チョコレイト中毒
『メルティレインにこの身を捧げる。』
千夜子
甘くて、切なくて、油断したら脳髄から溶かされてしまいそうな毒。
洋酒のキッツいチョコレートボンボン、甘いリンゴ入り、ナッツの苦味。
チェリークリーム、純粋なホワイト、オレンジピールのチョコレートケーキ。
ただこなすばかりの現実から目を逸らす危険な麻薬≪チョコレイト》たち。ロリポップのキャンディやペパーミントロッドだって素敵だけれど、私はもう満足なんてできなくて。
頭の中までどろどろに溶かされそうな、魅惑のブラウン。
私はチョコレート中毒者。白への冒涜、黒への裏切り。
ショーケースにダークな甘さを彩る悪魔に魅入られた。
__________チョコレイト中毒
彼は、ふと私の前に現れた。まるで当たり前だとでもいうように。
空に投げた真っ赤なリンゴが落下するのと同じくらい、私が私であると思うのと同じくらい。
彼は私に何もしない。ただ、チョコレートを食べるのを見ているだけだ。
願い事を叶えてくれたりだとか、魂を奪われかけたりだとか、そういうのも一切ない。
私の何が気に入ったのだろうか、周りの友達には見せない姿を私の前では平気で見せる。山羊の角のピアスを弄りながら、眠そうに欠伸をしながら。
彼の名前を知ったのは随分と後のことだったけれど、これみよがしな見た目のわりにはミスマッチな名前だと思った。
だって彼は全身黒づくめで、怒りっぽい鋭い目をしていて、男体なのにヒールの高い靴を履いていて。紫外線に触れたこともなさそうな土気色の肌をしていた。声は心地の良いテノール、心の隙間に入り込んできそうな甘さ。
メルティレイン。
でもそれは、どこか彼らしい名前にも思えたのだ。
したたる雨の、あの冷たい憂鬱。孤独の恐怖と幽かな諦め。重い鎖に繋がれて、心臓に楔を打ち込まれて。
少し長くて癖のある髪をかき上げる、彼の仕草に見惚れた。
コーヒーと煙草の匂い、悪魔なのに?
彼はたまに私のチョコレートを気まぐれに奪って口に運ぶのだけれど、「甘過ぎやしないか」と言って、ちょっぴり悪魔らしく唇を舐める。
その仕草は少々私には刺激が強かったりする………いや、正直なところ、結構どきっとしてしまう。ずるい。
そんな時、私は純白のホワイトチョコレートを口に放り込んで咀嚼する。吐きそうなほど甘い、痺れるような快感をじっくり味わうために。
すると何故だか彼は、呆れたようにため息を吐くのだ。何か期待でもしていたみたいに。
彼は苦いのが好きだ。
コーヒーはいつもブラックだし、ビターチョコレートは、ぱくりと口に入れて機嫌よく味わっていたりする。
ビターチョコ。濃厚なカカオパウダーがたっぷりかかった、大人の味。甘いのが好きな私が唯一苦手なチョコレート。
私にはいまいち良さがわからない。だって苦いのは嫌いなのだから。
私はビターチョコレートを遠ざけた。ボンボンの箱の隅を陣取っていた、あのダークブラウンにさよなら。
甘いだけがいいわ、こんな人生。蜜だけ舐めて生きていきたい。そんな願望くらい、許されると思わない?
だから私は今日もとびきり甘いチョコレートを口に運ぶ。
香ばしいビスケットを覆うチョコレートの中のキャラメルクリームが口内を犯してく。
それからクランベリーソースのチョコレートプリンを銀のスプーンで掬って、とろけそうな舌に置いて。
甘くて、切なくて。この危険な毒に致死量があるなら、私はもうとっくに息絶えてしまっているだろう。
最近彼を見ていない。もう、六ヵ月にもなるだろうか。
私は変わらずチョコレートを口に運んではみるのだけれど、なんとなく味気なくて手を止めた。
あの細身の背中が見たい。
あの苦いコーヒーの匂いに包まれたい。
ふと思い出して、箱の中からひとつ、そうっとつまみ上げた。つんと尖ったアーモンドが添えられている。
ビターチョコレート。
今日は何故か、無性に食べたくて。
ゆっくりと口に含んだ。ちょっぴり苦くて妖しく甘い、不思議な感覚。
ああ、彼だ___________。
奇妙な納得。彼はまさにこんな風なのだろう。
夕暮れ、開け放した窓の白いカーテンが風に膨らむ。
黒い影は音もなく、私の前に降り立った。
そっと腕をとられ、あっという間に引き寄せられる。
冷たい指とは対照的な熱い吐息、ふわりと漂う彼の匂い。時間が止まってしまったみたい。
そのまま唇を奪われる。
舌先に痺れるような甘さ、今まで食べたどんなチョコレイトより。
糖蜜シロップのような感覚に包まれていく。もう後戻りできないような、ふわりと体が宙に浮かぶような、そんな感覚。
「遅過ぎるね、俺はずっと待っていたのに」
彼はそう言って、にやりと笑った。
メルティレイン。
ビターチョコレイトの悪魔_______________。
少女の名前は千夜子、悪魔らしく六ヵ月後など小さな仕掛けを施したりなんかして。お砂糖よりも甘い文章を書けていたらよいのですけれど。