魔王と勇者と
「あ、ア、アア――」
『アンリーーーーーーーー!?』
タケルが構えるよりも速くマサキが駆けた。
抜き放たれた聖剣が闇の中で強い光芒を放つ。
漆黒を裂く聖剣の一撃を、しかしアンリは片手で難なく受けた。
「……おい、なんだ。貴様の方ではない。私はそっちのかわいい勇者に用がある」
『なんだはこっちのセリフだ。息子の前に魔王の姿で出てくるなんて、どういうつもりだ君は!』
『だって、出てくる敵はあなたが倒しちゃうし肝心のキュクロプスは寝てるしで、つまんないんだもん。全然タケルちゃんのかっこいいところ見れないじゃない!』
『だからっていきなり魔王が出て相手になるわけないだろ! その姿の君は、常人なら見ただけで失禁してもおかしくないんだぞ!』
『残念でしたタケルちゃんは去年でお漏らしを卒業してますぅ。この程度のことで失禁するような子じゃないわ!』
ジョボボボボボボ……。
『はい、ご覧の通りでございます!』
『お、お漏らしがなによ。東洋の島国では、合戦のたびにうんこ漏らしながらも天下を統一した武将がいるという話を聞いたことがあるわ。むしろ器の大きさの証明よ!』
「ぱ、パパ、パパ!」
背後からタケルの悲痛な声が聞こえた。マサキは目の前のアンリを全力で抑えながら、肩越しに笑顔を向けた。
「大丈夫だからタケルは下がってなさい、ここはパパに任せるんだ!」
「ち、違うんだよパパ、た、大変なんだ!」
「どうした、今この世でパパより大変な人いないと思ってるけど、どうした!」
「お、おしっこ漏れちゃいそうなんだ!」
……。
『ほーら見ろ、とうとうおしっこが尿意を追い越したぞ! 脳が知覚するよりも速く、膀胱がお漏らしを選択したぞ!』
『神速の斬撃は音や光を置き去りにするって言うじゃない。武術の達人にはよくあることよ!』
『よくあってたまるか! 初めて身につけた神速がお漏らしだなんて残酷すぎるだろこの世界は!』
「パパ、もう限界だよ、もっ、漏れちゃうよ」
「タケル、安心しろ。もう手遅れだ。落ち着いて、自分のズボンがどうなってるか見てみろ」
「ズボン……? あっ、び、びちゃびちゃだ……パパ、びちゃびちゃだよ!」
「そうだろう、それはなんだと思う?」
「……春の雪どけ?」
「お前のそういうところ伸ばしてやりたいけど今じゃない!」
『――んもう、あなたばっかりタケルちゃんとしゃべって……邪魔よ!』
アンリが聖剣を押し退けるように腕を払った。それだけで突風が起こり、マサキは鍔競りの姿勢のまま弾き飛ばされた。
「ぐっ……相変わらずの馬鹿力め――うおっ!?」
死角から触手の鋭い一撃を、すんでのところでかわした。アンリの首筋から伸びる触手は、それぞれが固有の意志を持つ大蛇の如くマサキを追い詰める。
『ばかっ、アンリ、やめろ、これマジじゃないか、マジのやつじゃないか!』
闇を縫って襲い来る必殺の刺突を、マサキは剣ひとつで見事に捌いた。
『んもおおお、なんで邪魔するの!?』
『そんな姿の君をタケルと戦わせられるか!』
『いいじゃないちょっとぐらい、殺しゃしないわよ!』
『だから母親のセリフじゃないんだよ! 君は昔からそうだ。その身勝手な振る舞いが、子どもにどんな影響を与えるか、ちっとも考えないんだな。母親失格だ!』
『なん、ですって』
アンリは虚空に両手をかざし、なにかを握るような仕草をした。なにもない空間から、闇を塗り固めたような剣が二振り、音もなく現れた。
『あなたこそ……あなたこそ! そういうところがタケルちゃんから積極性を奪ってるって思わないの!』
滑らかな闇がマサキに牙を剥いた。
『本当はッ!』
一刀が手首を狙い、
『やればッ!』
一刀は喉元めがけ、
『できる子なのに!』
触手の連撃と同時に、漆黒の二刀が闇を這った。
『君こそ、少しはタケルの意志をくんでやろうと思わないのか!』
マサキが正眼に剣を構えた。
『そうやってなんでもッ!』
手首に迫る刃を鍔で受け、
『子どもにッ!』
峰で切っ先をいなし、
『押しつけてッ!』
風切り音だけで二刀の軌道を見切り、かわした。
『タケルができる子だってことは僕だってわかっている。いや、僕が一番わかっている。なんたってこの僕の子どもなんだからな!』
『だったら、少しぐらい冒険させてあげてもいいじゃない。昔から【可愛い子には毒を盛れよ】と言うでしょう!』
『なんだその君か白雪姫の魔女ぐらいしか言わないことわざ!』
『あなたのその臆病な教育じゃ、タケルちゃんは成長しないって言いたいの。魔族は危機の中でこそ覚醒するのよ。あの子だって魔族の血が流れてるわ! だってホラあの綺麗で禍々しい黒髪、どう見たって私似だもの!』
『君似だって? 冗談を言うな。あの子は――僕に似たんだ!』
凄まじい速さで聖剣を振るい、襲い来る触手を全て叩き落とすと、一足に距離を詰め、柄頭でアンリの鳩尾を打った。
「ぐゥッ――」
アンリが大きく態勢を崩した。突かれた鳩尾を押さえ、思わず距離を取った。
逃がすまいとマサキも距離を詰める。
『――あのくるっとした髪に、赤みの差した愛らしい頬、そしてチャーミングなえくぼ! どっからどう見ても僕の遺伝子だろう!』
マサキの猛攻を、触手を駆使して防ぐアンリ。
『あなたこそ、どこに目をつけてるのよ。強気な眼差しも、負けず嫌いなところも、そして辛いものが苦手なのも左利きなのも、全部ぜんぶどうみても私似でしょう!』
『ハッ、君の目こそ確かか!? 黒目がちなところも、右足から歩き出す癖や、寝付きがよくて雨の日が苦手で、暑いと汗をかくところなんか僕の生き写しだろう!』
『節穴ってのはあなたの目のことを言うのね! 怒ったら無口になるところや腕と足が二本ずつあるところ、あと酸素を吸って二酸化炭素を吐くところなんか、昔の私そっくりなんだから!』
凄まじい剣戟の応酬に劣らない念話の応酬が、洞窟全体を震撼させた。
闇の中、絶えず舞い散る火花の連続を、タケルはわけもわからず見つめた。
『私が一番あの子のことを考えているの、あの子を愛しているの!』
『どこの世界に魔王姿で息子と戦おうとする母親がいる!』
『私はただ、最初勇者をなめてかかってたけど思わぬ手傷を負って、見くびっていたぞニンゲン、とかいいながらいったん帰るやつがやりたいだけよ! あなたこそ、どうしてそんなに邪魔するの。私とタケルちゃんが戦ったら、なにか都合が悪いの!?』
『そ、それは――』
痛いところを突かれ、一瞬ぎくりとしたマサキをアンリは見逃さなかった。「しまった」防ぐ間もなく、鋭い一撃がマサキを吹き飛ばした。
「ぐァッ――!」
壁に叩きつけられた衝撃で聖剣がマサキの手を離れた。
アンリは触手でひょいとそれを拾い上げると、満面の笑みを浮かべた。
「フッフフ、どうした元勇者? ずいぶんと腕が鈍っているではないか!」
「く、クソッ、油断したとはいえ、ここまでの力の差はなかったはず……!」
『それは当然よ。あなたが王宮でデスクワークに精を出している間、私は掃除や洗濯もそこそこに鍛錬を怠らなかったんだから!』
『お母さんおうちのことちゃんとやって~?』
アンリは聖剣を投げ捨てると、丸腰のマサキに躙り寄った。
『怖がらなくていいわよ。私がタケルちゃんと遊ぶ間、少し気絶してもらうだけだから』
アンリが拳を固めたそのとき、彼女の前に小さな影が躍り出た。
「やめろ、パパに手を出すな、ぼ、ぼ、ボクが相手だ!」
タケルだった。膝は絶えず笑い、歯の根も合わぬ様子で、それでも一握りの勇気を振り絞り、タケルが魔王の前に立ちはだかった。
「タケ、ル……やめろ、僕のことはいいから、逃げ、ろ、すぐに逃げるんだ」
「嫌だ。ボクだって勇者だ。勇者マサキの息子なんだ!」
「ククッ……マサキよ、良い息子を持ったな?」アンリが口の端を歪めた。「本当に……本当に良い息子を持ったな。超いい……。もっかいやってほしい。私の前にバッて飛び出るとこ、もっかいやってほしい……写真撮って待ち受けにしたい……。うふ、うふふふふ」
「タケル、逃げろ。すぐじゃなくても、たぶん結構余裕持って逃げられるから、逃げろ」
「守るんだ、ボクがパパを守るんだ、うわあああ―――!」
タケルが振りかぶったその瞬間、洞窟の奥で仄かに閃くものがあった。
「――タケル、危ないッ!」
マサキの身体がタケルに覆い被さった。次の瞬間、火炎の奔流が渦を巻いてマサキとタケルを呑み込んだ。
「ぐああああああああ!」
全てを巻き込み洞窟を貫く炎の螺旋の中、マサキの絶叫が響いた。
直撃をまともに受けたマサキはその場にくずおれた。
「――ナザエル様に手を出すなど、身の程を弁えろニンゲン」
地を揺るがすような声と共に、全身を赤い鱗に包んだ巨大な龍が姿を現した。
「変異……古龍……なぜ……まず、い……」
「パパ……? パパ、パパ!」
倒れたままぴくりとも動かなくなったマサキを、タケルは必死に揺さぶった。
アンリも突然現れた古龍に目をしばたたかせた。
「お怪我はありませんか、ナザエル様」
「私は、大丈夫だが、お前、なんでここに……」
「ナザエル様がお呼びになったのではありませんか。猊下に万が一があってはならぬと、不肖、この私めがお呼びに従い参上した次第でございます」
「呼んだ……? いや、呼んで……あっ、あ! あれか、はいはい、呼んだ。呼んでたな。でも来ると思ってなかった。お前ああいう感じの呼び方でも来るんだな」
「魔王様ひどい」
「まあ結果オーライだ。よくやってくれた」
アンリはマサキを見下ろした。引退したとはいえ、さすがは伝説の勇者、古龍の不意打ちを食らっても気絶する程度で済んでいた。アンリは内心安堵した。
「……ヌ。そやつめ、まだ生きておるな」
「えっ」
古龍が倒れたマサキに向き直った。
「我が渾身の一撃をまともに喰らって息があるとは見上げた体力だ。だが、魔王様に楯突く不届き者を見過ごすわけにはいかん! 完全に息の根を止めてくれる!」
「馬鹿、待て違う、そっちはもういい! おい!」
「虫けらめ、死ね――がぁっ!?」
マサキにトドメを刺さんとした古龍の動きが止まった。
大地が大きく震えたかと思うと、さらに龍の巨体が大きくよろめいた。
「――ば、馬鹿な、なぜ、ニンゲンの子どもがこれほどの――ぐおおおおお!?」
暗闇ごとねじ切らんばかりの突風と共に、古龍の巨体が天高く吹っ飛んだ。
洞窟の天井を突いて尚勢いは衰えず、そのまま地面を抉り飛ばしながら視界から消えた。古龍ごと吹き飛ばされた天井から、細い光が差し込んだ。
「な、に……?」
アンリは狼狽えた。
その光の中にいる人物に狼狽えた。
そこには最愛の息子が、タケルが立っているはずだった。
だがそこにいたのは――剥き出しの肌に不気味な暗緑の文様が縦横無尽に走り、瞳に紅と黒が絶えず混じる不穏な色彩を宿すそれは――彼女の知るタケルとは、似ても似つかぬ魔人だった。
「よクも、パパ、ヲ」
魔人の声。そこにかろうじてタケルの痕跡があった。
アンリはその眼光の前に、射竦められたようになった。
恐怖でも畏怖でも好奇でもない。彼女をその場に縫い止めていたのは、ただ一つの未知だった。己を遙かに凌駕する圧倒的強者という、ただそれだけの未知がアンリから思考を奪った。
タケルが一歩、距離を詰めた。
瞬間、アンリの身体はほとんど無意識に刃を繰り出した。
「あっ――」
最愛の息子に全力の一撃を放ってしまった。
そのことに気がつくよりも速く、目の前からタケルが姿を消した。
「ぎッ――!?」
死角からの鋭い一撃。かろうじて防御が間に合ったものの、受けた腕はみしりと嫌な音をたて、稲妻のような痺れと共に感覚を捨て去った。
「そんな、この私の防御が通用しないなんて――」
距離を取るアンリに向かって、タケルが口を開けた。
喉の奥で闇が凝縮し、破壊の衝動となってわだかまった。
「――マズい!」アンリは咄嗟に残った腕へ全魔力を注ぎ込んだ。空間が歪んで見えるほど堅牢な防御方陣が幾重にも敷かれた。だが――、
「――がァアァ!」
咆吼と共にタケルの口から巨大な火球が迸った。
火球はアンリの展開した防御方陣を、薄氷を割るが如く容易く砕いた。
「なんてこと、この力、こんな力が」
残った腕で火球を押さえ込まんとするも、触れた瞬間にバラバラにされそうな激痛がアンリを襲った。
「この――万物をねじ伏せ、なぎ倒し、無に帰す禍々しい力は!」
火球は腕ごとアンリを呑み込んだ。
それだけは飽き足らず炎熱のあぎとは周囲のもの全てを食い散らかした。貪欲な破壊の権化は、ついには洞窟ごと大地を砕き割った。
「やっぱり私に似たのねタケルちゃーーーーーーん!」
爆ぜる大気と砕かれた大地の狭間で、狂乱とも歓喜ともつかぬ絶叫を残し、火球は魔王ごと虚空へと消え去った。