変化
5時間目を迎える頃になると崇を取り囲む壁も薄らいだ。
だがそれは好奇心を持つ目が無くなった事を意味しない。そして、同時に彼女達は気がついた、重要な事実に気がついてしまったと云うべきだろう。
いくらお嬢様学校と云えど女子のみの花園である。それなりの矜持を保ち続けている生徒もいるが男性の目が無いというのは幾分か緊張感に欠ける世界だった。そこに婚約者が存在するとは云えど男性が入り込んだ。昼休みまでは興味が勝っていたが、それは好奇心によって引き起こされていた一時的な物に過ぎない。
一人の女性とが呟いた一言が切っ掛けだった。「気が抜けませんわね」この一言の持つ意味合いを花の乙女になろうかという少女達は戦慄をもって自覚した。
今日一日、力をぬいて普段のようにボケっとした顔を全くしていない事に気がついてしまった。心なしか化粧室へと行く回数も増えている。昼休み教室に残ってご飯を食べていた者がその違いに気がついた、崇がいた先程までと何かが違うと。立ち振る舞いの微妙な違い、明らかに崇の影響だ。
「あれ、また化粧室?」
「あら、貴女こそ」
などという会話が繰り返される事となる。その波は徐々に広がりを見せ普段と空気の変わった学園となったのは云うまでも無い。その変化に気がついたのは授業を受け持つ教員達だった。授業を真面目に受けるのはこの学校の生徒としては当然の姿勢なので変わった所は無い。だが何かが違うと教員達は感じた。
携帯などを使った行為は持ち込み禁止処分を受ける。よって未だ古風な遣り取りがなされているのだが、そこには女性らしさがみられ、始まった当初は紙切れだったものが、何時の間にか和紙だったりデコレーション豊富な物だったりが使われるようになった。
その手紙の遣り取りが異常に増えているのである。教師が黒板へと向かう間に生徒間を行き来する手紙は重要なコミュニケーションツールだ。それが昼休みになり一斉にメールなどの遣り取りも含めて加速した。勿論話題は天ヶ瀬由紀婚約者出現について。様々な憶測やありえない話まで飛び交った。
中には、崇は御曹司で帰国子女、優秀な頭脳を持ち、アスリート顔負けの運動神経で綾小路とも関係を持つプレイボーイなどという適当な話まで存在した。昨日の美由の膝蹴りを受け止めた話や、今朝の騒動も含めた上に誤解をそのまま適用するといった内容だ。
逆に同じクラスの生徒達から発信される情報は秀才である、丁寧で人柄がいい、婚約は事実、ブラックマンデーは起きないと事実を中心にして根も葉もない抽象的な噂を駆逐していった。彼女達はクラスメイトとして由紀の友人として既に崇を認めたのであった。故に誹謗中傷になりかねない噂を駆逐すべく、ウィルスの侵食を阻むが如き勢いでメール伝達を行った。
教員の女性達も若き日々には同じ遣り取りをした事もあり、突然の転入生でしかも男子であればそれぐらいの反応は当たり前だろうと思った。そして勉強だけでなく淑女を育てるという理念を持つ学校側の教師の立場からすれば彼女達が身だしなみを何時もより気に掛けている事や、走り回る生徒が減っている事は喜ぶべき事だった。
崇のいるクラスではその傾向が一番よく現れていた。何時もより確実にお淑やかな生徒ばかりになっていた。何故一日目からそこまで女生徒に意識させる存在になってしまったのか、それは教員の行動にも原因があった。授業をうけもった教員が、崇の成績がどれぐらいの物であるか知りたいという理由から、今朝から集中砲火ではないかと思える程に質問や設問を与えたのであるが、その全てを的確に返答し回答したので当然の反応とも言える。
婚約者がいようがいまいが転校生は間違いなく素敵な存在だった。親に連れられて、それなりに社交界などで同年代の御曹司などを見る機会もある女生徒が多い。そこに現れた途轍もなく優秀な少年。見た目も悪くなく、喋り方も少々粗野だが爽やか、性格は温厚。反則攻撃だと全員が感じていた。そして由紀といえばこの学園の理事長の孫であり、クラスの誇りでもあった。この学園でヒロインを一人選べと云われれば生徒会長と二分する人気を誇るのだ。張り合う事なんて最初から考えるのも馬鹿らしい相手。唐突に決まった男子生徒も由紀の恩人とわかれば素直に受け止めてしまったし、いっそ婚約者ならば祝福してしまえとなったのだ。
そして5時間目の授業が始まったのだが、ここでも崇の才能は周囲を驚かす。
特別授業として護身術の授業があるのだが、稽古に登場した相手を見事に捌いてしまった。
基本的に全員がボディガードが付く様な生徒ばかりである。授業の方針は基本的に防御方法の説明と教授、女性師範もその心算で崇に全力で掛かってきなさいと伝えた。
崇としては全力は出さなかったのだ、全力とは相手を打ち倒す行為。そしてまさか教員との組み手とは言えど攻撃を本気で仕掛ける事などあり得ない選択肢だ。そして大きな勘違いが存在した。崇は無力化すればいいのだなと解釈した。
教員は襲い掛かる人間に対処する方法を見せようとし、崇は護衛手段として相手を無力化する事を選んだのだ。
音も無く一瞬で間合いを詰めた崇の行動に慌てた教員は手首を取って捻ろうとした。だがそれよりも崇が懐に潜り込む速度が速かった為に姿勢が崩れてしまう。前に重心がと思った瞬間には袖口を掴まれていた、引き込まれて居た事に気が付き師範は反射的に体を元の姿勢へと戻そうと動いてしまった。
その動きを待っていた崇は袖口を離して体を捻ると同時に手首を掴んで体の動きで手首を起点にして捻り飛ばした。
表技として教えられた投げである、逆手に持ちながら反対に体を捻れば相手の肘を破壊する裏技となると教えられている。全員が唖然とする中で由紀だけがその結果を当然だと見つめていた。
投げ飛ばされたというよりは自分の力で投げ飛んでしまった上に、関節まできちんと押さえ込まれた師範は驚きの余りに声も出せなかった。そして崇が押さえ込みを解いてくれたと同時に自分より強い少年を教える事が出来ないと悟ってしまった。寧ろ自分を鍛えてくれる相手に出会ったと目を輝かせたのだった。
(おい何だあれは、あんな事まで出来るのか)
(近所のお兄さんに小さな頃から習ってましたからね)
(本当に普通じゃないな)
(崇君の時でも天才といっていいほどの才能と努力を続けてますからね、当然ですよ)
鈴音としては夜の崇も昼の崇も大好きなのだから当然の受け答えだ。
先程までは由紀の守護霊を努める天女や綾小路美月の守護霊の白雪と会議と云う名の雑談会を開いていたのだ。しかし崇の活躍する場を逃す事が出来ないので続きはまた後日と切り上げて道場へとやってきた。
既に有益な情報は得たのであるが天ヶ瀬家の祖先の話を聞いた瞬間に全員が驚いた。岩永姫の子孫だと云うのである。云わば神の子孫となるのだが中々に興味深い話だった、そして偶然にもこれだけの守護霊がいることについても話は及んだ。
何より重要な情報は綾小路美月を襲った花瓶についての話で、守護霊から見てもあの花瓶の落下は人の仕業では無いだろうと結論に達したのである。全員に守護霊がついている訳でもないし、守護霊といえど力の弱い者も存在する為に聞き取り調査などは行えない。鈴音達は可能な限りの守護霊と接触し情報を集めていた。
いざともなれば耳元で囁く事で霊感の強い崇のような人間になら教える事も可能だ。問題は崇の中の人物まで眠りから覚ます事の危険性であるが、もしもの場合の危険性もある為に事故などが起こる際などは鈴音はこれまで幾度か虫の知らせとして告げてきた。崇本人の危険に対する守護霊の行為であるから流石にそのような場合に怒られる事は無い。関係の無い事で語りかけた場合は深夜に説教をされた事はあるので、無駄に語りかける事はしない。
空弧は語り掛けれると知ったと同時にその話を聞いて冷や汗を流した。深夜の話の事を聞いていなければ即座にも耳元で語ろうと考えたからだ。
結局のところ花瓶の件については詳しくは判らない、だが白雪の話では頭の上に浮かぶ禍が現れたのは最近の事らしい。祓ってもしつこく付き纏うし、日に日に大きくなっていたと云う。
また会議をしようという事で授業のチャイムと共に守護霊の会議も終わったのであった。
そして崇は一時間かけて、何故か教員と組み手を続ける破目になり疲れて道場を後にした。
道場には満足した笑顔で崇を見送る師範だけが残っていたが、崇が礼と共に道場を後にするとその場に大の字で倒れこんでいた。