Lack-Emotion 【欠落】【感情】
Lack-Emotion 【欠落】【感情】
人間が機甲虫と名称付けた機械交じりの昆虫。
女王を中心とした社会を形成する彼らの生態は蜂や蟻に類似しており、その行動は限られた刺激に対し限られた反応を示す、本能的な行動がほとんどである。
蜂がそうであるように機甲虫もまた、ほとんど全ての行動(習性)を行うために特別なフェロモンが用いられている。その用途は警戒、防御、巣穴の作成、交尾など多岐に渡り、種の存続のために必要不可欠な要素となっている。
身体の大半に機械を取り入れ、電波信号によるコミュニケーションが主流になった今もそれは変わらない。結局は、フェロモンの伝達手段が匂いから電波に切り替わっただけなのだ。
警戒‐最上位
接近‐外敵‐変異種
先行していた個体から送られてきたフェロモンを受信し、その機甲虫は周囲の個体全てに情報を伝達する。
変異種というのは、とある個体を表すために設定された特別な単語だ。
成体したばかりなのか、その種の別個体に比べて遥かに小型。にも関らず別個体とは比べ物にならぬほどの危険性を秘めたそれは、方舟を餌場にする機甲虫にとって最大の脅威となっていた。
Sphere-Protection
その機甲虫が全身を【球体】【障壁】で包み込んだのは、先行していた個体から発せられていた電波が途絶えたからだ。
救援‐接近‐変異しュ……。
救援を促すフェロモンが機甲虫の別個体に届けられることはなかった。電波を飛ばすよりも先に障壁が砕かれ、頭部に光の刃が突き刺さったからだ。
「これで二つ目。検索に引っ掛かったのは四匹だから、残りは二匹か」
Lightning
直後、光の刃から【雷】が解き放たれる。電流が機甲虫の体内を駆け巡り、ばちりとショート音が鳴り響いた。
『レム、あまり時間をかけると周辺の虫が集まってくる危険がある。手早く片をつけろ』
「了解しましたリーゼさん。すぐに終わらせます」
真っ黒な法衣がふわりと踊り、頭部を貫かれた機甲虫とは別の場所で爆発が巻き起こる。
「あと一つ」
光の刃を携えた漆黒。爆音と硝煙を撒き散らしながら、変異種と呼ばれる黒い影が視界の片隅を通り過ぎる。
頭部を貫かれた機甲虫が爆発に飲み込まれたのは、その数秒後の出来事であった。
『魔導師レム・リストールからブリッジへ入電。周辺区域の機甲虫の殲滅が完了しました』
「了解した。それではレム、貴様は方舟の南西から南東にかけてを哨戒。残党や別働隊の姿が確認された場合、速やかにそれを殲滅するように」
『わかりました。引き続き、哨戒任務に以降します』
空に浮かぶ巨大な飛翔艦‐方舟のブリッジに勤めるクルーたちは、レムからの報告を受けて緊張の糸が途切れたのだろう。誰からということもなく、みな、ほっとした様子で胸を撫で下ろしていた。
「今日だけで四度目の襲撃か。この辺りで攻撃の手を休めてくれるとありがたいのだが」
艦長帽に手をかけながら口にしたプロイア・リヴァルの声には、明らかに疲れの色が見え始めていた。
「おかしなことをおっしゃる。方舟後方から飛来する機甲虫はレムが単独で退けているのですから、戦力は十分に温存出来ているではありませんか」
術式を通して行っていたレムとの通信を終えると、魔導師の総司令たる女性、リーゼ・リストールはそんな風にプロイアに意見する。
「それが問題なのだよ。三日前に女王個体を回収して以来続く連日の襲撃。レムの疲労はすでにピークに達しているだろう。私は、あの子を少し休ませてあげるべきと思うが」
「レムの代わりを務められる魔導師など存在しません。あの子を下げれば、その穴を埋めるためにどれだけの戦力が必要になるか。それに以前に述べたとおり、虫の攻勢は近いうちに本格的なものに変わります。そのときになって魔導師の不足を嘆いても遅いのです。だからこそ、レムに無理をさせているのではありませんか」
「……ふむ」
「何か?」
プロイアの視線に不審なものを感じ、リーゼは、少しだけ首を横に捻る。
「いや、何でもない。ただ安心しただけだよ。一応、無理をさせている自覚はあったのだなと」
「……現在襲いかかってきているのは、先日捕獲した女王を親とする固体です」
何も聞こえていないという風を装いながら、リーゼはゆっくりとした口調で艦長に現状を伝えていく。
「女王が放つフェロモンの残り香、あるいは完全構築に従い、艦に引き寄せられているのでしょう」
「完全構築?」
「ええ、機甲虫の女王のみが持つ構築式。生命の危機に瀕した時などに用いられ、これによって組み立てられた術式は、機甲虫の本能そのものに刺激を与える効力を持っています。言うなれば、対象を自らの制御下に置くということです。完全構築で何を命じたかはわかりませんが、状況から察するに自らの防衛。あるいは、それに通ずるものでしょう」
「それは、我々が回収した女王自体が囮だったということですか?」
口を挟んできたのは、それまでずっとメインモニターを眺め続けていたオペレーターの青年であった。
「もしそうなら、今すぐに方舟から女王を放り投げてしまえば」
「手遅れだな」
青年の提案を、リーゼは全面否定する。
「女王の下に駆けつけようと、死骸から新たなフェロモンが発せられることはない。そうなれば奴らは本能に従い、飢えを凌ぐために方舟に襲い掛かってくるだろう。どのみち襲撃を免れないなら、女王探索のために集まってきている今のほうが、まだ被害を小さく抑え込むことが出来る」
「それなら、そもそも女王個体を回収しなければよかったのでは? 女王のフェロモンがなければ、易々(やすやす)と方舟の位置を把握されることはなかったと思いますが」
「そういうわけにもいかんよ。虫の攻勢が本格化する前に、戦力は可能な限り削ぎ落とす必要がある」
「あの、先ほども仰っていましたが、虫の攻勢が本格化するというのはどうゆう意味なのです? 今までとは違うと?」
「最悪、艦が沈んでもおかしくないということだ」
「えっ?」
リーゼが漏らした言葉。それが飛び火し、ブリッジクルー全員がざわめき出してしまう。
「リゼ、不安を増長させるような発言は控えるように」
「そうですね。確かに、失言でありました」
そう言って、リーゼは口を閉ざす。それでも、ブリッジ全体に飛び火した炎が弱まるわけではない。
「なんだかわからないですけど、とりあえず、艦長の言うとおりレムを休ませた方がいいんじゃないですか?」
鎮火作業を行ったのは映像解析を仕事とする女性、シャルル・フリージアであった。
「リーゼさんの言うとおり虫の攻勢が本格化するなら、それこそレムの力が必要不可欠じゃないですか。今無理をさせて肝心な時に戦えないじゃ本末転倒――」
「それで、誰がレムの穴を埋めると言うのだ?」
「あ、えーっとそれは……わ、わたしがやるって言うのは駄目ですか?」
「…………」
「…………」
シャルルの声が一際大きくブリッジに響き渡り、ひゅーっと冷たい風が吹く。
「脳が、腐り落ちたか?」
言葉のナイフ。というより鉄杭を、リーゼは容赦なくシャルルに打ち付ける。
「うぐっ、ひ、ひどすぎる。でも、これ以上レムに無理をさせないでください。でないともしもってことも……」
Lance
「もしもとは何だ?」
「えっ、あの――」
鋼鉄と光の刃によって形成された魔導の【槍】。
光によって形成された切っ先をシャルルに突きつけ、リーゼは問いかける。
「言葉を濁すな。答えろ」
「そ、それは……」
「答えろ。それとも、何もないのか?」
「レ、レムが死ぬかもしれないってことに決まってるじゃないですか」
槍を突きつけられ、身体をぶるりと震わせ、それでもシャルルは屈しなかった。
「リーゼさんだってそれぐらいはわかっているはずでしょう。なのに、どうしてレムに無茶なことを強要させるんですか!」
「貴様の常識に物事を当てはめるな。わずか三,四匹の虫を相手に、レムが遅れを取ることなど有りはしない」
「どうしてそう言いきれるんですか!」
「なに?」
リーゼからレムに向けられる絶対の、狂気的とも思える信頼。
それは誰しもが不思議に思いながら、ひたすらに飲み込み続けてきた疑問であった。
シャルルが放った言葉を聞いて、ブリッジクルーたちは静かに息を飲む。
「どんなに強くても、絶対に大丈夫とは言い切れないじゃないですか。だからレムのお父さん、シオンさんだって……」
「あの子はシオンとは違う。あの子には、シオンが抱いていたものが欠落している」
「欠落?」
「そうだ。あるものが欠落しているがゆえあの子が虫に、いや、あらゆる物事に対して遅れを取ることはない」
「シャルル。いや……この際、この場にいる全員に言っておこう」
ブリッジ全体。そしてプロイアに視線を送り、リーゼは言葉を続ける。
「あの子の欠落を埋めようなどとは思うな。でなければ……落とすぞ」
殺すではなく落とす。
リーゼが手にする魔導機杖の切っ先はすでにシャルルに、人に向けられてなどいなかった。
張り詰めた空気が冷気を纏い、ブリッジ全体に、凍りついた静寂が訪れる。
「あ、あの子は……必要としていますよ」
その最中。震える心を無理やりに抑えつけ、シャルルは一石を投じようとする。
振り絞るように声を捻りだす。
「リーゼさんはレムの欠落を埋める必要はないと言いました。でもレム自身はそのせいで、理由を見いだせないせいで苦しんでいるんですよ。今は理由を見つめるためって言葉で納得してくれていますけど、それだって何時まで持つか。だいたい、卑怯じゃないですか!」
「卑怯?」
「じ、自分のことを棚に上げておきながら、レムには無茶な理屈を強制させていることがです! レムは機械じゃありません。リーゼさんと同じごく普通の、心を持った人間なんですよ。それなのに――」
「私と同じ、心を持つ人間? くっ、あはははははははははは」
その瞬間、精神に異常をきたしたように、狂ったようにリーゼは大声で笑いだす。
その声はどこか狂喜を含んでいて、シャルルは思わず後ずさりしてしまう。
「ははははははははははっ。はっ、そうだな」
やがて、リーゼの笑い声が突然に止まる。そうだそうだ、その通りだと言葉を繰り返し、
「シャルル。貴様の言うことにも一理ある」
平常を取り戻したのだろう。魔導機杖を杖の形状に戻すと、リーゼは立ち尽くしたままでいたシャルルに視線を戻す。
「確かに虫の攻勢が本格化した際、レムの力は必要不可欠だ。明日は出撃を控えさせ、別の任務に就かせるとしよう。だがなシャルル、なんと言われようと私の考えは変わらんよ。レムには理由も心も必要ない。あの子に理由が生まれれば、私がそれを打ち砕く。だから、私のこの手を汚させるようなことはしないでくれよ。ああ、それから」
そう前置きをして、リーゼはシャルルに一言だけ耳打ちをする。
「えっ?」
「では艦長。調べものがあるので私はこれで失礼します。また、何か異常があれば報せてください」
それだけを言い残すと、リーゼはそのまま、ブリッジを後にする。
言葉を聞いたシャルルが動けなかったのは、言葉の意味が理解出来なかったからだ。
それでも、リーゼは確かに言ったのだ。
「ありがとう」と。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
リーゼと共に大農園へ視察に向かう。
レムに命令変更の報せが送られたのは、それから一時間後の出来事であった。
翌日。
「おかあさん。はやくはやく」
居住区のG地区。飛翔艦‐方舟の左翼側に広がる巨大な樹林帯は、家畜の育成から果物。野菜の栽培まで、人が生きる上で必要不可欠な食料生産を一手に担う重要な区域である。
そんな区域の入り口で、ミュウは元気よく母親を呼びながら腕を振り続けていた。
数日前に見せていた風邪のような症状はすっかり回復していて、これ以上ないくらい元気に駆け回っている。
「はいはい。今行くから、少し落ち着きなさいって」
樹林帯に入るからだろう。二人は共に厚手のジーンズを着込んでおり、シエルが持ち歩くバックからは軍手。それと魔導機杖が顔を覗かせている。
「もう、来ないなら先に行くからね」
シエルの歩き方がゆっくりしているのが不満だったのか、ぷぅーっと頬を膨らませ、ミュウは一人樹林帯の入り口、果物や野菜の実る大農園へと走り出す。
「こんにちはー」
「ああ、いらっしゃい。話は聞いているから、適当にその辺を見て回るといいよ。ただ蜂の巣箱を刺激したり、果物を勝手にとるような真似はしないようにね」
「はーい」
「あの子は?」
大農園の一角。ミツバチの養殖を行なうための巣箱が大量に設置されたその場所で、リーゼは近くを通り過ぎていった女の子のことを農園の経営主に問いかける。
「居住区最南の店の娘さんですよ。数日前、次の休日に娘と一緒に野菜や果物の買い付けに来ると言っていましたから、それでお越しになったのでしょう」
「なるほど。意外に、民間の者も足を運ぶのだな」
「ええ、緑の溢れた区域はこの辺りだけですからね。物珍しいせいか、見学に訪れる人が多いんです。次期によっては、子供を自然に触れさせるための体験ツアーを組んだりもしています」
「物珍しさか。確かに、これほど広大な自然を見るのは方舟の外でも非常に稀だな」
太古の時代には世界が緑に満ち溢れていた時期もあったらしいが、機甲虫に地表を支配された今となっては、枯れていない植物を見つけ出すのも難しい。
どこまでもどこまでも、干乾びた荒野が広がるだけなのだ。
(レムが調査を行っている場所への立ち入りは禁止されている。であれば、放っておいても問題はないか)
「まあ娘のことなどどうでもいい。巣箱の中は……厚板が敷き詰められているな」
と、リーゼはすれ違った少女を忘れることにする。
「はい。この厚板は巣礎と呼ばれていて、壁面には密猟を用いた厚紙の土台が張られています。土台にはあらかじめ六角形の型が刻まれているので、ミツバチが巣を作る足がかりに適しているというわけです」
「なるほど。蜂の巣穴というのは、どれも似たようなものなのか?」
「種類によって巣の構造も様々と方舟のデータベースには記されていましたが、なにぶん、現存しているのはこの種だけなので確かなことは……。ただ、どの種も共通して巣の最奥に女王の寝室、王台を作っていたそうです」
「なるほど。女王は巣の最奥か」
機甲虫との交戦、女王個体の発見から四日後。
魔導師の総司令たる女性、リーゼ・リストールは養蜂場へ視察に訪れていた。
女王個体という希少なサンプルが発見されたこの時期にリーゼが視察を行うのは、機甲虫と蜂の生態系が非常に似通っているからだ。
蜂の生態を探ることで機甲虫の情報を掴む。というのが、リーゼがプロイアに報告した視察理由の建前である。
「一つ尋ねるが、女王が何らかの原因によって死亡した場合はどうなる。巣そのものの機能が失われるのか?」
「女王が死亡した場合、生後三日目までの若い幼虫を数匹探しだし、王乳を与えます。新たな女王のために王台が新設され、それにより女王不在という一大事が解決されるわけです」
「女王が成長を遂げるまでは、どのようにして急場を凌ぐ」
「女王が成長を遂げるまで? ミツバチは生後二週間~三週間ほどで成体になるのでそのような心配はありませんが、そうですね……女王が死に、巣の中に若い幼虫がいないときは、抑制された働きバチの卵巣が目覚めだし、やがて産卵出来るようになって急場をしのぐと言われています」
「……それは、用意周到なことだな」
「はは、まあ確かに。この世は弱肉強食、食物連鎖のピラミッドによって成り立っていますからね。ミツバチはピラミッドの下位に位置していますから、生き延びるために必死なんですよ」
「生き延びるために必死……その意味では、人も虫も大して変わらんな」
そう言って、リーゼは自分の胸元に手の平を押し当てる。
「あの、いかがなさいましたか?」
「いや、何でもない。それよりもこのミツバチという種、騎士が不在の場合はどのようにしてその穴を埋めている」
「騎士?」
「む、いないのか? 蜂という種族は機甲虫に類似していると聞いていたのだが」
「種としての役割を言っているのでしたら、騎士というのは聞いたことがありませんね。女王と働きバチ、そして少数の雄バチ。蜂の社会はその三種によって形成されていますので。機甲虫はそうではないのですか?」
「いや、基本的な役割は変わらんよ。女王と雄虫、働きバチと同じ役割を持つ兵隊。この三種に騎士を加えたものが、機甲虫が形成する社会となっている」
「なるほど、確かに似ていますね。それで騎士というのは?」
「外敵の排除及び女王の守護の役割を持つもののことだ。一つの巣に女王が一匹しか存在しないように、騎士も存在できるのは一つだけ。女王の次に重要な種であり、純潔の血を汚さぬように、純正の力を失わぬように、特別に栄養価の高い餌のみを口にする」
「はあ、お詳しいのですね。やはり機甲虫と戦うとなると、相手の生態系を熟知していなければならないのでしょうか?」
「そういうことだな。機甲虫、並びに騎士という種の生態、調べておくに越したことはないだろう」
細長い指先を見つめ、リーゼはぱきり、と指を掻き鳴らす。
穢れのない澄んだ音が奏でられ、ミツバチの羽音がそれをかき消してしまう。
「ところでお連れになられていたお子さん、農園の奥に行ってしまわれましたがよろしかったのですか?」
農園の経営主に尋ねられ、別に構いはしない。と、リーゼは指を折り曲げながら返事をする。
「あの子には植物の調査、観察を命じている。蜂の生態調査は私一人で十分なのだから、私のそばで無駄な時間を過ごさせるより、別の任務に就かせた方が有意義であろう?」
Search
樹木‐林檎 健康状態‐良好
「よし、問題なし」
ミツバチの巣箱の手前でリーゼが農園の経営主と話し込んでいた頃。レムは一人農園の奥に足を運び、赤い印のつけられた樹木に【検索】の術式を掛けて回っていた。
Record
術式が導き出した調査結果を魔導機杖内部に【記録】し、レムは次の樹木に魔導機杖を傾ける。と、
「……?」
少し離れた場所にあったフェンスががしゃがしゃと騒がしくなって、どすん、と何かが地面に落ちる音が響く。
「いたたたたたっ。お尻ぶつけちゃった」
「……誰?」
Sword
少女のものらしき声が聞こえたと同時。レムは魔導機杖を【剣】に形状変化させ、刃の切っ先を突然の来訪者に傾ける。
「えっ、う、嘘。いきなり見つかっちゃったの!? ご、ごめんなさい。ほんの出来心だったんです。関係者以外立ち入り禁止なんて書いてあったから、つい冒険心がくすぐられちゃって」
つい、で済ませるにはあまりにも無茶な言い分。
ぺこりと下げた頭に合わせて金色の髪がはらりと揺れて、その仕草が、その髪色が、レムのなかの記憶を刺激する。
懐かしい匂いと懐かしい声。
「ひょっとして、ミュウ?」
「えっ、どうしてわたしの名前……レム!」
一瞬驚いた表情を見せた後、突然の来訪者‐ミュウは瞳を金色に輝かせ、嬉しそうな声を上げる。
「レムだ。やっぱりレム! ねえねえねえ、なんでレムがこんな場所にいるの?」
「なんでって、仕事だから」
見知った顔ということで安心したのだろう。とりあえず怪しいものではない。レムはそう判断を下し、魔導機杖を杖の形状に戻す。
「仕事? ひょっとして、レムってこの農園に住んでるの?」
「まあ、そんなところ」
嘘をつくことに抵抗がなかったわけではない。でも、それ以上にミュウには自分が魔導師だと知られたくなかった。
それが何故かはわからないけど気持ちだけは本当で、だからレムはミュウの話に合わせることにする。
「そっかそっか。あれ、でも前にW地区に来た時は機械部品のお店を探してたよね」
「農園にだって機械の一つや二つは取り入れてあるよ。それじゃ、悪いけどミュウは向こうに戻ってて。ここは関係者以外立ち入り禁止なんだから」
「大丈夫! わたし、レムの関係者だもん」
「…………」
「うっ、そ、そんな冷めた目で見ないでよ。ちょっと言ってみただけなのに」
いじけた表情を見せながら、ミュウはその場で身体を縮ませてしまう。
相変わらずころころ表情が変わって面白いな。と、レムは少しだけ笑みを浮かべた後、樹木の調査を再開する。
Search
「これも異常なし、と」
【検索】の術式が導き出した調査結果。それに目を通し、
Record
レムはその内容を魔導機杖内部に【記録】する。
「ねえレム。それって、なにをやってるの?」
「何って、植物と土壌の調査だよ。成長度合いを確認して、感染症にかかってないかを調べるんだ」
「感染? 風邪を引いてないかチェックしてるってこと?」
「風邪に限定してるわけじゃないけど、概ねそんな感じだね。感染症って病気は放置したままでいるとどんどん伝染していくんだ。土壌の栄養不足が原因の場合もあれば、いずれかの木、あるいは突然変異で生まれたウイルスが原因ってこともある」
「そっか。方舟の野菜や果物って、みんなこの農園で作ってるんだもんね。もし病気を放っておいたりしたら、食べ物がみんな駄目になっちゃうんだ」
「食べ物に限った話じゃないよ。例えば麻疹や結核って病気は空気感染。つまり空気中に飛散した病原体を酸素と一緒に取り込むことで、病気として発病しちゃうでしょ」
「えっ、そ、そうなんだ」
「……まあいいや」
前提の話すら通じず、レムは、少しだけ首を捻ってしまう。
「とにかく仮に感染率の高い病気を動物や植物が持っていたとして、それが人間に感染する病気だった場合困るんだ。いくら方舟が大きいと言っても密閉された空間には違いないから、最悪、ほんの数日のあいだに物凄い被害を起こす可能性だってある」
「よ、よくわかんないけど、レムがやってるのはものすごく大事な仕事ってこと?」
「別に、この仕事だけが特別なわけじゃないよ。父親に負けないくらい美味しい料理を作るっていうミュウの目標だって、十分大切だろうし。ほら、前にも言ったよね。何も食べずに生きていくことなんて出来ないって。大事なのはみんな同じで、違うのはそれがわかりやすいかわかりにくいかってだけだよ」
何だか取り繕ってるみたいだな。
レムがそんな思いを抱いたのは、自分が発した言葉が現実味を帯びていないように思えたからだ。
レムにとって大事なのはリーゼから下される命令のみで、他には何もない。
仮にリーゼからの『命令』がわかりやすい方の大事だったとして、わかりにくくとも大事なものなんて、そんなものが本当にあるのだろうか。
「かっ、かっこいい!」
物思いにふけっていたレムを現実に引き戻したのは、ミュウが突然発した大きな声であった。
「ねえレム。わ、わたしもお手伝いしたいんだけどいいかな!」
「いや、別にいいよ。一人でも十分こなせるから」
「そ、そんなこと言わないでおねがいっ。どうしても駄目だって言うなら……レ、レムのそばにいるだけでいいから」
俯いて、顔をこれ以上ないくらい真っ赤に染めながらミュウは言う。
それが今の彼女に出来る精一杯だったのだろう。自分の気持ちを伝えるための、精一杯。
「そばにいるだけでいいって、それだと退屈じゃないの? まあ、邪魔をしないって言うなら構わないけど」
「……にぶちん」
わざとやっているようにすら思えるレムの反応に、ミュウはぶすっとした様子で小言を漏らす。
「ん、何か言った?」
「べーーっ、なんにも言ってないよ!」
あっかんべーっと舌を出して、ミュウはぷいっと明後日の方向に首を捻る。
「ひょっとして、怒ってる?」
「怒ってなーーい!」
そう言って、ミュウはどんっ、と勢いよく地面を踏みしめる。
どう見ても怒っているようにしか見えないうえに、なぜ怒っているかすらわからない。
「……?」
レムに出来ることは地団駄を踏むミュウの前で、いっぱいの?を頭に浮かべることだけだった。
赤や黄色。色とりどりの花が咲き乱れるなかで香る、花の蜜の甘い匂い。
蜜の香りに誘われて集まってきたミツバチたちの羽音に耳を傾けながら、リーゼは一人、歩道に取り付けられたベンチに腰を下ろしていた。
農園の経営主と別れたのは、もう二十分以上も前の出来事だ。
まだ完全に視察を終えたわけではないが、リーゼにはこの時間、この場所で会わなければならない人がいた。
正確には十五分前に、なのだが。
かちかちかちと秒針を刻んでいく時計。その針には一寸の狂いもなく、精密に、確実に時間を前に進めていく。
「あと五秒」
空を見上げると、人工の太陽が朝の陽射しを輝かせていた。
「四、三、二、一、」
リーゼがカウントを終えた瞬間、太陽が輝きを増し始める。艦内時計の設定が朝から昼に切り替わり、陽の光が強まったのだろう。
陽光の関係で日陰になっていた場所に、明るみが差し込んでくる。
「艦内時計に狂いはなしか」
朝から昼に時間が切り替わっても、秒針を刻む針の動きは止まらない。耳鳴りのように頭に残り続けている。
「……嫌な音だ」
リーゼは静かな場所が嫌いだった。何の物音も声もしない場所では、嫌が応でも針の音が聞こえてきてしまうからだ。
時を刻む針の音に、聞きなれた足音が混じる。
「九四五秒の遅刻。本来なら厳罰対象だが、どう言い訳をするつもりか? シエル・アシュホード」
居住区最南で料理店を経営する女性。今ではすっかり疎遠になった旧友を試すかのように、リーゼは、表情を変えることなく問いかける。
「予想以上に樹林帯への道がきつかったのよ。それに子供が先に行っちゃって、それを探していたから……と言っても、実はまだ見つかってないの。それで、」
「私に探してくれと」
「ええ。久しぶりに会ったばかりで申し訳ないのだけど、お願いしてもいいかしら」
頭を下げてくるシエルのことを、リーゼは無言のまま観察する。
「心拍数、体温、二酸化酸素の排出量。なるほど、どれも正常な値よりも若干数値が上昇している。嘘というわけではなさそうだ」
「失礼ね。貴方の前で嘘をつくわけないじゃない」
「無意味だからか?」
「……っ。そうよ、貴方に嘘は通用しないから」
その言葉自体が嘘であることは明白。サーモグラフィを通して熱量変化を計測しなくとも、様子を見ているだけで容易く嘘と見抜くことが出来る。
けれど、それに対してリーゼは深い追求をしなかった。
「まあいい。貴様の必死さに免じて、周囲を探ってみるとしよう」
Search
魔導機杖を用いることなく、リーゼは生身の身体だけで【検索】の術式を呼び起こす。
両方の瞳を閉じ、周囲の検索に神経を注ぎ始めて数秒後。
「熱源反応あり。南方、百五十メートルほど移動した先だな。子供らしき反応が二つ集中しているから、いずれかがそうなのだろう」
「わかった。後で探しに行ってみるわ。ありがとう、リゼ。ところで身体の方は」
「身体? 見てわかるだろう。いたって健康、寸分の狂いすらないよ」
「それは……何も変わっていないということ?」
「いや、むしろ性能は向上している。不純物を一切取り入れることなく、純潔の血、純正の力のみを取り入れているのだからな。おかげで、この身体は痛みも感じなければ睡眠すら必要としない。女王を守護する騎士に、休息など必要ないのだろう」
適合者と呼ばれる素体を元に製造される特異な機甲虫。
外見はそのままに、体内の九割近くに機械処理を施すことで完成する戦闘兵器。
それが騎士と呼ばれる、機甲虫の社会を形成する四種のうちの一つである。
「とはいえ仕えるべき虫の姫は十年以上前にシオンに破壊されているし、私を弄った女王もまた、数日前に死骸となって発見された。ここまで役に立たないとなると、騎士としては落第点だろうな」
「止めなさいよリゼ。そんな機甲虫の仲間みたいな言い方をしていたら、貴方を救ってくれたシオンが報われないわ」
「報われない? 私を見捨てておきながら、ずいぶん綺麗な言葉を吐くのだな」
吐き捨てるようにリーゼが口にした言葉。それを受けて、シエルはびくりと身体をこわばらせる。
「ふふ、冗談だ。今更過ぎたことを咎めるつもりはない。それに方舟の者を救うために少々の犠牲が出るのはやむをえんよ。わずかの犠牲と引き換えに全てを救うことが出来るなら、これほど旨い話はない」
機甲虫にとって、適合者の確保は最優先の事項である。生まれてまもない女王の力は弱く、満足に術式を扱うことすら出来ない。
それゆえ、女王を守護する騎士の存在が必要不可欠なのである。
「女王が無事ならば兵隊など幾らでも用意することが出来る。だからこそ適合者確保の際、虫どもは自らの犠牲をいとわない」
かちり、と体内時計が耳障りな音を鳴らす。秒針と分針が同時に針を進める瞬間。この一瞬こそが、リーゼにとって何よりも疎ましさを感じる瞬間であった。
「……奴らの社会は女王を頂点とした絶対王政のようなものだ。それを考慮した場合、あの時の艦長の判断とそれに従った貴様の行動。それらは共に適切なものであった。おかしいのはむしろシオンの方だ。だから無駄に命を落とす」
十三年前。艦長の非情な決定に異を唱えた魔導師がいた。
機甲虫を追跡し、連れ去られた適合者を助けようとした魔導師がいた。
けれど、その魔導師は二度と帰ってこなかった。帰ってきたのは一人だけ。最愛の人を目の前で失い、身体を弄られきった適合者の成れの果て。それだけであった。
「シオンは、あいつは最初から報われてなどいない。全てを投げ捨て、失い、それでも守ろうとした女がこのザマだ。命というものは、どうやら平等には出来ていないらしい」
機械処理を施されたリーゼの肉体には精密な時計が埋め込まれ、魔導機杖を用いずとも術式を呼び起こせるよう、特別な器官が組み込まれた。
「脳改造だけは免れたものの、おおよそ、人とは程遠い存在に成り果ててしまっている。シオンが守ってくれた心も、この十数年ですっかり抜け落ちて(欠落して)しまった」
飢えも乾きも感じることはなく、睡眠という現実逃避の行動も許されない。
リーゼに残されたのは機械仕掛けの肉体と、たった一人のシオンの忘れ形見のみ。
…………。
長い沈黙が訪れたのは、それからまもなくのことであった。
辺りが静まり返り、かちかちかち、と耳障りな音が鳴り響く。むろん、音が響くのはリーゼの頭のなかでだけだ。
「リゼ、少し前に貴方の子供、レム君に出会ったわ」
沈黙した空気に耐えられなくなったのは、シエルの方が先であった。
「目元がシオンにそっくりで、どことなくあなたに似た雰囲気を漂わせていた。もっとも、親子である以上似ているのは当然なのだけど」
「それで?」
「あの子は、体内にマナを取り入れる力を有していなかったわ」
「……? そんなことは言われなくとも把握している。騎士という純然たる存在から産み落とされたにも関わらず、あの子には機械的な処理が何一つ施されていない。シオンや戦闘兵器の血を宿しているおかげで術式の扱いに関しては常軌を逸しているが、逆を言えばそれだけだ」
「騎士というのは単なる称号にすぎないでしょう。レム・リストールが生身の人間として生まれたのは、シオン・リストールとリーゼ・リストールという二人の人間の間に生まれた子供だからではないの?」
機甲虫に連れ去られた適合者。当時、その体内には一つの命が宿っていた。
その命‐レムが大きな異常を抱えることもなく生まれてきたのは、まさしく奇跡と言う他ないだろう。
「その慰めは私を思ってか? それとも私を慰めることで、自らの罪を和らげるためか?」
シエル・アシュホード。
彼女がそれを知らなかったわけではない。全ての事情を知った上で親友と方舟を天秤にかけ、そして……切り捨てた。
「まあいい。貴様に何を言おうと、今更何が変わるわけでもない。もっともレムが生身と言えるかどうかは、いささか怪しいところではあるが」
シエルが魔導師という職務を引退したのは、レムが生まれるよりも前の出来事である。
それゆえ彼女は知らないのだろう。
いや、彼女だけではない。
リーゼの真実を知るものはシエルの他にもまだ何人か存在しているが、【レム】を知るのはリーゼの他には一人だけ。彼女の近衛魔導士を勤める、リヴァル家に仕えていたメイドだけである。
「それよりもシエル。適合者の捜索、どのようになっている」
「……依然捜索中のままよ。検討すらついていないわ」
「そうか、使えんな。ある程度の目星ぐらいはつけていると思っていたが」
「そうは言っても、この艦にどれだけの人が乗ってると思っているの? 第一本当にいる保障もなければ、この艦に乗っているかすらわからないのでしょ」
「適合者がいなければそれでいい。だが適合者が方舟に搭乗しており、私たちがそれに気づいていないだけなら、この艦が沈んだとしてもおかしくはない」
その言葉は、別段オーバーな表現というわけではない。適合者の確保と兵隊の餌場維持。
どちらが機甲虫の女王にとっての利になるか。そんなこと、考えるまでもないだろう。
「ねえリゼ。仮に適合者が見つかったとして、あなたはその人をどうするつもりなの?」
「どうするだと? 世迷言を言う」
そう言って、リーゼはぱきりと指を鳴らす。
「適合者を捕捉した場合、機甲虫は何を犠牲にしてでもそれを確保しようとする。だが確保する対象が存在しなければ、そもそも捕捉しようがないだろう?」
黒い微笑。適合者を見つけた際の対処を説明するリーゼは、ほんの少しだけ笑っているように見えた。
「適合者がいなければそれでいい。それは、そういう意味だと言いたいの?」
「さてな」
答えは濁したものの、リーゼが醸しだす雰囲気。それそのものが、シエルの予想に対する答えであった。
「大を救うために小を捨てる。私が、それをむざむざ見過ごすと思う?」
綺麗なだけの言葉。聞こえがいいだけの言葉。
シエルが吐き出した言葉を受け、リーゼは思わず笑いそうになってしまう。
「何を言うかと思えば馬鹿馬鹿しい。正義の味方にでもなったつもりか? 二十年来の友であろうと容易く切り捨てることが出来る。それが貴様の本質だろう。そうでなければ、適合者の情報を素直に伝えたりはせんよ」
見捨てられたことで形成された、かすれた信頼関係。
矛盾した事柄ではあるが、リーゼがシエルに適合者や騎士の情報を嘘偽りなく伝えたのは、彼女が、親友さえ切り捨てられる女だからこそなのだ。
「……間違っているのは、自覚しているということ?」
「なに?」
「だってそうでしょう。艦が沈みかねないほど大きな問題。それを私にしか、非情な人間にしか伝えない理由は、自分自身でも間違いと気づいているから。多くの人々に伝えて反対の声が高まれば、信念が揺らいでしまうから。それが本当ではないの?」
シエルからぶつけられた必死の訴え。
「方舟の有無など、些細な問題に過ぎないだろう?」
良心に刺激を与えようとする言葉を受け、リーゼの表情が怪訝そうなものに変わる。
「あの子にはもう、揺りかごなど必要ないよ」
そういってぱきり。指を折り曲げ、リーゼは再び乾いた音を掻き鳴らす。
「……まあいいさ。いずれにせよ、そちらには適合者の捜索を続けてもらう。第二次成長期を迎えた辺りから二十代の半ば。統計的には、その辺りの女が最も適合者に選ばれやすいらしい。手遅れになる前に適合者を特定し、せいぜい妙案を用いて助けてみるのだな」
Search-Record
【検索】の術式によって表示された情報を閲覧、【記録】。
Communication
ある程度記録が溜まった後、【伝達】の術式を用いてデータを送信。その後、魔導機杖に蓄積された調査結果の情報を消去する。
そんな単純作業の繰り返しにも関わらずレムが退屈さを感じないのは、隣にいるミュウが次から次に色々なことを話しかけてくるからだ。
「どうしたの? さっきからじーっとこっちを見たりして」
「あ、ううん。たいしたことじゃないけど、レムって術式を使う速度が速いなぁーって」
「そう? 自分だとそういうのはよくわからないけど」
Search
言いながら、レムは再び【検索】の術式を発動させる。
魔導機杖の操作に集中しているわけでもないのに、構築式を呼び起こしてから術式を発動させるまで、わずか一秒ほどのタイムラグしか生じていなかった。
「うん。やっぱりものすごく速い。っていうか速すぎだよ。ひょっとして魔導師さんより上手なんじゃ」
「……たまたまだよ。検索の術式は使い慣れてるから、それで速く使えるだけ」
「むぅ、ほんと? なんだか他の術式を使うのも速かった気がするけど」
「別にそんなことは――」
しつこくミュウに詰め寄られ、レムはどうにも返答に困ってしまう。こんな事になるなら、もう少し発動を遅らせていればよかったかもしれない。
「うーん、まあいっか。術式が使うのが上手でも下手でも、レムがレムなのは変わらないもんね。ところでわたしも検索って言うのをやってみたいんだけど……レムの魔導機杖、ちょっとだけ貸してもらってもいいかな」
「僕が僕であることは変わらない?」
「うん? あれ、聞いてる? わたしも検索って言うのをやりたいんだけど……。うぅ、全然聞いてくれてない」
両方の手を振って必死に自己主張を続けた後、ミュウはがっくりと項垂れてしまう。
その時になってようやく、レムは正気を取りもどす。
「っと、ごめん。ちょっとぼんやりしちゃって。魔導機杖のことだけど……まあ、壊したり暴走させたりしないなら」
「あはは。大丈夫大丈夫。わたし、そんなにおっちょこちょいじゃないもん」
「そう? でも、前科があるから」
ひゅーっと冷たい風が吹いて、二人の間を沈黙が駆け抜ける。
「……だ、大丈夫。たぶん!」
その発言がすでに大丈夫ではなかったが、そこまで言うなら、とレムは魔導機杖を渡してあげることにする。
「検索を使用して情報を閲覧。もしも異常があれば詳細が表示されるから、何かおかしな事があったら教えて」
「うん、ありがと。よーし、それじゃ検索検索」
楽しそうにそう言って、ミュウはマナを昇華し始める。
(これで半分が終了。ミュウの検索で多少時間がかかったとしても、お昼すぎには終わらせられるかな)
リーゼから渡された調査リストを内ポケットから取り出し、レムはぼんやりと考える。
最初に農園の調査を命じられた時はどうしてこんなことを? という思いが強かったものの、こうしてもう一度ミュウに出会えたのだから、案外悪い命令ではなかったのかもしれない。
「レ、レム! 大変大変。ちょっときてーー」
物思いにふけかけていると、突然、ミュウの大声が聞こえてくる。
どうしたのだろうとミュウの下に歩み寄ってみると、
Error
検索を終えた魔導機杖には、そんな文字が表示されていた。
「異常? 魔導機杖側の問題じゃないみたいだけど……ミュウ、ちょっとごめんね」
魔導機杖を受け取ると、レムは検索結果の詳細を表示する。
「えーっと、白紋羽病?」
白紋羽病
病原菌は子のう菌類の一種で、被害根の残渣上で生存する菌糸束が伝染源となる。感染初期は根部に病原菌が発生しても外見上は健全であるが、地上部に葉の黄変や萎ちょう(葉や茎がしおれること)などの樹勢の衰弱が認められるころには、根部の表面に白色の菌糸束がからみつき褐変腐敗している場合が多く、このため防除が手遅れとなり枯死する事が多い。
治療は困難のため、他の株への伝染を防ぐためにも病気になった根を残さないように根の周囲の土ともに抜き去って焼却をする。
「……葉っぱが黄色に変色してたら駄目ってことかな」
表示された情報量は多く、わからない単語も少なくない。
Communication
レムは検索結果を自分なりに噛み砕くと、方舟のメディカルスタッフに【伝達】の術式を用いて伝えておくことにする。
「葉っぱの病気のことは伝えたから、これでレムのお仕事は終了なの?」
「いや、ちょっと待って」
それから数分後、メディカルスタッフから送られてきた返信をしっかりと読み込み、レムはミュウに内容を伝えていき始める。
「病気にかかった個体。この場合は植物の根になるんだけど、それを取り除いて周囲の土と一緒にサンプルとして提出。それとこの病気は伝染病らしいから、感染の疑いのある土や根も出来るだけ取り除いて欲しいって」
「感染の疑いって、そんなのどうやって調べるの? 全部の木や土に検索なんてしてたら、それこそ日が落ちちゃう気がするけど……」
「大丈夫。検索の仕方を工夫すれば、日落としの時間どころかすぐに終わらせられるよ」
「どういうこと?」
「えーっとね」
魔導機杖を病気に感染した土壌に向けると、
Record
レムは土の情報を魔導機杖に【記録】させる。
Image-Search
続けて記録させた情報から【映像】部分を抽出。映像がほぼ同じになる場所を【検索】し、
Search-Light
【検索】結果が【光】を放つよう複合術式を組み上げる。
ぼんやりと土が光を放ち、大体の目星が付けられるようになると、これでよし、とレムが大きく頷く。その傍らで、ミュウは、目の前で起こった出来事に圧倒されてしまっていた。
「ま、魔導って本当に何でも出来るんだ……」
「便利ではあるけど、何でもってのは言いすぎだと思うよ。構築式があればその現象を支配出来るけど、魔導機杖に搭載できる構築式の数には限りがあるし、魔導師には直接関与出来ないとか、制約も少なくないからね。だから、はい」
「はいって、なにこれ? スコップとビニール袋?」
「うん。サンプルを提出するって言ったでしょ。それに、感染の疑いのある土や根を取り除かないといけないから」
「取り除くって……ひょっとして、手作業で?」
「うん。それじゃ始めようか、ミュウ」
そう言ってしゃがみ込むと、レムは光を放つ土をビニール袋に移しだす。
「わっ、ほんとに手作業だし。ねえ、魔導の力でなんとかならないの?」
「言ったでしょ、便利だけど何でも出来るわけじゃないって。病気の土だけを取り除くなんて、そんな都合のいい術式はないよ。少なくともいま魔導機杖に搭載してる構築式だけじゃ無理。だから手作業でやるんじゃないか」
「むぅ、そんなこと言ってもスコップとビニール袋を片手に農作業なんて、そんなの、わたしの知ってる魔導のイメージとちがうーー。って、もう聞いてないし」
ミュウの反論なんて知らんぷり。言うべき言葉を言い終えると、レムは作業に集中し始めていた。
「むぅ、こんなことならお手伝いするなんて言わなきゃよかったかも」
ぷっくらと頬を膨らませて不満いっぱいの声を漏らすと、ミュウは仕方なく、レムのすぐ近くで作業を始めようとする。と、
「あ、ミュウ。悪いけどもう少し遠くの方をお願い」
「えっ、そばでやってちゃだめ?」
「いや、いいとか悪いじゃなくて、効率が悪くない? 二人が一緒の場所でやってたら」
「……うん。悪いね。効率」
何故だかミュウは若干声を失いかけていて、でも一応はちゃんと納得しているようで、その妙な感じが、レムにはよくわからなかった。
「どうかしたの?」
「べっつに! どうもしてないよ!」
大声で怒り出すミュウを前に、何か変なことを言ったかな? と、レムは再び、頭のなかにいっぱいの?を浮かべるのであった。
飛翔艦‐方舟より後方一キロメートルの空域。
「対象、右前方より接近。距離、七百」
「こちらでも捕捉した。各員砲撃用意。有効射程距離に入り次第攻撃を開始する」
「了解です」
居住区に下りたレムの穴埋めのため、前線に駆り出された第一魔導小隊。クリスタ・R・クラスタ以下四名の魔導師は携えた魔導機杖をかしゃんと短く鳴らすと、それぞれに術式を発動させてゆく。
Homing-Fire
Homing-Fire
Homing-Fire
【誘導】能力を有した【炎】。
魔導師たちの放った灼熱が一つの巨大な塊に姿を変えて、遠くのほうにおぼろげに見えていた機甲虫の身体を打ち貫く。
「やった。直撃!」
「いや、まだだ。避けろ」
「えっ?」
女性の魔導師‐フォット・バンテが声を漏らしかけた瞬間、機甲虫は急激な勢いで加速。彼女の目の前にまで迫る。
「障壁! 急げっ」
Protection
クリスタの言葉に答えるように三重に重ねられた【障壁】が出現。機甲虫の衝突を弾き返し、ほんの少しだけ仰け反らせる。
「怯んだ! 刺せ」
「は、はいっ」
Sword
大急ぎでフォットは【剣】を形成。機甲虫の腹部に刃を突き立てる。じゅわりという蒸発音が周囲に響き渡り、機甲虫のモノアイから光が失われる。
「馬鹿、爆発に飲まれるぞ。すぐに離れろ」
「は、はい」
再び大声を上げて後ろに下がる。と、まもなくして機甲虫が爆発。周囲に焦げ臭い匂いと黒煙が広がっていった。
「……何とか、仕留めたか」
「はい、対象固体の爆発を確認。周辺に別固体の姿も見当たりません」
「了解した。だが検索は続けておくように。あの固体で終わりとは言い切れないからな」
索敵を行わせていた魔導師にそう指示を下すと、クリスタは魔導機杖をぶるんっ、と短く振るう。
「あの、クラスタ隊長。ありがとうございました」
「気にするな。こちらは当然のことをやっているまでだ。ただ、もう少し気を張ってもらうとありがたいがな」
「ぜ、善処します」
詰めの甘い部下に軽い小言を聞かせて方舟との定時連絡に取り掛かろうとしたものの、何やら妙な気配を感じ、クリスタは魔導機杖に傾けていた視線を上げる。
「どうした、私の顔に何かついているか?」
「い、いえ。そういうわけではないのですが、リーゼ司令とクラスタ隊長、どことなく雰囲気が似ているなと思って」
「似ている?」
何気なく口にしたであろう言葉。それがクリスタの心に波紋を起こし、不意に、幼い頃の記憶を刺激する。
リヴァル家に引き取られ、自分より五つも年上のリーゼのメイドとして仕えるようになったこと。リーゼに憧れを抱き、真似を意識するようになったこと。
「あれ、どうしたんです? クラスタ隊長、急に黙り込んだりして」
「いや、どうということはない。気にするな」
「はぁ。でも何だか声が浮ついてるような」
「……っ。誰が喜んでなど――」
むきになってクリスタが反論しようとしたその拍子。
「た、隊長。検索に反応……多数!」
それをきっかけにしたように、左翼を務めていた魔導師が声を張り上げる。
「前方、機甲虫の群れです。数は二十、三十。いえ、もっと多いっ。来ます!」
「群れだと? ちっ、総員を障壁展開。緊急回避っ」
Protection
Protection
それぞれに【障壁】を張り巡らせると魔導師たちは左右に離脱。急行する機甲虫に対して距離をとる。
「な、何なんですこの量。巣の引越しでもするつもりなんですか」
「そんな問い、私に答えられるわけがないだろう。答えは『知るか』だ」
陽光を照り返す銀色の群れ。それはまるで一つの巨大な塊のように、もぞもぞと甲殻を揺らしながらクリスタたちの隣を横切っていく。
「やりあって勝つというのは不可能だな。このまま通り過ぎてくれるとありがたいが」
Sword
クリスタが息を潜めたその拍子、【剣】への形状変化を示す電子音声が響き渡る。
「……? どうするつもりだ。魔導師フォット・バンテ」
「どうって、あの虫たち、方舟のほうに向かってるじゃないですか。見過ごすわけにはいかないですし、せめて一、二匹くらい」
光によって形成された刀身を振り上げると、共に後退をしていた魔導師、フォットが前に飛び出し、機甲虫に斬りかかろうとする。
「……っ。馬鹿が、下がれっ」
「えっ、あ、しまっ――」
瞬間、ぱらららららという奇妙な金属音。
Hard-Protection
機甲虫とフォットとの間に強引に割って入ると、クリスタは【強固】な【障壁】を用いて銃弾を受け止める。
「重いっ、ぎりぎりか」
「ク、クラスタ隊長。すいません、何とかしなきゃって思ったら――わわわっ」
Wind
機甲虫が巻き起こす【突風】。突然放たれたそれはクリスタたちを飲み込むと、そのまま、二人を明後日の方向に吹き飛ばしてしまう。
「……っ。無事か」
「あ、頭がくらくらしますけど何とか」
「ならすぐに頭を回復させろ。死ぬぞ」
態勢を整えなおすと、クリスタは機甲虫に視線を戻す。が、銃弾を撃ち込んできた機甲虫はそれ以上クリスタたちに付き纏うことなく、即座に方舟の方へと飛び去ってしまう。
風が止んで、その場に取り残されて……。
「虫が、私たちを見逃してくれた? なんで」
状況が理解出来ないのだろう。フォットが、不思議そうに首を捻る。
「さあな。だがいずれにせよ、方舟への連絡を急いだ方がよさそうだ。報告を終え次第、私たちもすぐに方舟に向かう。急ぐぞ」
知らない振りを装いはしたものの、クリスタは薄々、感づいてしまっていた。
何故機甲虫が異常な数の群れとなって押し寄せてきたのか。
何故自分たちを無視し、方舟に急行しようとしているのか。
それらの理由は……。
クリスタたちが機甲虫の群れと遭遇してからわずか数分後。
リリリリリリリリリリリリリリリリ。
方舟全体に異常を知らせる警報音が鳴り響く。
「……!」
その音にレムはいち早く反応。
Communication
【伝達】の術式を用いてブリッジに連絡。即座に状況把握を行い始める。
「この音、機甲虫接近のお知らせ? レム、このあたりのシェルターってどこにあるの?」
焦るレムとは対照的。ミュウの反応は、とてものんびりしたものであった。
「……了解。ではリーゼさんと合流次第、僕もすぐに迎撃に向かいます」
「ねえレーーム。聞いてる? シェルターは」
かしゃんと音を慣らし、レムは魔導機杖を握りなおす。機甲虫殲滅も大切だが、ひとまずはミュウをシェルターに送り届けるのが最優先。
Map
【地図】を展開し、
Search-Shelter
シェルターの位置を【検索】する。
「ここから五百メートル先。遠いな……」
おそらく、現在地が市街ではなく農園の只中だからだろう。シェルター建設のコストとて安くはないのだから、人の出入りが少ない場所に作る必要性は薄い。
「まあ泣き言を言っている暇はないか。ミュウ、ひとまずシェルターに――」
「ん、どうしたの?」
「離れてっ!」
レムが異常に気づくことが出来たのは、地面が妙な熱を持っていたからだ。
言葉の直後。地面が不自然に隆起し、銀色の巨体が姿を現す。
「えっ、ななななな、き、機甲ちゅ……きゃっ」
足を挫いてその場に倒れたミュウの頭上。投げ出された土石や樹木が、雨のように降り注いでくる。
Protection
レムは即座に【障壁】を展開。ミュウを守る盾とする。
「そのまま、じっとしてて」
Sword
魔導機杖を【剣】に形状変化させると、レムは地面を駆け抜けて機甲虫に急接近。
青白い光によって形成された刃の刀身を、胴体部分に勢いよく押し込んでいく。
(多少傷をつけた程度では意味がない。だから確実に仕留める)
何時だったか教えてもらった、リーゼからの助言。
その言葉を頭のなかで復唱し、レムは刃の出力を向上させる。
じゅわりじゅわりと装甲が溶解する音を響かせながら、機甲虫の体液を沸騰。完全に蒸発させる。
じ……ばち……。
機甲虫の身体のあちこちから火花が吹き上がり、モノアイの瞳から光が失われる。
Protection
剣を引き抜くとレムは【障壁】を展開。
機甲虫の爆発を、障壁が作り出した膜の内側に押しとどめる。
「あ、ありがとうレム。でも……」
驚いたミュウがその場で硬直したのは、機甲虫が現れたからだけではないだろう。本当に驚いたのは、民間人のはずのレムが機甲虫を一撃で破壊したことの方。
「走るよ」
「えっ、う、うん!」
けれど、今の二人にはそんなことに時間を裂いている暇はなかった。
(白兵戦の鍛錬、無駄にはならなかったな)
エンジンに機甲虫が接近した際に命じられた、白兵を強制された任務。レムはその時のことと、その後リーゼから命じられたトレーニングを思い出していた。
あの時の鍛錬がなければ、この状況で機甲虫を破壊することは出来なかっただろう。
(それにしても、まずいな。戦闘になるなんて思ってなかったから)
Soar‐‐‐Code-Error
魔導機杖に映し出されたのは、構築式が入っていない際に表示されるメッセージ。
「飛翔はなしか」
呟いて、レムは魔導機杖に搭載された構築式を確認する。
【伝達】【記録】【光】【検索】
【映像】【地図】【剣】【障壁】
「戦闘に使えそうなのは剣と障壁の二つだけ。いや、光の効力を上げれば目くらましぐらいにはなるか」
「レ、レム。後ろ! また機甲虫が」
ミュウの言葉を受けて振り返ると新たに二匹。いや、その後ろにも機甲虫の別個体の姿を確認することが出来た。
「……っ。なんでこんなに」
Acceleration
レムが言葉を漏らした拍子。【加速】の術式を用いて機甲虫が接近。
Soft
身体を【柔軟】な物質に変化させ、ミュウの下に駆けつけようとする。
Protection
体を柔らかくしていたせいで、【障壁】を突き破るだけの力が失われていたのだろう。レムが展開した術式によって、機甲虫は後方に弾き飛ばされてしまう。
「ご、ごめんレム。また助けてもらっちゃって。それにこれ、土を入れてたビニールに穴が開いちゃって」
見るとミュウが手にしていたビニール袋の底から、ぽろぽろと砂や土の粒が零れ落ちていた。
「そんなのどうでもいいから。急ごう、ミュウ。手を離さないように」
「う、うん!」
ミュウの小さな手の平をぎゅっと握りしめ、レムは勢いよく走りだす。
(どういうことだ……)
頭のなかに浮かび上がってきたのは、機甲虫の行動に対する一つの疑問。
(さっきのあれは、ミュウを狙っているように見えたけど)
単純にミュウを狙ったというだけならわかる。弱者を狙うのは、戦闘における定石の一つであるからだ。ただわからないのは、身体を柔らかくしていたことだ。
(柔らかくした理由は傷つけたくないから? だとしたら、機甲虫の狙いはミュウを捕まえることに――)
「レム……」
か細い声。震えるような声を聞いて、レムははっと正気を取りもどす。
(理由なんか、どうでもいいか)
魔導機杖を腕に力を込めなおし、レムは気持ちを切り替える。
「大丈夫。絶対に守るから」
農園に豪雨が降り始めたのは、それからまもなくの出来事であった。
『リーゼ司令。言われた通り、気象台に雨量を最大にするよう指示を出しておきました』
「ん、ご苦労。確認しておくが、艦内に雷は発生させられないのだな?」
『はい、申し訳ありません。豪雨はともかく雷は……艦内で雷雲を発生させるメリットがなかったものですから』
「わかった。居住区で火災が確認されたら、暴風でも何でも発生させて構わん。ともかく、消火作業を優先するように」
ブリッジクルーに居住区での非常事態に対する指示を下すと、リーゼはシエルに向け、くるりと踵を返す。
「シエル。居住区に侵入した機甲虫の殲滅、貴様にも手伝って貰うぞ」
「この状況じゃ止むを得ないか。わかった、協力するわ。でも私の魔導機杖は市販の簡易型で、戦闘出力の術式なんて生み出せないわよ。構築式だってまともなものが入っていないし」
「そのような懸念は必要ない。貴様はこれを使え。私には必要ない」
そう言って、リーゼは自分が持っていた紅色の魔導機杖をシエルに手渡す。
「……了解。それなら、貴方にはこれを」
バッグから魔導機杖を取り出し、シエルはそれをリーゼの前に差し向ける。
「必要ないと言ったけど、民衆や他の魔導師を騙すためには必要でしょう。正体がばれてごたごたが起きたりしたら、あなたも面白くはないだろうし」
「そうだな。では受けとっておく」
Soar
Soar
体内と魔導機杖でそれぞれに【飛翔】の術式を呼び起こし、二人は空中へと舞い上がる。
「……すでにこの辺りにまで来ているか」
Fire-Sphere
農園の上空。豪雨が吹き荒れるなかで機甲虫の姿を捉えると、リーゼは【炎】の【球体】を手の平に作りだす。大雨のなかでも炎の勢いに弱まりが見えないのは、術式が、一切の物理法則を無視する力を備えているからだろう。
術式に込められたマナに反応して機甲虫がこちらに振り向くが、リーゼは相手が行動するよりも先、その腕を機甲虫の胴体部に押し当てていた。
「焼け落ちろ」
火球が装甲を焼ききり、風穴を作りだす。
Fire
Fire
Fire
多重詠唱。機甲虫の胴体部にぽっかりと開いた風穴に、リーゼは三つの【炎】を流し込む。
機甲虫のモノアイから光が消えて、
Sphere-Protection
後ろに下がると、リーゼは機甲虫の周囲を【球体】【障壁】で包み込む。
「一応、何を搭載しているか確認しておくか」
機甲虫を爆発させた後、シエルから受け取った魔導機杖を起動する。
【映像】【検索】【地図】【加速】
「ほう。検索と地図が私のものと被っているが……悪くない」
真後ろに機甲虫の気配を感じ、リーゼは術式を呼び起こす。
Fire-Wall
展開された【炎】の【壁】が突撃を仕掛けていた機甲虫を弾き返し、怯んだ巨体に向けて、
Fire-Sphere
練り上げた【炎】の【球体】を、
Acceleration
【加速】の術式を用いて叩き込む。
「ふむ。頑丈さだけは相変わらずだな」
火球の直撃を受けて頭部に風穴が開いたものの、それでも機甲虫は動きを止めはしなかった。
じゅわりっ。
その直後、風穴の開いた頭部に槍が突き刺さる。
Terminal-Lance
【端末】によって形成された【槍】が空中を舞い、次々に機甲虫の身体を貫いていく。
「リゼ、後始末をお願い」
「ふん、言われずとも」
Sphere-Protection
言うが早いか、【球体】【障壁】を用いて機甲虫を覆い包むと、リーゼは爆発を最小限に押し留める。
「さすがね。魔導司令の名は伊達ではないか」
「そういう貴様は、腕が鈍っているのではないか? 術式の錬度が低下しているように見える」
「仕方ないでしょ。十三年ぶりの実戦なんだから」
互いに背中を押し付け合い、リーゼとシエルは周囲への警戒を強めていく。
「それよりこの魔導機杖、障壁が搭載されていないわよ。あれなしでどうやって身を守れと言うの?」
「無理をせねば問題ないよ。気象台に降らせた豪雨によって、サーモグラフィもソナー機能もその効果を大きく削がれている。奴らの視力は高くないのだから、有視界戦闘に持ち込むことが出来ればあちらの優位は装甲の厚さのみ」
「それでも身を守るものがないというのは怖いのだけど……」
雨と共に差し込んでくる陽射しが気になったのだろう。
「ところで、」
少しだけ愚痴を吐いた後、シエルは上空に目線を送る。
「視力が高くないのなら、いっそ日を落としてしまうべきではないの?」
方舟の内部時間は原則、外界と連動するように設定されている。豪雨によって大半が隠れているといえ、人口太陽が天井付近で今も煌々(こうこう)と輝き続けているのはそのためだ。
「明かりを弱められるし、もしかしたら虫の体内時計を狂わせられるかもしれないじゃない」
「狂った時計は、すぐに修正しなおすさ」
自分の体験談を語るように、リーゼは静かに言葉を口にする。
「それに機甲虫という種族の元来は夜行性。体内時計を夜間に設定しなおせば、現在よりも活発性が増すのは目に見えている」
「……ご親切な解説をどうも。でもせっかくならマイナスの情報だけでなく、現状の打開策を教えてもらえると嬉しいのだけど」
「それについては先ほど伝えた通りだ。無理をせねば、奴らの邪魔をしなければ、こちらに危険が及ぶ心配はないよ」
「どういうこと?」
言葉の意味がわからずシエルが首をひねると、リーゼを補足の説明を行っていく。
「結論から言えば、奴らは周辺区域への被害を極力抑えようとしているということだ。十三年前のあの時と同じように」
「……この周囲に適合者がいると言いたいの?」
十三年前。その言葉だけで全てを理解したのだろう。驚きながらも、シエルはそう返事を返す。
「ああ、少なくとも私はそのように判断しているよ。でなければ、異常とも言える虫の数に説明がつかん」
Search
魔導機杖を用い、リーゼは周囲を【検索】。機甲虫の総数を探る。
「ブリッジで確認された機甲虫の数が五十二匹。それだけでも十分おかしな数字だが、Gという限定的な区域に十八匹。襲撃してきた虫どもの、実に三分の一がこの辺りに集結していることになる。にも関わらず火災はおろか建造物への被害すら生じていないというのは、いささかおかしな話だろう?」
「適合者を殺してしまっては元も子もない。だから機甲虫はこの区域のみ、極力被害を抑えながら捜索を続けていると?」
「そういうことだ。奴らの邪魔さえしなければ、深追いはおろか攻撃すらされることはない。少なくとも、この区域にいる限りはな」
「筋は通っていると思うけど、それでどうなるわけでもないでしょう。逆を言えばこの区域以外での被害はいとわないということだから、どのみち、機甲虫を全滅させる以外の解決策なんて」
「あるだろう。一番楽な手が」
「楽な手? って、まさかっ」
一瞬だけ首を捻った後、はっとしたようにシエルが声をあげる。リーゼがやろうとしている行為に気づいたのだろう。
「そう。この艦は十三年前にも全く同じ状況に直面している。にも関わらず沈むこともなく、今日も航行を続けられている。その理由は何だ?」
その問いかけは、問題にすらなっていなかった。
何故なら、答えがすでに掲示されていたからだ。
Communication‐Remu Listor
その瞬間、レムから【伝達】の術式が送られてくる。それは、最悪のタイミングでの連絡であった。
『リーゼさん、レムです。こちらの座標を送るので至急救援をお願いします。魔導機杖に戦闘用の構築式がほとんど入っていない上、機甲虫の数が多すぎてこちらでは処理をしきれません』
「数が多すぎる?」
『ええ。何故かはわかりませんが、こいつらミュウを捕まえようと――』
雑音が混じり、レムから送られてきていた伝達の術式はそこで途絶えてしまう。向こう側に、こちらと連絡を取り合う余裕がなくなったのだろう。
「なるほど、適合者の名前はミュウ。そしてレムと行動を共にしていると。これはありがたいな。探す手間が省けたというものだ」
笑みを浮かべるリーゼとは対照的に、シエルの表情は蒼白に変わってしまっていた。
「ミュウ? まさか、あの子が……」
シエルの態度の異常に居住区最南の店の娘という農園の経営主の言葉を重ね合わせ、リーゼはシエルの言葉の意味を理解する。
「なるほど。友の次は娘。貴様も、よくよく不幸な星の元に生まれてきたようだ」
「……っ!」
Lance
その言葉を引き金に、シエルは魔導機杖を【槍】に形状変化させる。わずかに後ろに下がり、刃の切っ先をリーゼに傾ける。
「どういうつもりだ? 船が沈んでもいいと?」
「そんなわけじゃない。けどミュウのためにも貴方自身のためにも、今この場で、貴方を止めないといけないから」
震えているのだろう。
シエルが握りしめた槍は重心が安定しておらず、ぶるぶると上下に揺れ続けていた。
「私のため? ふん、都合のよい言い訳を。結局、貴様は娘を犠牲にしたくないだけだろうに」
「……そうよ」
「なに?」
「リゼ。貴方の言うとおり、私は大切なものを犠牲にしたくないだけ」
悲壮な想いを漂わせる声。
両手にぎゅっと力をこめて槍を、ぶれかけていた心を安定させたのだろう。
うつむきかかっていた顔を上げ、シエルは、改めて言葉を紡ぎだす。
「押し潰されそうな罪悪感を抱えてそれからを生きていきたくはないから、もう二度と同じ過ちを繰り返したくないから、だから!」
構えた槍をシエルが前に突き出そうとした瞬間。機甲虫が二人の合間に急接近。
「……!」
Wind
別々の方向に後退したシエルとリーゼの両方に、機甲虫が作り出した【風】が襲いかかる。
Wall
コンマ数秒の判断力の差。
リーゼは【壁】を作り出し、機甲虫が巻き起こした突風を遮断する。
「リゼッ!」
シエルの強い叫びがリーゼに届くことはなかった。
術式によって作り出された壁が、想いの全てを遮断したからだ。
突風と機甲虫が駆け抜けた後。
そこに残ったのは、身体を弄られきった適合者の成れの果てだけであった。
「大を救うために小を捨てる。繰り返される歴史が仮初の平和を紡ぎだす。さようならだ。シエル・アシュホード」
魔導機杖を握りしめると、リーゼは目的の方角へと飛び去っていった。
農園上空。十メートル地点。
豪雨に当てられ樹木が激しく揺れ動くなか、一人の少女が旋回を行い続けていた。
少女の足の爪先が幹の先端に触れて、するりと幹をすり抜ける。
視界が悪くなっているせいだろう。少女の後を追う八匹の機甲虫が、その異常に気づいている様子はない。
「ミュウ、もう少し後ろに下がって。キミが見つかったりしたら、元も子もないんだから」
「う、うん。そうだね」
上空で旋回を続ける幻の元となった少女‐ミュウは警告を受けると慌てて大木の下、レムの隣でじっと身を潜める。
「レム、あの幻ってどれくらい機甲虫をだませるものなの?」
「現状では何とも。触れられさえしなければ大丈夫だと思うけど」
ミュウの検索を行い、光を織り交ぜて作り出した幻の映像。
魔導機杖を用いてその動きを制御しながら、レムは小さく言葉を漏らす。
「ただ、数が多いからそろそろリーゼさんに来てもらわないと……」
説明を行いながら、ちらり、とレムは魔導機杖のマナ残量を確認する。
残量はおよそ三十パーセント。予想よりも減少率が高いのは、複合術式を用い続けているからだろう。
(そろそろ合流しないと、本格的にまずいかもしれないな)
二つ以上の魔導機杖があれば構築式を上書きすることが出来るが、動力源となるマナが残っていなければ宝の持ち腐れ。燃料の切れた道具など荷物にしかならないだろう。
「ねえレム。さっきから言ってるリーゼさんって言うのは、魔導師の司令官さんのことでいいんだよね?」
「…………」
「え、えーっと間違ってたらごめんね。魔導師の司令官さんにはすっごく強い子供がいるって噂を聞いたことがあるんだけど、ひょっとしてレムがその……」
「すっごく強いかどうかはともかく、司令官の子供って部分はその通りだよ」
「や、やっぱりそうなんだ」
ミュウの眼差しが奇異なものを見る目に変わっているように感じて、何故だか、レムはミュウから距離を取ってしまう。
いや、何故ではない。本当はレム自身も気づいている。
ミュウとの間に生まれた隔たりと、言葉では傷付けることすら出来ない頑強な壁。
ミュウから逃れるように、レムは上空に浮かぶ幻と機甲虫の追いかけっこを見上げてみる。今のところ、異常らしい異常は見当たらない。
「ね、ねえレム。こんな時に言うことじゃないと思うけど、一つだけ聞いてもいい?」
「…………」
返事はしない。どうして黙っていたか、嘘をついたのか。何を聞かれるかはわからないが、大よそ、答えたい類の質問ではないだろう。
「どうして『リーゼさん』なの?」
「えっ?」
レムが魔導機杖の操作を思わず止めてしまったのは、言葉の意図が理解出来なかったからだ。
「だって司令官さんの子供なら、おかあさんって呼ぶのが普通なんじゃないの? どうしてリーゼさんなんてそんな、他人行儀な言い方をしてるのかなって」
「どうしてって、任務の最中なんだから当然だよ」
「えっ? あ、そ、そうだよね。うん、ごめんね。変なことを聞いたりして」
(他人行儀……)
それらしい嘘を口にしたことでミュウは納得してくれたようだが、嘘をついた本人。レムは、自身が発した言葉に疑問を抱いてしまっていた。
任務も何も関係ない。レムにとってリーゼはあくまでも『リーゼさん』であって、母親と思ったことは一度もない。けれど自分がリーゼの子供であることは事実で……。
「レ、レム! あっち、なにか来るよ」
「……!」
Sword
ミュウの言葉に反応し、レムは即座に魔導機杖を【剣】に形状変化させる。
雑念を捨て、迫る脅威に意識を集中しようとして、
「そういきり立つな。私だ」
聞こえてきた声と姿を確認し、レムはすぐに警戒を解く。
「……良かった、来てくれたんだ」
レムが少しだけ言葉に詰まったのは、駆けつけてくれた人物。リーゼのことを、何と呼べばいいかわからなかったからだ。
「なるほど、お前の後ろに控えている娘がそうか」
「……? あの、すいませんが魔導機杖の上書きを」
リーゼが何を言っているかよくわからなかったが、ともかく、レムは最優先の行動を済ませようとする。
「まあまて、それよりも元凶を断つほうが先だ。その娘、ひとまずはこちらで預かろう」
「…………」
リーゼが差し出してきた手に違和感を抱いたのは何故だろう。理由はわからないけれど、見慣れているはずの指先が、レムには別人のもののように思えてならなかった。
「どうした、何をもたついている。時間がないのはお前も知っていることだろうに」
魔導機杖を地面に突き刺し、リーゼは右腕を前に差し出してくる。怖がることなんて何もない。なのに、レムは抱いた違和感を拭いきることが出来ないでいた。
「この子は、僕がシェルターまで送り届けます。……貴方の手を煩わせるほどのことではありませんから」
「シェルター? 一体なんの話をしている」
「なんのって、ミュウを安全な場所に連れて行くんじゃ」
「安全などどこにも残されてはいない。だからこそ、元凶たるその娘を排除するのではないか」
「えっ? 排除って――」
「……! ミュウ、後ろでじっとしたままでいて」
ここにきて、レムは始めてリーゼに対して抱いていた違和感の正体に気づくことが出来た。
ずれているのだ。ミュウに対する考え方が、根本的な部分で。
「どうした? 何を妙なことを言っている。虫の狙いが何であるかは気づいているだろう。その娘を匿い続ける限り、虫の猛威は終わらんよ。命令だ。その娘をこちらに明け渡せ」
「命令?」
その言葉に強い反応を示してしまったのは、リーゼから下される命令そのものが、レムの存在意義と言っても過言ではなかったからだ。
命令に従っていればいい。
今までずっとそう言われ続けていたし、実際、下された命令に間違いなんて一度もなかった。今回のことだってそうだ。虫の狙いがミュウであるならミュウを排除すれば、明け渡せば、劣勢の現状を打開することが出来る。というより、それ以外に解決策はないだろう。
それでも、
Sword
魔導機杖を形状変化させて作りだした【剣】。その切っ先を、レムはリーゼへ突きつける。
「ごめんなさい、その命令だけは聞くことが出来ません。絶対に守りきる。僕は、この子にそう約束したから」
「……そうか。やむを得んな」
Fire-Sphere
「えっ?」
【炎】の【球体】。手の平に作り出したそれを、リーゼは脈絡もなくレムに向けて投げつける。
「……!」
向かってきた火球をレムが斬り落としたのは、考えての行動ではなかった。
魔導師であるがゆえの反射。
自己を防衛する本能が、無意識のうちにレムの身体を突き動かしたのだ。
「どうして、魔導機杖もないのに……」
リーゼが手にしていた魔導機杖は、今も地面に突き刺さったままになっている。
だからリーゼが術式を使えるはずがない。それなのに、
Fire-Sphere
Fire-Sphere
Fire-Sphere
リーゼは当然のように【炎】の【球体】を連射する。
Fire-Wall
Protection
レムはその全てを斬り落とし、迫り来る【炎】の【壁】を、【障壁】を用いて受け流す。
「反応速度は申し分なし。不意を付くつもりであったが、さすがにそう都合よくはいかないか」
防がれたにも関わらずリーゼの表情は満足げなもので、それが、レムの警戒心をさらに強固なものに変えていく。
疑問や気遣いなど、すでにレムの心からは消えうせていた。
「…………」
Light
魔導機杖を前面に構え、レムは【光】を解き放つ。
クリスタが目くらましにしようとしていたものと同じ用法。
剣に形状変化させた魔導機杖を振り上げると、レムは、躊躇うことなく振り下ろす。
Protection
「障害となるなら私であろうと容赦しない。なるほど、良い判断をするようになった」
自らの前面に【障壁】を張り巡らせ、リーゼはレムの攻撃を受け止める。
上空で幻と追いかけっこを続けていた機甲虫に異常が生じたのは、その直後の出来事であった。
「虫が動くか。これだけ派手にやりあっていればある意味では当然だな。ぐずぐずしているわけにもいかないし、やむを得んか……」
そう言って、リーゼは小さなため息をつく。
Remu
聞こえたのは、術式発動の際に放たれる電子音。
「【レム】、私の言う事を聞け」
「えっ?」
その直後。レムの頭に真っ白な何かがこみ上げてきて、やがて、何も見えなくなってしまう。
レムの意識は……そこで途絶えた。