玉輪に哀を
「あ。」
ふと歩みが止まった足に、彼女の顔を見る。案の定、道を挟んだ向こう側にある肉屋に向いていた。さっきからしていた揚げ物特有の臭いに気がついたのだろう。
「肉屋さんのコロッケって美味しいんだよねぇ。」
店に向けたままの顔は、頰が緩んでいる。
「買って来るから、ここでちょっと待ってて。」
私が揚げ物をあまり好まないと知っているからか、彼女は私を電柱の側で待たせて、肉屋の方に足軽く向かって行った。最近何かと物騒だと、少し早めに鳴るようになったチャイムが、子供達に遊ぶ時間の終わりを知らせ、商店街も少し賑わい始めるこの時間。肉屋の前にも既に何人か買い物客がいるため、戻って来るのには少しかかるだろう。暇つぶしに商店街をぐるりと眺めてみると、視界に入り込んできた強い光に思わず瞬く。それは夕焼けだった。商店街通りの先に身を隠して行くそれは、直視するにはあまりにも眩しく、私は目を細めてぼんやりとした景色を眺めるしかない。隠れていく陽を追って、じわじわと藍色が灰味がかった薄い黄色の空に染みていく。止まっているように見えるほど、穏やかな進みを見つめていると、彼女が戻ってくる足音が聞こえた。
「おまたせ。んじゃあ帰ろっか。」
今日の買い物は済んでいるため、コロッケを食べながら歩く彼女の、少し遅くなった歩調に合わせて歩き始める。沈む日の反対側、既に染まりきった空には、半月と満月のちょうど中間の様な月。いつも美しいそれが、今はこちらをじいっと見ているような気がして、私は顔を背けた。
もう、随分と前から、彼女に懸想している。
彼女に初めてあったのが何年前だったかは思い出せないが、私も彼女もまだ小さかったと思う。その日、私はもう顔も思い出せない誰かに連れられて、彼女の家を訪れたのだ。
「どうかこいつの面倒を見てくれないか。」
誰かが言っていた。
あの時の心地は今でも覚えている。どく、どく、と心臓の音が耳の近くでしているようだった。誰も受け入れてくれなかったら最後…その先にあるものを私は本能的に理解していた。どく、どく、大人たちの話し合いを私は息を詰めて見つめる。その時、話をしていた大人の間をすり抜けて、一人の女の子がこちらに寄って来た。彼女を追い越すように、優しい風が吹き抜ける。柔らかくて暖かい、彼女の匂いがした。
この気持ちを伝えるつもりは毛頭ない。
月を見ると、彼女の名が脳裏に浮かぶ。「美しい月」と書くそれを彼女はつまらないと言った。どうしてそんなことを言うのか、私には分からなかった。彼女の名前がつまらないのなら、私の名前はなんと言えばいいのだろう。私の名ほど安直に付けられたものはないと思うのだけれど。
「漢字も小学生で習っちゃうし、もっと凝った名前が良かった。瑠美とか詩織とか。」
晩夏の夜、縁側でアイスを食べながら月を見ていた時のことだった。そう話す彼女の横顔を見て、本当に嫌がっているわけではないことは分かったので、私は何も返さず、黙って月を見上げた。鈴虫の音が、残暑で寝苦しいほど蒸し暑い夜に、ほのかな涼しさをもたらす。時々薄く雲がかる月が、淡く私たちを照らす。それをぼんやりの眺めていると、五分ほどの時間が悠遠にも感じられた。ああ、もしこの穏やかな時を彼女と共にずっと在れたら。叶わない望みを抱きつつ視線を彼女へ移す。彼女も私を見ていた。瞳が合う。
「でもね、この名前で気に入ってるとこもあるんだ。」
微笑んだ彼女から聞いた言葉は、私にも特別なものになった。
『月が綺麗ですね。』
愛しい人に愛を告げる言葉。それを連想させる名を彼女は気に入っていた。
月が綺麗ですね。私にはどうしたってその言葉を発することは出来ない。想いを告げることも、伝えることも。言葉を心の奥で噛みしめるように何度も何度も繰り返す。月が綺麗ですね。月が綺麗ですね。彼女の柔らかい手が私の頭を撫でた。
想いを伝えるすべすらない。
彼女がコロッケを食べ終わった頃には、人通りの少ない住宅街にさしかかった。空はすっかり闇に包まれ、あたりを照らすのは、ぽつりぽつりとある街灯と、月明かりだけだ。温もりを失った風が私と彼女の間を吹き抜ける。木々や人、様々なにおいが混ざったいつも通りの風になぜか違和感を覚えた。嫌な予感がする。早く帰りたい。柔らかくて暖かい匂いのする家に早く帰らないと。無性にそう思って、彼女を引っ張るように、歩みを速める。昼の名残で、生温いアスファルトを踏みしめる感覚が気持ち悪い。「ちょっと、どうしたの?」と困惑する彼女を無視し、さらに速度を上げるため足に力を入れようとして……立ち止まる。突然自身を引く力が無くなった彼女がつんのめるが、それを気にする余裕はなかった。前方の、住宅街にはよくある小さな十字路。私の視線はそこに奪われていた。正しくは、その十字路の右側から歩き出てきた男に。男は酔っ払いのようなどこかおぼつかない足取りで、俯いた頭をゆらゆらと揺らしながら歩いていた。左右に振れるパサついた長めの髪が隠して、その表情は見えない。ただ、何かを喋っているようで、小さすぎて聞き取れない言葉の連なりの合間に、くすくすと笑う声や、苦しそうに呻く声が聞こえる。男はゆっくりと十字路の中央まで行って、そして、こちらを向いた。根が生えたように、私の足は動かない。彼の目は何も映しておらず、虚ろで真っ黒だが、ぎらぎらとした何かが、その奥に見え隠れしている。こちらを向いた時、見えていなかった男の右手がきらりと光った。
ああ、もし私が人間であったなら。
がさりっ、と音がして買い物袋が落ち、我に帰った私は吠えた。彼女に逃げようと伝えるために。しかし、彼女は動かなかった。いや、動けなかった。彼女の手の震えで、リードが小刻みに揺れる。こちらを認識すると、男は口角をひくつかせるように笑顔を作った。おぼつかなかった足取りが、確かなものになり、最後には駆けるようなものに変わった。彼女を守らなければならない。彼女を連れて逃げようと走り出す、が、怯えきった彼女の手には、リードを握る力はなかった。彼女を守らなければならないのに、大した音もなく地面に落ちるそれに、もはや私と彼女を繋ぐ力はない。彼女を守らなければならない。私の頭にあるのはそれだけ。男が近づいてくる。ナイフが月光を反射して青白く光るその瞬間、私は走り出した。
「シロっ。」
男の足に噛み付いた私を見て、弾かれたかのように彼女は動き出した。男は顔を歪め、私を振り飛ばす。痛みなんて、どうでもよかった。立ち上がって、駆け出して、今度は右腕に噛み付く。男はよくわからない事を喚きながら私を振り落とそうと、大きく腕を振った。地面に落とされた私は、立ち上がる前に、男に蹴り飛ばされ、電柱に体を打ち付けた。
「っ、シロっ。」
逃げようとしていた彼女がこちらを振り返る。いいのに。私のことは気にせず、気にせず、速く逃げてほしいのに。体が痛くて、「逃げろ。」と吠えることもできない。男がじりじりと距離を詰めていく。だめだ。だめだだめだ。彼女が傷つけられるなんて、そんなのはだめだ。体がかっと熱くなるのを感じた。彼女を守らないと。彼女は守らないと。気がつけば走り出して、振り上げられたナイフの前に飛び出していた。
もし私が人間で、彼女と言葉を交わせたら、
私は夜の縁側で、彼女と並んで月を見たい。
そして彼女の名前を呼んで、あの言葉を告げたい。
「シロっ…シロっ…。」
彼女が私を抱えて、涙を流している。男はあのあと私の血を見てガタガタと震えだし、ナイフも捨てて叫びながら逃げていった。遠くでサイレンが鳴っている。男の叫び声を聞いて、誰かが通報したのだろう、ざわざわと人が集まって来ているようだ。だが、私にはそんなことはどうでもいい。彼女のことだけしか気にならなかった。彼女はその手を私の血で黒く汚し、私の裂かれた腹を抑えている。彼女の瞳から溢れていく涙が、ひどく美しい。美月。美月。泣かないでおくれ。私は君が無事で本当に嬉しいんだ。守れてよかった。私はもう、君の側にはいられないけれど、それでもいいんだ。君を守れるのなら、君のためになら死んでもいいと思っていたんだから。こんな時でさえ、私は言葉を伝えることができないが、それすらも、どうでもよかった。彼女の顔を見つめようとするも、ぐらぐらと、視線がぶれる。だんだんと霞みゆく視界の中、彼女の背後に見えた月は、本当に綺麗で、「月が綺麗ですね。」と伝えられないことだけが心残りだと思った。
十三夜月の下、一匹の犬が主人を守って死んだ。