第60話 濃霧
高速で動く翅による風圧が辺りの魔物を蹴散らす前に魔物達も主の姿に気がついたらしく、ヘクトビットルとその側に控える上位らしき個体を除いて強風の影響を受けたのは俺たちだけであった。
《ブレイズウェーブ》の直後以来の戦場の空白の中心に4体の竜、いや蠱竜とでもいうべき超重量の塊が降り立つ。
見上げる複眼はその一つ一つがこちらを威圧しているように感じさせる。
そして自分の視界が若干ブレていることで足の震えを自覚する。
恐怖のようなものである。
力の大小を比べれば、間違いなく俺の方が上であろう。
しかし、これだけの魔物を支配できる器にはそれだけでは測れない強さか力か、そういったものがあったのかもしれない。
この世界に初めて来た時、ドラゴンと対峙して感じたのは困惑であった。
その時の俺は自分の状況を全くもって理解しておらず、恐怖というよりは困惑に心が満たされていた。
恐怖以前に、自らがあの状況から生き残る道を探るのに脳の容量を使わざるを得なかったのである。
物語においては陳腐な表現とさえ言える「恐怖する間も無く死ぬ」という状況を、体験しかけていたのかもしれない。
そして今はまあ、あれだ、ちょー怖い。ってかキモい。
遠くから見た時も思ったけど、近くで見ると魔物の血よりも深い緑色の体表は妙にテカってるし、蠢いてるところもある。
虫がいっぱい集まったようなまさに蟲って感じだ。
恐怖とか言ったけど、その根源にあるのは気持ち悪さなのかもしれない。
俺は交渉相手として震える足と引きつりかける表情を抑えて声をかける。
「軍の撤退をお願いしたい」
ヘクトビットルによって情報は伝わっているはずなので簡潔に伝える。
伝達手段は上位の魔物が持つ《テレパシー》というスキルらしい。
知識を持つ、上位の魔物のみが使用できるものらしく、ヘクトビットルの実力ではスキルを持つものとの連絡のみ、その将軍であるドラゴフライは知識を持つ魔物ならば末端まで自らの指揮するほぼ全軍に意思を伝えられ、魔王ともなるとさらに数が増える上に知識のない魔物にさえもある程度の指示が行える
ちなみに人間にも使えるものはいるが、所持者自体多くはないので、せいぜいがヘクトビットル程度のものだそうだ。
「貴様が報告にあった人間か……ほう、我らでは敵わぬ実力であるのは確かなようだ」
ダイヤ形に着陸した彼らの中央前方のドラゴフライが将軍であっていたようだ。
他よりも若干大きいし、位置的にもそうだろうとは思ってたけど、ここで外したらカッコ悪すぎるよね!
それにしても魔素を抑えている俺の実力を一瞬で看破するとはなかなかやるな。
《アイテムボックス》に入ってるだけ?俺の能力で抑えているのだから問題ないのだ!
「……良かろう。いや、撤退させていただきたい。しかし問題が一つあるのではなかろうか?」
問題?俺が何者か、とかどうやって力を手に入れたか、とかそういうノリか?
「我らの撤退は我が決めた以上今すぐにでも開始できる。しかし、双方合意の撤退であるならばできうる範囲で背を向ける我らの安全を保障していただいたい」
あ、そういう話ですか。い、いやまさか自分の質問されたらどうしようなんて自意識過剰な想像はしてませんでしたよ!
ま、まあ彼の言うことも一理あるな!
俺がいることで被害を出したくないから撤退を選ぶというのに、追打ちで被害を被っては向こうとしてはたまったものではないだろうしね!
……どうしよ。一介の高校生に戦場での停戦の仕方なんて分かるわけねーよ。いや、むしろ戦争とか教えるなら学校で停戦の仕方教えろよ!
相手もそういうのは慣れてなさそうだし、戦争とかに慣れてそうな人とか居れば良かったのに……いるじゃん!
「分かった、少し話し合う時間をくれ」
「了承した。結論が出たら伝えて欲しい」
将であるドラゴフライに了承を得てジョーカーズの元へと意見を求めに行く。
「あの、向こうが撤退は構わないが安全を保障しろ、と言われたんですが、どうしますか?」
丸投げ!こういうのは素人が口出すことじゃないよね!
「はっはっは、我らは冒険者。そんなことはわからんぞ!」
「チッ、停戦の仕方くらい一度は調べておけば良かったな。シューヤは冒険者ギルドについてよく知らないようなので教えてやるが、俺たちの義務は『魔物の襲撃から街を守ること』だ。各国の都市に根を張らせてもらってる冒険者はどこかの国の戦争に加担したりはしないんだよ。つまり、俺たちが相手にするのは基本的に言葉も交わせず、わかりあうこともできない存在なんだ。悪いが妙案はない。一緒に考えて欲しい」
「そうですねぇ、魔物使いは使役した魔物にしか意思を伝えられないらしいですしぃ、魔物と停戦交渉なんて想定外ですねぇ。どうしましょうかぁ?」
まずい。向こうの重鎮が目の前にいるのだ。実力差から考えて俺の命に危険はないだろう。しかし、彼らとの交渉に失敗すれば街を余計な危険にさらしてしまう可能性があるのだ。牢に入れられたり大変だったとはいえ、美味しいものも食べさせてもらった街なのだ。
そんな時ふと唸る俺たち4人にドヤ顔を向ける人物がいることに気づく。
「フッフッフ!あたしの出番よね!あたしの《ミストレポート》で停戦ってことをみんなに伝えれば完璧でしょ!」
シェイさんだ。整った顔立ちにはドヤ顔が様になりすぎているのは置いといて、確かに向こうと同時に停戦の連絡をすれば完璧だ!
「しかし、シェイよ。いくら同時に伝えようと目の前にいる敵を咄嗟に見逃すというのは難しいのではないか?」
ドラフさんが難しいところを指摘している。
それは俺にとっては割と意外な光景であるのだが、サッシさんは納得しているようだし、シェイさんも眉間にしわを寄せている。
俺も言われればそう思う。それくらいの犠牲はしょうがないといえばそうなのかもしれないが……
「まあまあ、ドラフさん考えすぎですよぉ。シェイちゃんの《ミストレポート》はぁ、霧を媒介に意思を伝えるんですよぉ。事前に濃霧を発生させるんですから両軍共迂闊には動けないですよぉ。ねぇシェイちゃん?」
「そ、そうよ!私のミストレポートを舐めないでよね!」
「あぁ、それなら問題なさそうだシェイもいけるみたいだし、敵方によろしく伝えてくれシューヤ」
「分かりました。シェイさん、魔法の準備をお願いします」
「オッケーよ」
ミリーさんの言葉で方針は決定した。
取り繕ったようなシェイさんの声は聞き流すのが優しさだろう。
***
「ドラゴフライ!」
「方針は決まったようだな。聞かせていただきたい」
細かい打ち合わせを軽く済ませ、体の向きを変えて巨体の前に進み出る。
「あなたが《テレパシー》で撤退命令を出すと同時にこちらでも非戦闘命令を出す。こちらは霧を発生させてそれによって言葉を届けるから、霧を発生させた後、俺が『停戦!』と叫んだら同時に連絡を行って欲しい」
少し思案したように間が開く。虫の表情を読み取る妙技は身につけていないのでどういった反応か分かりづらい。もしかしたら《テレパシー》を使って話し合っているのかもしれない。
「了承した。貴様らに合わせて撤退を支持しよう」
返事を聞いて安心してしまい、ほっと一息と一言が漏れる。
「ありがとう」
「我らこそ助かる。ありがとう」
将であるドラゴフライに聞こえるとは思わなかったし、まさか返答が来るとは思っていなかったのだが、停戦を選ぶ知能があったことからも彼らはかなり賢く、義を重んじるものなのだろう。
「シェイさん、了承は得られました。霧をお願いします!」
「分かったわ。ふぅ、ーー全てを許容する母なる水よ!全てを包容する暖かな灯よ!大いなる力を持ってこの地を霧幻の郷となし、邪なる眼を断絶し、我らの全てを覆い隠せ!《ミストブラインド・レギオン》」
シェイさんの詠唱が終わると同時にシェイさんを中心として火砕流の如く濃霧が噴き出る。
思わずアニメ風の防御姿勢としてクロスさせた腕で頭部を守ろうとしてしまうが、吹き出ているのはただの細かく、生暖かい水である。
安心して目を開けるとそこは『一寸先は霧』といった様の別世界(もっともここは異世界なのだが)と化している。
「おいぼうず、惚けてる暇はないぞ」
俺が心地よい暖かさの霧に思考を遮られていたのが見えているようなドラフさんの声にハッとして自らの仕事を思い出す。
「停戦!」
「……《ミストレポート》!」
思念の波動が広がる。
……見えないけどね!そんな気がしたんだよ!
絶え間無く続いていた戦闘音は霧によってくぐもった後、騒めきへと変化し、今では霧に吸い込まれてしまったように僅かな音を残すのみである。
周囲を警戒するものたちの息遣いを、息を潜めるものたちの足音を強化された聴覚が捉える。
足音は離れていき、全て見ていたようなタイミングでいつの間にか始まっていたシェイさんの詠唱が終わる。
「……《バニシングミスト》」
生暖かい温風が吹き、湿った体を撫でる。気持ちが悪い。
(助かった。ありがとう人間。)
温風が霧を晴らしていく中、脳内で突然言葉を聞き取り、それが《テレパシー》だと気づく。
湿気の気持ち悪さも、脳に言葉が入り込む不快さも一瞬だけ忘れて念じる。
(お互い様だ。ありがとうドラゴフライ。 )
お互い無駄な犠牲を減らすことができた。俺がその力になれた気がした。
……そして霧が晴れた。
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