覚醒
誰かの呼び声が聞こえた。高い低いも、男か女かすらわからない。しかし確かに自分に対して呼びかけてくる声が。ずっと呼びかけてくる切実で懇願してくるようなその声に、最初は耳障りだったが僕は応えたくなった。
どうして君は僕のことをそんなに呼ぶんだい?
その声に反応しようとした次の瞬間、僕は目を開けていた。
視界に真っ先に飛び込んできたのは真っ白な天井に蛍光灯。身体には柔らかく少しだけ重みがある感触が。背中に痛みも固さもなく、頭は何か弾力があるものの上に乗っかっているようだ。
これらの点から僕は自分が仰向けにベッドで寝ていたらしいことに気づく。床だったら背中は痛くなっているだろうし、布団だったらもっと床の固さが強く伝わってくるはずだ。
けれど、それ以上のことは何もわからなかった。自分がいる場所はどこで、どうしてどこかもわからない所で眠っていたのか? そもそも自分が眠る直前まで何をしていたかすら、まだ思い出せなかった。
僕は状況を把握するために起き上がろうとする。しかし不思議と力が入らなく、背中は再びベッドの上に落ちた。
「起きたの……? 目覚めてくれたの?」
その高く澄んだ声と共に、天井しか映っていなかった僕の視界に、彼女の顔が入ってきた。愛しい恋人である彼女の顔が。
長い髪、普段はおっとりとしたタレ目は今大きく見開かれていており、驚いていることを如実に表していた。いつもとろんとしていて笑ったり柔らかな表情はするものの、基本的にあまり感情の波を見せない彼女がここまでこわばった顔をしていることは非常に珍しいことだった。
「直哉!」
寝たきりのままだとカッコ悪いのでなんとか思い通りにならない身体に力を込め起き上がると、彼女は僕に抱きついてきた。そんな彼女を支えきれずに僕はまたまたベッドへと倒れこんでしまった。
「ずっと、待ってた。ずっと、ずっとずっと、待っていたの。あなたが目覚めるのを」
彼女は僕にしがみついたまま、声を上げて泣き出した。
「どうしたんだい?」
僕はどうすればいいのかわからず、けれど泣きしゃぐる彼女をどうにかしてあげたくて抱き締め返した。彼女の、記憶よりもなぜかよりほっそりと痩せていて、一歩間違えたら折れそうな、しかし豊満な膨らみを持った肢体を感じ取っているうちに自分が眠る直前、何をしていたのかが蘇ってきた。頭の中でそれが断片的に次々と浮かんできた。
車に轢かれそうになった彼女と事故死した両親の姿が重なり、どうしようもないべっとりと張り付いて消えない不安に襲われるようになった僕。彼女の姿が見えないと、常にどこかで死んで僕の前から消えてしまったのではないかという妄想と恐怖に取り憑かれるようになっていた。
無機質な金属製の足枷を彼女の左足に付け自室のベッドと繋ぎ、自由を奪い監禁する僕。常に自分の傍において、さらに彼女を感じていないと気がおかしくなりそうで、無理やり犯して犯してずっとずっと触れていた。
そんな弱くて情けないおかしい自分がもちろん嫌いで、嫌で嫌で憎くて憎くてたまらくて、もともと愚かで駄目な自己を自覚させられる度にカッターナイフで切っていた腕を、毎日毎日彼女を監禁し始めてから自身を罰するために自傷し続けた。
彼女はこんなひどいことをしている僕の傍に悲しげな表情はするけれど嫌な顔一つせずにまた逃げようともせずにずっといてくれて、僕が安心できるまで待つと言った。どんなに酷いことをしても彼女は僕を嫌ったりは決してしなかった。しかしだからこそ僕にはそれが重くて自己嫌悪は増し、最終的には全てを終わらせようと死ぬつもりで手首を深くカッターナイフで抉った……。
僕は彼女を半ば突き飛ばすような形で離した。彼女が僕を凝視し傷ついたような顔をしたことに心が痛んだが、僕には抱き締める資格なんてなかったのだ。それどころか僕は彼女に断罪されるべきなのだ。罵られて責められて嫌われるべきなのだ。
「僕は、君に……。君に対して取り返しのつかないことをしたのに……」
「そんなことない。仕方なかったのよ。私は全然気にしていないわ」
否定すると彼女は再び僕に抱きつこうとしてきた。僕はその腕を掴み押し返す。
「僕に君を抱き締める資格なんかない。僕は死ぬべきだったんだ」
「そんなことない。そんなこと言わないで! あなたが生きてて、目を覚ましてくれて私は嬉しいの。本当に良かった。死ぬべきだったなんて言わないで。あなたが死んじゃうなんて嫌。眠り続けている間もずっと悲しかった。ずっとずっともう一度あなたと話したかった。触れて欲しかった。抱き締めて欲しかった」
彼女は僕の力をさらに押し返し抱きついてきた。強く強く、その目に涙を湛えながら抱き締めてきた。僕にはそんな彼女を突き放すことができなかった。僕にはそんな資格はないのに。自分の弱さに負けて彼女を傷つけ、その人権さえも蹂躙した僕には。それなのに僕は彼女を拒否できず、そればかりか抱き締め返している。彼女が迫ってくるのをいいことに、それに甘えている。
ああ、僕はなんて浅ましい奴なんだろう。