透明の隔たり
液体が床に叩きつけられた音を聞いた。
冷たさはない。痛みは肩と脇腹に走る痛みだけ。意識が遠のくこともなければ、妙に気だるくなったわけでもない。
生きていることを実感しながら、目を恐る恐る開くと、『それ』がだらんとした両手の片方に銃をぶら下げて佇んでいた。──ただ、首が無かった。血の噴水を首があるはずの場所から作り出し、『それ』は崩れ落ちるでもなく、ただ佇んでいるだけ。
死んでいるのか生きているのか分からない『それ』の先の廊下に、拳銃を構えた凛が居た。その銃口からは硝煙が立ち昇っており、そのグリップを握り締めている凛の手はぶるぶると震えて、顔は泣き出す寸前のものになっていた。刀は足元に転がっている。血がついているあたり、向こうからやってくるはずのそれは倒すことができたらしい。
やがて、首の無くなった『それ』は膝をついて、どたっと倒れこんだ。見る間に血の池を作り上げていく。
「………あ」
ようやくそこでそんな間抜けた声が出た。それを見て、凛が溜息をつく。
「……もう。少佐を守るために置いていったのに、逆に襲われてどうすんの」
「ご、ごめん……」
「まあ仕方ないわねん。今回佐貫くんは初遭遇だもの」
佐慧は至って呑気にそんな事を言う。
「……もう、怪我してるじゃん」
凛は銃を捨てて、遼太の下へと駆け寄った。そして、銃創を確認し始める。
「肩とお腹だけ?」
「あと脚も……」
おずおずと答える。至近距離に凛が近づいてきているから、無駄に緊張しているのだ。
「脚? よくここまで走ってこれたね」
「え、いや、掠っただけだから……」
血はとっくに止まっている。義手が手を回して痛覚が遮断されているのか、痛みも感じない。
「少佐、佐貫君の分のこのコート無いんですか?」
凛は既に血が止まって赤黒くなった銃創を痛々しげに眺めてから、佐慧の方を向いて訊ねた。佐慧は返事を返す前に物憂げな顔を見せた。
「これは私が持ってきたものじゃないから……部長さんが今日あたり持ってくるようなこと言ってたけど?」
「んー、またこういうところであの人が出てくるんだ……でも部長様、なんか美味しいところ持って生きたがりな人ですから、大丈夫でしょうか」
「──さぁ……?」
二人がそう話している間、遼太は右腕を変形させておいた。また不意打ちを仕掛けてきてもおかしくないのだ。この変形時間が当面のところの欠点なので、今のうちにやっておくに限る。
凝縮。炸裂。右腕は銃身へと変貌を遂げた。
「ちょ、ちょっと! そ、そんなことしてき、傷は大丈夫なの?」
丁度終えたところで、凛が慌てた声を浴びせてきた。遼太は慄きながらも、手を振って健全を示す。
「だ、大丈夫だよ、これくらい……」
「無茶しないでよっ。あなた、普通の人ならとっくに動けないくらいの傷受けてるんだよ? 銃弾もまだ体に残ってるんだから、変に動いたりして──」
「心配には及ばぬ」
ふいに右腕が声をあげた。遼太と凛、両者とも驚いて腕を見下ろす。
すると、右腕が唸りを上げた。パソコンの冷却ファンの稼動音の様な、機械的な音。一体このエネルギーはどこから来ているのだろうか、もしかして、体から吸い取って──? と、遼太はそんなことを心配してしまう。
やがて、指先──銃口にあたる部分から、何かが三つほどぼろぼろとこぼれ落ちた。よく見てみると、赤く濡れた銃弾であった。
「体内の異物の除去は以下にして行う。体内は極正常」
思わず凛と顔を見合わせてしまう。非常識にはもう慣れた、と思っていたが、まだまだ常識の裏をかくような出来事が頻発しそうだ。
「……もう何があっても驚いちゃいけないって肝に銘じてきたけど……こんなリアルに直面させられたのは初めてかな」
「……どうなるんだろ、僕の体」
遼太が呟いたこの言葉、あながち看過するほど小さな意味を秘めたものではなかった。このまま、遼太の体を蝕んでいき、終いには支配してしまう──そんな事があってしまうのではないか、と。
「七億三千万時間以上の時を必要とする。時間的に不可能。上、我に意思は毛頭無い」
「……信じるよ」
信頼できるかどうかはわからないが、数字が膨大すぎたので、信じておくことにした。
凛は遼太の独り言もどきに首を傾げたが、すぐに居住まいを正して言った。
「銃弾は無くなったとしても、まだ傷は癒えてないんだから、無理はしないでね」
「う、うん」
ぐいと詰め寄られて、遼太はがくがくと首を縦に振った。外見とは違っておしとやかな子だな、と思ってはいたが、実はそうでもなかったらしい。本当に人とは一朝一夕での判断し難い動物である。
「……また来たみたいよん?」
そこで寡黙を守ってきた佐慧が口を開いた。確かに、どこかからか、下品な足音が聞こえる。
「……あいつら、不死身?」
遼太はようやくその疑問を思い出し、訊ねてみた。それに対して、凛は渋い顔をする。
「うーん……死ぬことには死ぬんだけど……」
「とりあえず、一杯来られたら困る、ってことは言えるわねん」
佐慧も人差し指を頬に当てて唸る。いまいちつかみ所の無い返事に、遼太はいまいち溜飲が下りない思いである。
「──それじゃあ、そろそろここからも退いた方が良さそうねん……」
やがて、佐慧がきょろきょろと廊下を見渡しながら呟いた。遼太はその後を継ぐように言う。
「どっちから逃げたほうが良いと思います?」
窓と廊下とある。凛が拳銃を持ってきた辺り、どちらにも『あれ』の死骸がある筈だ。
「班員に意見を求めるとは、結構知的な班長さんねん」
「か、勝手に班長にしないでください」
「どうしましょう、凛ちゃん?」
「わ、私ですか……?」
いきなり会話の矛先が凛に向いて、凛は困惑した表情を露にした。それをみて遼太は、顔に出やすいのか、なんて思ってたりする。
「──やっぱりあっちだと思います」
凛がそう言って指差したのは、廊下側である。
「時間的にもあまり経ってませんし、腕を片方削いできましたから」
「それなら安心ねん。凛ちゃんの猟奇的な部分が役に立ったわね」
「べ、別にそんな趣味ありませんっ!」
──からかわれ易いのか、と遼太は思ってたりする。遼太も負けず劣らずなのであるが、それは無自覚なのでそれを咎めるのは酷というものであろう。
佐慧は少し笑って目尻を擦りながら、遼太の方を向いて言った。
「ということよ、班長さん。早めに移動しましょう?」
「は、はい」
どっちが班長だか。
確かに『それ』の死骸──屍には、片腕が無く、ただ血溜りがあるだけだった。廊下に湖の様に黒い斑点を作り上げている。腕はその近くに転がっている。
「獲物から拾得物を得るのは戦争の常……って部長が言ってたもんですから」
凛が拳銃をくるくると弄びながら言った。佐慧は感心したように顎に指を当てる。
「へぇ……よくもまぁ、あの距離から頭に当てられたものねん」
「いえ、あれは偶然です」
「えっ……それじゃあ、下手すればあの時……」
遼太は位置関係の上で、二発の弾丸を喰らうことになっていたのでは。
「え、ん……まぁ、いいじゃん。助かったんだし……、こんなの日常茶飯事だよ?」
「……そういう問題なのかな……」
と、遼太が呟いた瞬間、壁が吹っ飛ぶような轟音がした。先ほど遼太達がいたあたりである。その音の大きさに知らずのいうちに背中が粟立つ。
「ここは危険ね……今日も予想以上に強そうねん……」
佐慧が眉を顰めて呟く。
「そ、それじゃあ早く行きましょう!」
「ニ階っ!」
一年二人は各々叫んでから、近くの階段を登り始めた。佐慧も慌ててその後を追う。
遼太が踊り場についたところで振り返ると、片腕の無くなった『それ』がゆっくりと起き上がっているのが見えた。両腕があるかのように、すらりと立ち上がる。そして──赤い目が遼太を捉えた。その禍々しさに遼太は慄く。
「安心してっ、目からレーザーは出ないから」
そんな遼太の腕を凛が引っ張りつつそう言った。遼太は慌てて踵を弾いて階段を駆け上がる。ニ階にたどり着いたところで、重い足音が一階から聞こえてきた。断続的なそれの間隔は先ほどよりも格段に短くなっている。まごまごしていたら、すぐさま追いつかれてしまうだろう。
更にその足音の上に、重戦車がエンジン全開で走ってきているような轟音が重なった。その轟音はすぐさま遼太達の足元まで及んでくる。
それ聞いた凛は獲物を貪っている狼を見た仔猫の様な顔をした。
「うえぇ……今日はあんなんが三人もいるの……」
「……これからは毎日来るでしょうね」
「な、何が来るんですかっ?」
この轟音からして、ドングリを抱えたリスが来るわけではあるまい。遼太は堪らず訊ねてみた。凛はそれを聞いて渋い顔をした。
「……厭な奴」
「……逃げようか」
凛が渋い顔をするのは、大概本当に厄介な問題と直面したときだ。──凛だけで全てを判断しているわけではないが、ここは逃げるのが定石、というか逃げている最中だ。混乱する。
三人は曲がる方向を決めると、即走り出した。なんだかホラー映画の主人公になった気分だ。──いや、ホラーじゃなくて妖怪モノか。いや、どうでもいい。
遼太は後方を力を抑えて走り、殿を取る。──というのは、表向きの理由で、単に遠慮しているだけである。遼太が本気を出して走ると、二人を路頭に迷わせることになりかねない。
「し、死角が多い分、こ、校舎の中は危険……だと思うんだけど……」
既に息を切らし始めている佐慧が、繋がらない息でなんとか話し掛けてきた。
「そうですね……でもここニ階ですよ?」
「に、二階なら佐貫君のアクロバットで脱出できるんじゃない? わ、私と凛ちゃんを抱えて──」
「え、わ、私もですかっ?」
凛が驚いたような声をあげた。
「……い、一応貴女も普通の人間と一緒でしょ? そ、それなら……」
「うぅ……に、ニ階ならいけますよっ!」
「そう? け、怪我はしないでよ?」
「──はい」
話がついたらしい。両者頷きあう。
「それじゃ……佐貫君お願いっ!」
「え? うわぁっ!」
佐慧はふいに踵を返して後ろを向くと、遼太にタックル──否、抱きついてきた。
衝撃を最低限にまで押し殺し、佐慧を抱き上げる。大分軽い。
「私が先に行くからっ、後から絶対ついてきてよっ!」
凛が前方を走りながら言った。轟音は相変わらず後方で轟いている。
目指すは廊下の突き当たりの窓。遼太の肩ほどの高さがある。窓は無論──閉まっている。先ほど飛び込んでみて実感したが、窓ガラスは相当硬い。
凛は刀を抜いた。基本的に、変形させたらこの状態のままである。下手にナイフに戻したりでもしたら、遼太の二の舞になる可能性があるのを知っているからだ。
そのまま、窓をそれで一閃する。綺麗にスパっと斬れるのかと思ったら、派手に甲高い音を立てて砕け散った。
そして、凛は走っているときの速度を維持したまま、窓の桟に手をつくと、ひらりと跳び越えた。凛の体が空中へと消える。
遼太も佐慧を抱きかけたまま、その後を継ごうと脚を曲げる。そして、そのまま弾性で飛んでいこうとして──その寸前で力を加える向きを百八十度変えた。遼太の体が後方へと飛ぶ。
「え、ちょ……」
佐慧が目を丸くして、遼太の顔を見た。必死の形相。なかなか開かない踏み切りに歯軋りするドライバーの様な──。
鼓膜が引きちぎれそうな程の轟音が至近距離で起こった。窓のすぐ前の床が土煙とともに消えた。
「引き返します……」
遼太が震える声で言った。佐慧もそれは頷ける。よくぞ反応できたと褒めるべきだ。
巨大な鎌が廊下から生えていた。凛の刀とその艶は負けず劣らずであり、刃は恐ろしいほどに彎曲し無骨な黒色を月光に晒している。それが二本一対でそこにある。それも、生命体によって意思を牛耳られているのか、動いている。
遼太はそれを見るや否や、踵を返して駆け出した。後ろで鎌を床に叩きつけたような音が聞こえた。校舎が揺れる。
「なんですか……あれは……」
「……『あれ』が死ぬとああなる、ていうと、一番わかり易いかしらん……?」
と、そこで廊下の窓ガラスが割れて、人型の『それ』が頭から突っ込んできた。緩慢な動きで立ち上がろうとしている。
遼太はそれをよけようとせずに、そのまま走る脚をそのまま慣性に従わせて、頭を蹴り飛ばした。血液、眼球、頭蓋骨、脳髄、脳漿諸々が飛び散り、『それ』は絶命した。
「も、もっと穏やかに倒してくれる?」
「ちょっとでも隙を見せると喰われますよ?」
遼太は目を眇めていった。それは、そのまま校庭側に備え付けられた窓から抜け出せない理由にもなる。
すぐ後ろを『それ』が追いかけてきている。蛇の様な体──直径が三メートルはあろうかというその筒状の体をくねらせ、中枢があると思われる先端に二つの鎌が備え付けられ、その二つ鎌の根元の中央に口と一つの赤い目玉がある。
紛れもない、<レッド>である。
その肢体の無い体にも関わらず、移動速度は異常に早い。廊下の壁を擦り、抉り、壊しながら刻々と良太との距離を詰める。鎌を定期的に振り回すことも忘れない。
「ど、どうするの?前からも来てるわよん……?」
「やむを得ません……第二に向かいます」
第二校舎は今いる第一校舎の裏側に位置しているため、校庭から必然的に離れることになる。だが、この袋のネズミ状態であるがゆえん、そんなこと悠長に言ってられない。
先ほどはあえなく通過した空中廊下が見えてくる。その先には、もう一匹の『それ』の姿がある。
「……やっぱり、空中廊下の窓から抜け出しますね」
「大丈夫なの?」
「完全には曲がらずに、廊下の右側の窓から飛び出せば、最低限の隙で脱出できると思います」
そう言って、遼太は態勢を低くした。空中廊下はすぐそこまで来ている。『それ』の鎌も。
結局のところ、賭けには違いない。どっちが速いか、である。
勝負はすぐに訪れた。
関節をよじり空中廊下に入った。すぐに遼太は精一杯態勢を低くし、脚を曲げる。そして、廊下を蹴る。窓ガラスはすぐそこにある。無情に閉まって透明の隔たりを作っている無機物が、すぐそこに。
抜けた、と思った刹那、窓ガラスは黒い何かで覆われた。遼太は驚愕の表情を見せて、首を振ると──赤い目玉があった。
キーボード新調したのは良いんですが、まだ慣れないので苦心してます。
それに関連してか、結構グダグダですね……。随分とまぁ……。
というわけで、キーボードの所為にするのもなんなんですが、少なからず誤字等が存在するかと思われます。その点は……仕様だと思ってくれれば……
無論、感想は常時待ってますので、どうかよろしくおねがいします。




