開戦
タケルの出征式当日、その夜明け前。
マサキは一人、城門付近の詰所にいた。
落ち着きなく立ったり座ったりを繰り返しながら、マサキは何度もローランの用意した『作戦』を思い出していた。
『――いいかマサキ、勇者の出征式はキミも知っての通り、王宮前の広場で国王によって行われるのがならわしだ。だが、満場の大観衆と国王を同時に騙すことはできない。そこで今回のニセ出征式は――城門前の跳ね橋の上で行い、さらに、時刻も早朝にする。皆が寝静まっているうちに出征式をでっち上げてしまおうということだ』
『――妻に怪しまれないか?』
『――その時は、占星師のお告げでこの時刻が吉とされたとか、適当に言い訳しておけ。王都住まいでないなら普段の出征式がどんなものかも知らない。ウソがバレることはない。……出征式が終わったら、俺は奥方を連れて詰所へ戻る。キミはタケルくんを連れて城外へ行け。跳ね橋を上げてしまえばこっちのもんだ。あとはキミらは適当に時間を潰してくればいい。……』
ローランの立てた作戦は完璧なもののように思えた。しかしマサキにはもう一つ、ローランの知らない問題があった。そう、妻が魔王であることを隠し通さなければいけないという問題が。
マサキは窓の外の暁暗を見つめた。
言い知れぬ不安が脳裡にこびりついて離れなかった。あのわがままなアンリが、果たしてちゃんと言うことを聞いてくれるだろうか。次の瞬間にも、漆黒の鎧に身を包んだ魔軍の総帥が窓の外を横切りはしないかと――。
「あーなーたっ」
ふいに背後から聞こえた声に、マサキは直立不動の姿勢を取った。
恐る恐る振り向くと、純白のエプロンドレスに身を包んだアンリが立っていた。
「アンリ……? ああ、アンリ!」
禍々しい鎧も爪牙も触手もない、人間そのものの姿をした妻をマサキは思わず抱きしめた。
「ちょ、ちょっと、なによ急に」
「嬉しいんだ、ちゃんと人間の姿で来てくれるなんて、奇跡だ! 神は僕を見放してなかったぞ!」
「……あなた、私を言葉の通じないサルかなにかだと思ってない?」
「とんでもない! 散歩から帰りたくない柴犬ぐらい聞き分けのいい人だと思ってるよ!」
「ほぼ言うこと聞かないしことによっちゃ噛むじゃない。あのね、私こう見えても魔王なのよ? この程度の常識はわきまえて――」
「しっ」
マサキが人差し指でアンリを制した。詰所の扉がゆっくり開き、ローランが姿を現した。
『――アンリ、ここからはなるべく念話ではなそう。いいね』
『はあーい』
「――やあやあ、申し訳ない。待たせてしまったかな?」
「いや、大丈夫、僕らもちょうど合流したところだ。アンリ、紹介するよ。彼はローラン。僕の友人で、王都の近衛大将を務めている。ローラン、彼女が僕の妻だ」
「アンリ・ナツルと申します。主人がいつもお世話になっております」
「おおっと、こいつぁ……なんてこった、てっきり俺だけに見える女神様かと思ったら、まさかキミの妻だったとは! もう少しでここに神殿を建てるよう指示するところだったよ、ははははは!」
「……」
『ねえ、今のはこの国だとどの死刑にあたるの?』
『女性にクソ寒い冗談を言っても罰されないのがこの国のいいところなんだ』
『そうなの。じゃあ前歯をもらうわね』
『僕の親友の前歯は立食パーティのオードブルじゃないから落ち着いて。頼むから笑顔のままの君でいて』
「あー……ええと、レディ・ナツル? どうかされましたか?」
「ローラン、妻はそういうのに慣れてないんだよ」
「あ、ハハ、そうでしたか、いや失礼した。俺としたことが浮かれてしまったようだ。近衛大将ローラン、そして王都はあなたを歓迎いたしますよ、レディ」
「いえ、こちらこそ失礼しました。ニンゲンの冗談には慣れていなくて」
「ニンゲン」
『アンリ、発音が魔族のそれになってるよ』
「マサキ、いま一瞬、奥方の雰囲気が……」
「いやーハハハ! 妻は田舎の出身だからちょっと方言がキツいんだよ」
「そ、そう、なのか? まあ、それならいいが……」
ローランは咳払いひとつして無理やり気を取り直した。
「し、しかしこんな美人の奥さんと離れて暮らすなんて、もったいないの一言だな。どうですかレディ、いっそ王都に越してこられては?」
「いやあ、それが難しいんだ、えーと、その、アンリも仕事があって、な?」
「ほう、何かやられておるのですか?」
「大したことではありませんわ。余暇にニンゲン共へ宣戦布告を少々……」
「余暇に、せんせん、ふこく……?」
「ヨガの先生! ヨガの先生だよなアンリそう言ったんだよね!」
「あっ、なるほど、ヨガの先生ですか!」
「ええ、魔界の覇者ですわ」
『ルビの皮一枚だな!』
「なるほどなるほど、どうりで美しく、若々しくいらっしゃるわけだ! ではせっかくだから俺もひとつご教示賜ろうかな。実は最近、肩こりに悩まされておりまして、なにかそういうものに効くヨガはありませんか?」
「それでしたら、乱れ曼珠沙華のポーズがよろしいかと」
「おお、これは何とも効きそうな……どのようにするのですか?」
「まず両手を高くあげ、その指先に触手の先端を合わせてくださいまし」
「しょく……しゅ?」
『アンリ、たぶんそれ人間界で流行らないやつだよ』
「マサキ、しょくしゅ、って、触手?」
「いや違う、しょく、し……食指って言ったんだよローラン! 君なんかにタダで教えるのは気が乗らないってことだよ」
「ああなるほど、そういう……ん? それはそれで落ち込むぞ? マサキ?」
「あっ、ニンゲン向けのものでしたら猫のポーズというものがありますわ」
「人間以外向けもあるの……?」
「まず地面に膝立ちになりますの。なってくださいまし。なれ」
「えっ、あ、はい、えっ? いま、『なれ』って」
「早くなれよローラン」
「マサキ?」
「そして手のひらから肘まで地面にべったりとつけ、そのまま息を吐きながら腰をぐっと後ろに引きますの」
「こ、こうですか――おおっ!」
ローランは猫が伸びをするような格好で地面に伏せた。
「こっ、これは、確かに効きますな!」
「ええ、そうでしょう? 猫のポーズは血行促進にはもちろん、ダイエットにも効果がありますし、なによりそうやって地面に這いつくばっているのがお似合いだ、下民」
「……おやあ?」
『アンリ、出てるよ。もう何がとは言わないけど、全部出てるよ』
「マサキ、やっぱり奥方の様子が少し――」
「――パパ! ママ!」
ふいに奥のドアが開け放たれ、幼い声が響いた。
見ると、勇者装束に身を包んだタケルが立っていた。
「タケルちゃん……? タケルちゃん!」
アンリは興奮気味に叫ぶと、タケルに向かって諸手を広げた。タケルの小さな身体をその両手に抱き留めると、そのまま軽々と持ち上げた。
「ああ、すごい、本当に勇者に選ばれたのねタケルちゃん!」
「ど、どうかな、ママ。ボクの格好、ヘンじゃない……?」
「ううん、素敵よ。えげつないぐらいかっこいいわ、ママの誇りよ!」
「――マサキ様、遅れて申し訳ございません」タケルに付き添って入ってきた衛兵がぺこりと頭をたれた。「ご子息様の準備にいささか手間取ってしまいました。なんせサイズの合う具足がなかなか見当たらなくて」
「……サイズ?」
アンリの眉根がぴくりと動いた。
「どういうことかしら。選抜された勇者に合う武具が用意できていないということ?」
「あ、いや違うんだ、アンリ、その、サイズというのはつまり――そう! 死神の鎌のことだよ! あれは十五歳以上の禍々しいお子様向けだろ? タケルに合うのがなかったって意味だよ!」
「なんだ、そういうこと。それにしたってもう少ししっかりした武器を用意してあげてほしいものだわ。こんな剣じゃ、オークの頭蓋を両断することも――うん?」
アンリは首をかしげながら剣の柄頭を二度三度指で叩いた。
「この音……剣身に使われているのはアルマ鉱と、それに小量の銅とマグネタイトを混ぜ合わせた合金ね。軽いけれど殺傷能力は皆無、ほぼ式典用にしか使われないものよ。薄いチャーシュー程度の重さしかない剣を、なぜ……」
「わーわーわー! アンリもう行こう! もうみんな揃ったことだし行きましょうね! おいローランいつまで猫のポーズやってないで、出征式の準備を頼むよ!」
「……その前に、奥方へ俺の頭から足をどけるように言ってくんない?」
「あ、ごめん。踏まれてるの違和感なさすぎて」
「ひどくない?」