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魔王、宣戦布告

 夕刻、終業を告げる鐘が鳴った。


 マサキ・ナツルは書斎でひとり大きく伸びをした。籐椅子が柔らかく軋み彼の疲労を受け止めた。

 机上にうずたかく積まれた手つかずの仕事から目を逸らし、視線を書斎の壁に移した。そこには仕事場には似つかわしくない、抜き身の剣が架けられていた。

 マサキは昔を懐かしむように、その剣を眺めた。

 それは、数多の魔物を斬り伏せた勇者の聖剣だった。

 かつて、魔王をもその切っ先にとらえた救世の鋼鉄はがねだった。

 マサキは座ったまま、手に持ったペンをかつての相棒の横に並べてみた。とたんに聖剣はぼやけ、長さすらもペンに劣った。マサキは苦笑し、残業に立ち向かわんと再び視線を机に戻した。


 そのとき背後で、こつ、と何者かの足音が響いた。


 書斎は二階にあるが、階段を昇る音もドアを開ける音すらもなく、それは突然現れた。しかしマサキは特に意にも介さず、少し呆れたように眉根を寄せた。


「アンリ、何度も言ったろ。来るときは事前に連絡を――」

「ああああああん、あなたあ~~~~!」


 マサキの胸に黒い影が飛び込んできた。アンリと呼ばれたその何者かは、首筋から伸びる幾条もの触手でマサキをあっという間に羽交い締めにすると、甘えるように顔をこすりつけた。甘い香りと濡れ烏の髪が、マサキの鼻先を何度も往復した。


「聞いて聞いてあなた、すごいのよあのねっ、タケルちゃんがね、私たちの息子がねっ」

「わかった、わかったから落ち着いて。痛いから。鎧が、鎧の禍々しい部分がゴリゴリ当たってるから!」


 マサキがぽんぽんと背中を叩くと、アンリが顔をあげた。千紅を閉じ込めた瞳は、興奮のあまり少し涙ぐんでいた。


「来るなりなんだっていうんだ、君は。それで……タケルが、どうしたって?」

「なったのよ、勇者に! 選ばれたの! さっきタケルちゃんからお手紙がきたの。すっごく頑張ってるって、先生からも太鼓判を押されてるんだって! 勇者の学校に通うために王都でひとり暮らしするって聞いたときは、不安で心配で夜も眠れなかったけれど、ああ! やっぱり私たちの息子だわ!」

「いや、え? えっと、ごめん、もう一度――タケルが何になったって?」

「勇者よ、ゆ・う・しゃ!」

「ゆう……しゃ……」


 勇者。聞き慣れたはずの単語が、まるで異国の言葉のように響いた。

 

「勇者に……タケルが……? 本当に? すごいじゃないかそれは!」

「そうなのそうなの! でね、来週さっそく魔王討伐の出征式があるんだって。勇者になったタケルちゃんが見れるんだわ……私もういまからすっごい楽しみ!」

「楽しみ、って。待った。チョット待った。アンリ、君、まさか見に来るつもりじゃないだろうね」

「そうだけど?」


 屈託のないその言葉が、マサキの耳に鋭利なつららがごとく突き刺さった。そこから急速に血の気が引くのを感じた。


「どうしたの? 大丈夫?」

「大丈夫なもんか。これが大丈夫でいられるもんか。アンリ、なに考えてるんだ君は」

「なによぉ、母親が息子の晴れ姿を見にいくのは普通のことでしょ?」

「ああそうだな普通のことだ。なんせ息子が勇者に選ばれたんだ。勇者といえば魔王に立ち向かうことのできる唯一の存在だ。母親なら当然その勇姿を見たいと思うだろう。普通さ。当然だ。ただしそれは母親である君が――その魔王でなければの話だ!」


 マサキの鋭い指摘に、アンリは無窮の魔力を宿す瞳を曇らせた。無双の膂力を誇る腕を組み、万軍を指揮する指で頬をポリポリかきながら、禁呪をつむぐ唇を不満げに結んだ。


「そぉなの、私もそこが少し気になって、だからあなたに相談しにきたんだけど」

「相談もへったくれもない。だいたい君が魔王だってこともあの子にはまだ話してないんだろう? タケルは君が何の仕事をしてると思ってるんだ?」

「ヨガの先生」

「遠いなーだいぶ! ダメだ、絶対にダメ!」


 なんでえ? とアンリは口をとがらせた。


「なんでじゃない! 君はもう少し自分の立場をわきまえてくれよ。本当ならこんな風に魔界と人間界を行き来するのさえ危険なんだよ?」

「あらあら。立場をわきまえろだなんて、どの口が言うのかしら。ねえ、魔王討伐の命を受けながら、その魔王と恋に落ちて子どもまでつくっちゃった伝説の勇者サマ?」

「うっ、あれは、血を流さずにすむならそれが最善という判断で、その……」

「それに、あなたとの間に交わした停戦協定を無視して、まだ性懲りもなく勇者を育成してることも頭にきてるのよ? タケルちゃんを勇者にしてなかったらこんな国、お好み焼きと区別がつかなくしてるとこよ」

「頼むから僕の職場を粉ものにしないでくれよ」

「まったく、誰のおかげで滅びずにいられると思ってるのかしら。いっそのこと国王と官僚を全員洗脳して――」

「わかった、わかったよ、アンリ、わかった」


 降参だ、とでも言うようにマサキはひらひらと手を振った。


「どうせ言ったって君は聞きやしないんだから。ただし、王都では決して疑われるようなことをしないと約束してくれ。人の姿を解くのはもちろん、どれだけささいな魔法もダメ。そして出征式を見たらすぐに魔界に帰ること。いいね?」

「えー」

「エーじゃない。バレたら言い逃れできないんだぞ」

「お弁当作っていくぐらいはいいでしょ?」

「……おかずは?」

「屍食い鳥とマンドラゴラの絹ごしショゴス和え」

「魔界固有種の怪鳥と魔界原産の根菜を、魔素の濃い極地でのみ取れる流体生物を丁寧に裏ごししたもので和えるのもダメ」

「なんでえ、栄養価は抜群だしなによりとってもおいしいのに」

「味じゃない、産地が問題なんだ」

「国産よ?」

「君にとってはね」


 アンリは一瞬、不機嫌そうに頬をふくらませたが、すぐさま気を取り直した。


「まあいいわ。勇者のタケルちゃんに会えるんだもの、それぐらい我慢してあげる」


 アンリは触手の戒めをようやく解くと、くるりとマサキに背を向けた。


「それじゃあ一週間後、エスコートよろしくね。うふ、楽しみだわ、うふふ!」


 アンリは満面の笑みを浮かべ、上機嫌に触手を振りながら魔界と人間界とを繋ぐ空間の裂け目へとその身を滑らせた。

 音もなく去る妻の姿を見送ったあと、マサキはこの日一番大きなため息をついた。

 彼女のことは誰よりもよく知っているつもりだった。しかし、仮にも魔軍の長たる女がここまで子煩悩になるなどと、伝説の勇者ですら予想はできなかった。


「まったく、なに考えてるんだ、君は」


 すっかり元通りに閉じた空間にむかって、ぼそりと呟いた。

 とはいえマサキにもアンリの興奮が理解できないでもない。なんせ息子が勇者に選ばれたのだ。誰にでもなれるものではない。勇者に選ばれるためには、王都に数十ある育成学校でトップの成績のものだけが受けることのできる試験でさらに上位数名に残り、その後も血筋や家系など厳正な審査を重ね、最終的に近衛大将の推薦のもと、国王に承認されなければならない。言わばエリート中のエリートだ。そんな勇者に息子が選ばれたのだから、冷静でいられるはずがない――。

 そこまで考えたとき、マサキの脳裡にぷかりと一つの疑念が浮かんだ。


 ――果たして、僕の息子がそこまで優秀だっただろうか?

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