スタートダッシュは500円から!
加奈子を操るのは、ひどく簡単だ。
困っている状態であることを話すか、見せつければ、加奈子はすぐに親切に手を差し伸べようとする。
タチの悪い男達はそんな、加奈子の性質をすぐに見抜くようだ。
加奈子は、大きくはないが、ちょびちょびと、金をむしり取られたり、何かをせびられたりするのだ。
先日、寂しい加奈子は、あるフリースペース兼シェアハウスに雑談をしに行った。
そこの新顔で、ひどく凝った通り名を持つ「芸術家」の男と、ふたりっきりになったとき。
その男から、五百円の借金を加奈子は申し込まれた。
加奈子は五百円、という額の小ささにかえって、その男の窮状を感じ取り
「いいよー。」
と言ってすぐさま金を貸した。
その男は、今は困っているが、来週になれば金が入るので、七百円にして返す。
今、加奈子の事をツイッターでフォローしたので逃げない、と言った。
加奈子はフォローを返しながら。
別に、五百円くらい帰ってこなくてもいいか。
昼ごはんを一食抜けばいいことだ、と思った。
しかし、それはその男のいわば「入団テスト」だった。
金を財布に入れながら男は、加奈子に向かって
「女に困ってるんで、セックスさせてくれないか。」と言ったのだ。
そんな不躾な申し込みを受けたのは、加奈子は初めてだった。
「芸術家」の男は端正な顔立ちをしていて、和服をアレンジした芸術家っぽい服装をしていた。
加奈子は初対面の男にそんな事を言われてギョッとしつつも、もう少し柔らかな頼みかたをしていれば、自分は承諾していたに違いない、とも考えた。
恋人が居なくなって一年。加奈子だってセックスはしたい。
「でも、初対面であれはないよなぁ。」
心の中でつぶやきながら、帰った。
帰ってきてからツイッターでその男が
「セックス相手求む(普通体型の若い女性に限ります)」
とつぶやいているのを目にしてひどく、屈辱された気分になった。
加奈子は四十五歳で、その上太っていたからだ。
正直なのはいいが、あまりにも馬鹿で、失礼すぎやしないか。
五百円掠め取られて、その上屈辱された。
加奈子は、世の中全体がこんなことで溢れているように思えて、怒るより、悲しくなった。
「どうしてそんなにすぐに人を信じる?人はまず疑って接するべきだよ。」
離婚してから出来た最初の彼氏の直久は、加奈子にいつもそう言っていた。
直久自体、ひどく疑り深い性格だったが、若いせいか、純情で、誠実なところのある人間だった。
直久と加奈子は二年続いた。
二人は始終どちらかの部屋で過ごした。
趣味も似ていたので、加奈子は満足していたし、いつも二人楽しかった。
付き合って二年が経とうとしたとき。
加奈子は、直久がネットの出会い系をやっているのに気付いて、別れた。
「うまくいってたのに。」
直久は、人を疑えと言っておきながら、自分が疑われる立場になるとは思ってもみなかったらしい。
そんな直久の未熟さを、加奈子は懐かしく思い出した。
直久と別れてから、加奈子はやっぱりやり直そうとしたけれど、上手くいかなかった。
直久は疑い深いと同時に、小心で「怒られる事」をひどく恐れていたのだ。
ネットでの浮気を加奈子から「怒られる」より、別れたほうが楽である、と直久はきちんと復縁するのを拒んだ。
そういえば加奈子は二年間、直久に対して怒らなかった。
別れたあと、二人は高円寺のライブハウスで二度ほどデートした。
加奈子は、初めてジャズのセッションライブを見に行ったとき、直久から
「その人のソロが終わったら拍手するんだよ。」
と教えられ、そんな事を知っている直久の事をお洒落で、かっこいい、と感じた。
付き合い直したい、加奈子は強くそう思った。
ある日突然、直久から
「誰が悪いわけでもありませんが、僕の連絡先を消去してください。
そして二度と連絡しないでください。
このメールにも返信もしないでください。」
というメールが届いて加奈子はその通りにした。
他に、交際相手ができたのだろう直久の事を、どうすることも出来なくて加奈子はあきらめた。