族なんかの人族以外を含める見方も、あるのよ」

ざあっとクラリッサの顔から血の気が引く。

「嘘でしょっ!?」

思わずあげた大声に、何事かと視線が集まった。

二人で周りにぺこぺこ頭を下げて、また机の陰にかがみ込む。

「嘘って言ってよ」

「残念ながら、本当のことよ」

「じゃあ、もしかしてレジナルドも、私がレジナルドのことを避けたいって思ったの?」

問題はそこだ。クラリッサがただ貰い物だからとつけていたとしても、それを見たレジナルドが、拒絶と受け取ったのなら、それが全て。

「今さらそれはないと思うけど、クラリッサの弟さんが警戒しているってことは、伝わったんじゃない?」

「それに、魔物と一緒くたにするなんて失礼な態度も伝わったってことよね……」

「そうね……」

クラリッサは途方にくれた。それからのろのろと無言でネックレスを外した。

「とるの?それ」

ナタリーに聞かれて、首を縦に振る。

「見る度に嫌な思いをさせるものをつけておくわけにはいかないもの」

「でも、とるってことは逆にクラリッサが意味を知った上で外したってことで、貴方を避ける気ないわよ愛情もってるわよって意味にもとれるわよ」

「別にいいわ」

差別的な態度で相手を傷つけることと天秤にはかけられない。

それに、とクラリッサは天井を見上げた。

「もうすでに、顔を見ない程度には拗れてるから、大丈夫」



「ただいま」

その晩も、レジナルドは居間にはいなかった。

最小限の灯りはつけてあるし、使い慣れた家具でひしめき合っているのに、人気のない部屋はやけにがらんとして見える。

いつの間にかおかえりなさいの言葉に迎えられるのが当たり前になっていた。そのことに今さら気付いてしまう。

無言のまま買ってきた食材をしまい、料理をして、できあがると声をかける。

「……いただきます」

「召し上がれ」

食事の間も、レジナルドはクラリッサと必要最小限しかしゃべろうとしない。

「おかわりあるけど」

「いや。ごちそうさま」

さっさと食べ終わると、食器を洗いに行く。

今日もおかわりをしなかった。そのことに何も思わないではなかったけれど、それでも食べ終えた食器は洗うし、ちゃんと学校に行くのだから、反抗期のときの弟たちよりよほどお行儀が良い。だから、クラリッサはレジナルドのことをしばらく放っておこうと思っていた。

けれど、半分近く残った鍋のシチューに、クラリッサはため息をついていた。



「……それ」

「ああ。ちょっと残り物整理」

クラリッサの前には昨日のシチューの皿。

レジナルドの前には新しい野菜のスープがある。

本当はそれまでのサラダや炒め物のようにお弁当にするなどしてこっそり始末しようと思ったのだが、あまりの量と汁物であることで諦めた。そして自分の朝食に回したのだが、家主として、レジナルドには新しいものを作った。

「どうしたの?遅れるよ」

食卓の脇に突っ立ったままのレジナルドを促すと、彼は皿からクラリッサへ目を動かした。久々に目が合う。

「……それ、まだあるの」

「え?あるけど……あ!いい、いいからいいから!」

慌てて止めるのも聞かず、レジナルドは新しいスープを鍋に戻して昨日のシチューを盛ろうとする。

「本当にいいから!」 

立ち上がって鍋の蓋を抑えると、じっとレジナルドがまた、見下ろしてきた。

「あんたが俺と同じメニューを食べるのも嫌だって言うなら、やめるけど」

「そんなわけないでしょッ!?何言ってるの!?」

「なら、俺もこっちを食べる」

レジナルドは蓋にかかったクラリッサの指をつかんで、下ろさせる。その指の硬さにどきりとしたクラリッサは、あたふたと後退った。

「クラリッサってさぁ」

席に着いたレジナルドが、ため息まじりに言う。

「クラリッサ『さん』ね」

律儀に言い直しを求めつつ、そのやり取りすら久々で、調子が出ない。

「なんなの、突然魔除けのネックレスつけたり、また外したり、かと思えば一族追放とか」

「え?なにその不吉な単語」

「……まあ、両方知らないでやったんだろうけど。俺たちにとって、同じ家で病人でも赤ん坊でもないのに敢えて別の鍋のものを食べるのは、一族として認めないっていうことだから」

「嘘!?え、やだ、単に残り物を食べさせちゃ悪いと思っただけで、そんなこと全然ッ……ごめん!」

「一瞬、本気で嫌われたのかと思った」

「ごめんなさい。知らなかったの」

「いや、うん、……俺も、最近態度悪くて、ごめん」

見えない尻尾が垂れている気がする。

ほっとして、クラリッサは久しぶりに笑った。

「ううん。私、レジナルドに郷に従えって言うばっかりで、ちゃんとした大家じゃなかったと思う。レジナルド、いろいろあなたの国のこと、教えて。私、また間違えたことしたくないから」

するとレジナルドは、軽く目を見開いた。それから、少し考えるように口元を触ったあと、人差し指をすっとクラリッサの方に伸ばした。

「え?」

「……とりあえず教えたいのは、あと5分で出発時間ってことかな」

ええっ?!と叫んで背後の時計を確認したクラリッサは、大慌てで朝食をかき込んだ。

なんだかはぐらかされた気がし出したのは、なんとか職場にたどり着いた後のことだった。

それでも、クラリッサは満足だった。クラリッサがネックレスを外したことに、レジナルドは気付いていた。だから、今朝の食卓を見ても、自分から歩み寄ろうとしてくれた。久しぶりにまっすぐに見た空の色の瞳を思い出して、その日の仕事はとても順調に進んだ。



「……」

「……悪かったって」

例の石のネックレスを置いた机を挟み、数十秒。なおも無言で睨み続けると、頭が眼下まで下げられた。

「本当にすみませんでした!もう本当に分かったから許してくれよリサ!」

「次、同じようなことを勝手にしようとしたら、二度とうちの敷居は跨がせないから、覚えておいて」

昼時という時間のためか、騎士学校の面会室には、他にも複数の人がいる。つまり、人目についている。

しかし、これもまた罰だと、クラリッサは弟の後頭部を見下ろしながら思った。

「でもさぁ、本気で俺、心配してんだよ。リサは、年の割にそういうの分かってないから」

「テオ。まだ言う気?」

「いや、その点については俺たちにも責任が有るから、なんて言うか、リサの周りには気をつけてきたし、リサが嫁に行くまでは守んなきゃって思ってるんだよ」

テオという青年は、昔から体格に恵まれていた。そして祖母と子どもたちという家庭環境にあって、男手としての責任感を早くからもっていたこともあり、リサが年ごろになると番犬のように周囲ににらみをきかせてきたのだ。しかも、自分が寮に入る前には下の弟リックにその役目を引き継いで。おかげでクラリッサは華やかなことのないままこの年だ。

「あんたは私の父親か」

「その代わりのつもりだよ」

即答されて、呆れる。

「私はあんたより」

「年は上だけど、俺の方が世情には詳しいよ。珍しく士官学校に留学した獣人の噂は、俺にも届いてる。きれいな顔して、狼のくせに狐みたいにずる賢いって。何度も騒ぎ起こしてる、悪たれだともな。なあ、どうしても、下宿止めさせる気はないのか?」

レジナルドの噂が流れているとは、予想していなかった。全て嘘八百というわけでもないため、言葉に詰まる。

「……家長の私が、見て、決めたの。叔母さんもよ。人柄って、見ないで判断するものじゃないわ」

テオは真面目な顔を崩さなかった。

「じゃあ、そいつは、なんで騎士学校じゃなくて士官学校に入ったって?こっちなら寮もあるし先輩獣人もいるから、トラブルも少ないのに」

「それは聞いてない。なんだか、学校と家の話は嫌みたい」

「気にくわないな」

腕組みをする弟に、クラリッサはどん、と机を叩いた。

「テオ。私は、あんたに説教しにきたんであってされにきたんじゃないわ。そんなにお姉様が心配なら、もっと有益な情報をちょうだい」

「はぁ?」

「獣人文化について、騎士学校なら情報があるんでしょ?」



「おかえり」

玄関扉が開いて、銀髪の少年が迎える。

「ただいま」

クラリッサは、レジナルドの扉を支える腕をくぐって入る。

「今すぐご飯にするから」

「あ、朝のスープ温めておいた」

「ありがとう」

昼に弟のところにいったせいで、少し残業してしまった。買ってきた鶏肉をソテーしてしまおうと、エプロンの紐を結ぶ。

「これは?」

「香辛料。買ってみたの」

弟からしぶしぶ提供された情報だ。騎士学校の先輩獣人がみな好んで使っていると言われた。

「あれ……これって」

「私も、レジナルドの国の文化について勉強しようと思って」

鶏肉の包みを開いていると、とん、と調理台に手が置かれた。

「何?」

少しばかり、いつもより距離が近い。見上げた空色の目の中に、なんだか葛藤が見えそうな気がした。

「あのさ」

迷うように唇をかむ。薄く空いた口元に、少しだけ人族よりも尖った牙が覗いた。

「誰から聞いたの?」

「え?」

「その。うれしいんだ。すごく。けど……」

けど、ともう一度言いよどむ。それきり俯いてしまったレジナルドを見て、クラリッサは首を傾げつつも、待ってやった。

「獣人はさ、俺より血の気の多いやつも多いし、基本こっちにいるのは男が多いし、だから」

「もしかして、心配してくれたの?」

うんとも、ううんとも聞こえるくらいの声。

「分かった。他の獣人に聞き回ったりしないよ。まあ、これはこの前の無礼を謝らせに行ったついでに弟から聞いたんだけどね」

すると、レジナルドは色白の頬を赤くした。自分の早とちりがはずかしかったのだろう。クラリッサは、噴き出しそうになって、慌てて鶏肉から顔を背けた。

「一緒に住んでるんだし、レジナルドに直接聞いた方が早いもんね」

笑ったまま言うと、

「……うん。直接、俺が話すよ」

レジナルドの頭上にぴこんと現れた耳が、へにゃりと垂れた。


レジナルドはその夜、赤みの強い謎の香辛料をかけた鳥のソテーを喜んで食べた。クラリッサには辛すぎて一口が限界だったが、その一口の味見をしたことさえ、レジナルドは喜んでいるようだった。

そして彼は、饒舌というくらいよくしゃべった。

特にクラリッサが面白がったのは、彼らの衣類についての話だ。男性は上半身裸が基本とはいえゆったりしたズボンを履くし、上着を羽織ることもあるとか、女性も男性も前あわせの服を帯で結んで着るのだとか。また、その帯は一族の女性が威信をかけて刺繍で飾るのだとか。レジナルドはこの家に来るときにはこちらの様式の服を着ていたので、実物を見られないことをクラリッサは残念がった。

また、一族ごとに近くに集まって集落を作るため、手紙や荷物がよく間違った家に届くことや、肉を頭単位で買い、一族で分け合うこと。なにかの経緯でその分け合う間柄から外された家族は、はぐれ者となり、集落を離れて生活すること。

学校制度はまだ新しく、基本はまだ一族単位で読み書きや鍛錬を教えるが、国政に関わる若者を育てるために十代で一度は国立の学校に入学させるようになってきたこと。

レジナルドは話がうまく、クラリッサは飽きることなく聞き続けた。



次のお休みの日、レジナルドはクラリッサを手伝うと言って買い物に同行した。

二ヶ月ほどたったが、初めてのことだ。

「この、衿がいやでさぁ」

外だからとボタンを閉めさせられたシャツの首もとを引っ張る。

「だからあまり外に出なかったの?」

「まあね」

しげしげと眺めるが、レジナルドの着ているシャツは彼の体型ぴったりにあつらえられたものらしく、大変品が良い。その分緩みがないし、布地もしっかりしていて窮屈なのかもしれない。

「少し大きめのシャツを買って、見た目がだらしなくない程度に直してあげようか?」

「そんなことできるの?」

「これでもお針子だからね。安い古着で試して、うまくいったらちゃんとしたのを買おう」

「本当に?助かるよ」

目を輝かせたレジナルドに、クラリッサは早速行きつけの古着屋へ寄った。

「おやクラリッサ。男連れとは珍しいじゃないか」

「ベルーナさん、こんにちは。こちら、春からうちに下宿しているレジナルド・グローグナーです」

レジナルドがぺこりと頭を下げる。

「下宿?テオがよく許したね」

「叔母の旧知の友人の息子さんで、留学生なの」

「へぇぇ。レジナルドって言ったっけ、学生さんなら汚したり破いたりたくさん入り用だろ。どうぞごひいきに」

「ありがとうございます」

それから二枚ほど大きめのシャツを選んで、店を出る。

「私が出すって言ったのに」

「絶っ対、いやだ」

口を尖らせたクラリッサを斜め上から見下ろして、レジナルドはもう何度目か分からない否定を口にした。

彼いわく、獣人文化では、男女で買い物をして、女性に払わせるのは男側の恥なのだそうだ。

「でも、この国ではそんなことないのに」

「それでも、払いたい」

普段なんだかんだでクラリッサの主張を聞き入れ、服を着て食前の挨拶を交わすレジナルドだが、これに関しては頑として譲らなかった。

結局、食材まで全て、クラリッサが財布を開くより早く支払いを済ませてしまった。

「もう、レジナルドとは買い物しない!」

「なんでさ?!」

「なんでも何も!だって、もう!」

クラリッサは、財布を握りしめて、地団駄踏んだ。買い物袋を両手に抱えたレジナルドは、理不尽なことを言われたと言わんばかりに目を丸くしている。

「お嬢さん、いいじゃないの。彼氏だって、あんたに良いとこ見せたいんだからさ」

見かねた店主がレジナルドの肩を持つ。

その時、クラリッサは恐ろしい事実に気付いた。なんと周りの人間は、レジナルドとクラリッサを恋人同士だと思っていたのだ。

「私たち、恋人じゃあありません!」

クラリッサの剣幕に、店主は即座に両手を挙げて降参を示した。すまなかったねと謝られ、その場を後にする。しかし後ろから聞こえたつぶやきに、クラリッサは絶句した。

「なんだ、若夫婦だったのか」

若夫婦。

口をあんぐりあけて立ち止まりかけたクラリッサの背中をそっと押して、レジナルドが言う。

「一緒に住んでるって聞いて、勘違いしたんだろうね」

「で、でも。私、レジナルドより三つも上よ」

クラリッサからすれば、下の弟とほぼ同じ年のレジナルドは、まだ子どもで、まさかそんな勘違いを受けるとは、思いもしなかったのだ。しかし彼はと言えば肩をすくめただけで、驚いた様子もない。

「クラリッサは小さいから、まあ、同い年くらいに見えるんじゃない?」

「そんな!」

家主と下宿人なんです、年も結構上なんです、などと一人一人に訂正して歩くわけにもいかない。

悶々とするクラリッサに、やがてレジナルドが呟いた。

「そんなに嫌だった?」

まるで傷ついたような声音に、クラリッサははっとなる。

「違うの。単に驚いたのと、は、恥ずかしいのとで」

またレジナルドを傷つけてしまったのだと思うと、自然するりと本音がこぼれた。

「むしろレジナルドの方が嫌だよね」

言ってから、ずるい言い方だったと気付く。こんな言い方で、嫌とは言いにくいではないかと。

しかし、彼はさらりと首を振って予想していなかった方向の答えを口にした。

「大変光栄。……夫婦者に見えるなら、一人前に見えたってことだしね」

「一人前?」

「うん。俺たちの国だと、一人前に相手を養える男しか恋人も妻も持てないから」

「そうなんだ。じゃあ、レジナルドの故郷だと、学生のうちは恋人を作らないの?」

「そこがちょっと違うのかも。一人前って、ここじゃあお金を稼げるってこと?」

「うーん、そうだね。自活できるって感じで捉える人が多いと思うから」

「自活って点は同じだけど、獣人の一人前には、自分で獲物を仕留めて食っていけるって面もあるね。だから、学生でも一人前のやつは一人前。……ところで、今日のお昼はどうする?」

そういえばもう昼時だ。

「悪くなるものもないし、屋台で何か……止めた。家で食べましょうね!」

言葉の途中で言い直したクラリッサに、レジナルドはぼやいた。

「本気でもう俺と買い物しない気だよ」

クラリッサは横目でレジナルドを軽く睨んだ。

「レジナルドに男の意地があるように、私にも社会人の意地があるのよ」

そんなことを言っていたにもかかわらず、翌週の買い出しもまた、レジナルドは無理やり同行したのだった。



そして数週間、呼び出しのない穏やかな日々が流れた。レジナルドもこちらの暮らしに慣れたものだとクラリッサが感慨深く思っていると。

「クラリッサさん!大変です!」

店に駆け込んできたのは見慣れた制服の青年で、クラリッサは大慌てで中抜けの許可をとった。

「今度は、何を?」

尋ねたクラリッサは、答えを聞いて目を丸くした。

呼び出しの用件は、暴力行為だったのだ。

これまであまた呼び出されたが、暴力は初めてのことだった。

獣人の力は人族と段違いに強い。子供だろうと獣人なら牛1頭くらい軽々持ち上げるという話を思い出して、クラリッサの頭から血の気が引いた。

いつものように駆けつけた校長室に、いつもと違い銀髪の頭が見えない。

そのことにまた焦るクラリッサへ、校長は事情聴取が長引いていると言った。

「ミス・コナー。帰ったら、責めずに、彼から事情を聞いてみてくれませんか」

「校長先生…」

帰宅後とっちめねば、今日という今日こそはと思っていたクラリッサは、戸惑った。

「彼はいつも、不真面目な態度を装いながらも正直に自分の行いを話していたのです。それが、今日は頑なに黙り込んでいました。恐らく、それほどに堪えがたい何かがあったのだと思われます」

そういわれれば、今まで何度も校長室に呼ばれたが、レジナルドはペラペラと要らないことまでしゃべっていた。

結局事情聴取ははかどらず、クラリッサは自宅謹慎を言い渡されたレジナルドを連れて帰宅することになった。

二人玄関先まで無言で歩き、クラリッサが鍵を開ける。がらんとした居間を見て、知らずため息を零していた。

クラリッサは自室にこもろうとするレジナルドを呼び止めた。極力、声を平坦に保って。

「ねえ。本当は、何があったの?」

レジナルドは一応立ち止まったが、短くこうのたまった。

「何も」

この答えにクラリッサは腹を立てた。

こちらは午後の長時間を校長室で無為に過ごし、明日の長時間労働と肩凝り腰痛が決定した身なのだ。

感情的に怒鳴らないようにと思っていた、それは校長に先ほど言われただけでなく、レジナルドは異文化に放り込まれたばかりで、自分より年下の未成年なのだからという配慮だ。

それに何より、同居人としての彼を見ていて、怒るより先に理解したいと思っていたからだ。レジナルドだって、文化の違うところも直接話してくれると言っていたのだ。

それをこんなふうに躱すのは、不誠実だ。クラリッサの血液は一気に沸騰した。

「何もない訳ないでしょ?!」

ドスドスと部屋を横切り階段の一段目にだんっと足をかける。

行く手をふさがれたレジナルドは、一瞬ぎろりとクラリッサを睨んだが、それからこれ見よがしにため息をついた。

クラリッサは、目を伏せて手首と首元のボタンを外していくレジナルドをじっと見つめた。校長は責めずに聞いてくれと言っていたが、はぐらかす相手を、手を緩めて逃がす気はなかった。

クラリッサの方がレジナルドより背は低い。けれど、弟二人を叱りつけてきたクラリッサは、彼の顔を見上げながらもあごをそらした。

レジナルドはだらしなくくつろげた首元に風を入れながら、薄く笑った。

「じゃあ言うけど、なんかむかついたから、殴っただけ。そういう種族なんだよ、俺」

クラリッサの顔から一切の表情が消えた。

「…舐めてんの?」

「え?」

地を這うような低い声を聞き漏らしたか、レジナルドが聞き返す。クラリッサは吠えた。

「舐めてんのかって聞いてんのよ!!」

「何なんだよッそっちが理由言えって言うから言ったんだろ?!なんでそんなこと言われなきゃなんないんだよ?!」

吠えかえすレジナルドの声はクラリッサの鼓膜をびりびり震わせた。手を伸ばせば簡単に届く距離、ましてや獣人相手では、クラリッサなど本気でこられたら一瞬で死ぬ距離だ。けれどクラリッサはレジナルドのことを怖いとは思わなかった。

むしろ一歩踏み込んで胸ぐらをつかんだ。

「むかつくことくらい、私たくさん言ってきた。でも、あんたは私のこと殴るどころか乱暴な仕草だってしたことない。それを種族がどうとかって言えば誤魔化せると思ってるとか、舐めてんのって話でしょうが!」

「そんなのぶん殴りたいの我慢してただけだよ!」

「だからあんたは我慢できる奴だってことでしょ!それが吹っ飛ぶ何があったって聞いてるのよ!」

つばすらかかりそうな距離で怒鳴りあう。

そして肩で息をしながらしばらく無言でにらみ合った。興奮のためか、いつの間にか、レジナルドの頭には銀色の耳が生えていた。顔から目を逸らさないクラリッサには見えないが、きっとしっぽも生えているのだろう。

渾身の力を目に込めて、睨む。目をそらしたら負ける気がするなんて、動物じゃあるまいしと思いつつ、クラリッサには絶対先に逸らす気はなかった。

そうこうするうち、三角の耳が段々と垂れてきた。それが情けなく下を向いた辺りで、レジナルドは、あきらめたように言った。

「……騎士学校に行けって言われたんだよ」

それがどういうことか、クラリッサは不覚にもすぐにはぴんとこなかった。怪訝な思いが現れていたのだろう、間近にあるクラリッサの顔を見て、レジナルドは小さく笑った。

「ねえ、知ってる?俺が何で留学して、しかも下宿することになったかさ。これ、親父が、力ありきのうちの国で仕事みつけんのは、俺には無理だと思ったからなんだよ。それじゃ、一生半人前ってこと。だから、見聞を広めるなんて後付けの嘘っぱちだよ」

「そんなこと」

「ないって?じゃあなんで親父は俺を、騎士学校じゃなくて士官学校に入れたんだよ。獣人の留学は初めてじゃないけどさ、俺以外はどの国に行ったやつもみんな、騎士学校に行ったよ」

これにはクラリッサも黙ってしまった。確かに、彼女自身、初めに話を聞いたときは、獣人ならば騎士学校に通い寮に入れば良いのでは、と思ったのだ。弟にもそう言われたことがある。

レジナルドが目をそらす。

「分かった?親父は、出来損ないの俺を国から出して、見えないところにやっちゃいたかったんだよ。人族の騎士学校にもやれないと思ってるような俺をさ、クラリッサの護衛なんてどの口が言うんだよなぁ。面倒ごと押しつけただけだろうが」

立ち尽くす少年は、確かに年の割に体格がいいとは言えない。クラリッサよりは大きいから、気づかなかったが、それは彼には存在を揺るがす程のコンプレックスだったのだろう。

クラリッサは、つかみ上げていたレジナルドのシャツをそっと放して、布地についてしまったしわを延ばした。

「ずっと、そんなこと気にしてたの」

「そんなことって」

レジナルドがふて腐れる。

「自分のこと、面倒ごとって思ってたの」

「実際、クラリッサにとってもそうだろ。大して年も変わらない男の下宿人置くなんて。しかも獣人」

「弟たちよりよっぽどお行儀いいし、レジナルドはなんだかんだであわせてくれるじゃない」

「そんなの退学までの呼び出しでお釣りが来る」

「なぁにそれ。やっぱり退学狙ってたんじゃないの」

あー、まぁ、とレジナルドは口元を抑える。以前クラリッサが指摘したときに怒っていたのは、図星だったということだ。

「学校を辞めて、帰りたかったの?」

「いや……あんまり良い思い出がないから、国に帰りたいと思ってたわけではないんだ。ただ、クラリッサに悪いなっていうのと、士官学校には行きたくないっていうのだけで。本当は……」

レジナルドは、自分の言おうとしている台詞に内から痛めつけられているように、身を縮めた。

「……どこへ行ったって、ちびで、弱い自分からは逃げられないんだ」

クラリッサは、目の前で頭を垂れている少年を見つめる。レジナルドは人族の男性としてはちびと言うほど低身長ではない。それに、明らかにクラリッサより力も強いし、女子生徒から誘いをかけられるほどの美形だ。口も回るから、頭の回転も速い。けれど、それを今説明したところで、レジナルドの長年積み上げてきたコンプレックスは急にどうこうできるものでもないだろう。クラリッサは自分のそれを思い出して、そう考えた。

結局、何も否定しないことにして、目の前の頭を撫でた。

「背、伸びる時期って個人差があるんだよ」

「……そういう慰め、むかつく」

「慰めじゃないけどね。うちの上の弟、十八だけど、十六才まで私と同じくらいだったよ。あ、撫でるのが嫌だった?」

「いやではないけど……」

それを了承ととって、クラリッサはレジナルドの銀色の髪を、後頭部まで撫でていく。

「それと、これはほんとに文化の違いがあるからなんとも言えないけど、この国では、騎士学校より士官学校の方がすごいってことになってる」

大人しくされるがままになっているレジナルドの頭の上、耳がひょこっと動いた。

「何それ。騎士が国を守るんだ、騎士が最強だろ」

「うん、だから、文化の差だよね。国の守り方として、武力よりも外交とか、福祉とか、そういうものを頭を使ってやる方が良いっていうか。騎士は最後の砦だからもちろん大事だけど、まあ単純にいっても士官学校の方が入りにくいし」

だから、けんか相手の意図は恐らく、レジナルドを、獣人は頭が悪いという愚かな噂で軽んじたつもりだったと思われる。しかし、それがレジナルドには、獣人のくせに騎士学校にいけないやつ、と聞こえてしまったのだ。しかし、どちらにしても悪意には変わりないとクラリッサは思った。

それは赦しがたいことだった。

「レジナルド」

「何」

伏せられたレジナルドの顔をのぞき込んで言う。

「やってしまえ」

「は?何突然」

さすがに驚いたのか、レジナルドがクラリッサを見る。

その訝しみの目に、クラリッサはもう一度注ぎ込むようにして言葉を紡いだ。

「そんな愚かな差別主義者、鼻で笑ってやるならそれでもいい。でも、あんたが傷つくくらいなら、相手がぐうの音も出ないくらいこてんぱんにやってしまえ」

レジナルドがはね起きた。

「ばか、俺こんなでも獣人だぞ?本気で人族相手に襲えるわけないだろっ」

確かに彼は無意識でも力を抑えているのだろう。今日けがをした相手も、レジナルドに突き飛ばされて壁に激突したと言うが、彼が拳を奮っていれば打撲ですんだはずがない。

「じゃあ軽くひねる程度でいい」

「何言ってんだよ、そんなのあんただってまた呼び出し食らうし、できるわけないだろ」

「何を今更」

クラリッサが鼻で笑うと、レジナルドがぐっと詰まった。

「それに。そのためだったら、いくらでも頭さげに行くから。うちのレジナルドがすみませんって、一緒に病院周りしてやるから」

「…それ、退学になるじゃん」

レジナルドはものすごく奇妙なものを見る目をしていた。

クラリッサはその表情が不本意だったので、言葉を重ねる。

「この前も言ったよね。学校は、レジナルドが辞めたいなら好きにすれば良いって。だから、それで辞めることになっても、清々したって言うならそれで良い。もし、あんたが辞めたくないっていうなら、相手の非をあげつらって戦ってやるし、何度でも校長室で謝ってやる」

眉はしかめられているのに下がってもいて、空色の目の上でかすかに動いている。薄くあいた唇は、やがてふっと息を漏らした。

「…病院周りって。病院送りにするのかよ」

「必要なら」

至極まじめにクラリッサがうなずくと、レジナルドは今度こそ吹き出した。

「クラリッサって、本当に変だよね」



後から校長に伝えられたことによると、レジナルドを攻撃した生徒は、彼を嘲る言葉として、『騎士学校に入らず女の家に住みついている』という台詞から始まり、クラリッサをも貶める言葉を繰り返していたらしい。その情報は、目撃者からレジナルドを擁護する生徒達に伝わり、その日の夕方には教師陣に届けられた。

「獣人としてのコンプレックスを刺激されたことももちろんあったのでしょうが、彼はあなたの名誉のために怒ったのではないかと思います」

校長は、いつもの微笑みでそう締めくくると、レジナルドの謹慎をその日をもって終了とした。




それからレジナルドがどうしたかというと、どうやらクラリッサの案は採用しなかったらしい。

「奴ら、案外勉強できなかったからさ。俺の方が上ってところ見せてやったら、黙ったよ」

そう報告するレジナルドはにやにやと悪い顔をしており、ふぁさふぁさと揺れる尻尾の可愛さを裏切っている。

「まあ、レジナルドの気が済むんなら、いいんじゃない」

病院巡りを覚悟して、いつそれが起きても良いように気持ちを作っていたクラリッサは、少し拍子抜けした。

お玉を持ってふうと息を吐いたクラリッサを見下ろして、レジナルドはうれしげに笑った。

「本当は俺、学校自体はそんなに嫌いじゃないよ。面白い奴もたくさんいるし、勉強も嫌いじゃないんだ。それに、クラリッサの作ってくれたシャツだと、本当に楽ちんだし」

前に買っていたあの古着を直したシャツを着てそう言うレジナルドに、クラリッサはうれしくなる。

「良かった。じゃあ、今度は新しい布で作ってあげる」

「本当?やった」

スープをよそうと、レジナルドは何も言わなくても受け取って食卓に運んでくれる。今日の夕食は、細かく切った野菜を肉と一緒に煮込んだスープと焼き魚だ。レジナルドはこのスープに例の香辛料をかけて食べるのが好きなのだ。

「クラリッサには迷惑かけるけど、もうしばらく、下宿続けさせてくれる?」

「それはもちろん」

思わずそう答えてから、あれと疑問がわく。レジナルドは学校だけでなく、文化の違いにも苦しんでいると思っていたが、それはどうでもよくなったのだろうか。

「…まあ、いいか」

「クラリッサ!冷めちゃうよ」

「はいはい」

クラリッサは、まだ知らない。

この後も、頻度は下がるが、定期的に学校からの呼び出しが続くと。

しかも、たいしたことではない、なぜと思うようなことで。



「本当に、本当に、うちのレジナルドが、すみません!」

今日も今日とて、クラリッサは謝る。そしてその横で、レジナルドが幸せそうに笑うのだ。

気が向いたら、レジナルド側の事情も書くかもしれません。

お付き合いいただき、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 文化の違いが具体的で、イメージしやすかったです。 [一言] 好みの話で、読むのがとても楽しかったです。続きがあれば、ぜひ読みたいです。
[良い点] 異文化交流によるすれ違い、現実味があって面白かったです。 [一言] レジナルドが成長して強くなるのか、士官になる獣人という新しい価値観を作っていく道を選ぶのか、想像が膨らみます。
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