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鯉は三途の川をわたる

作者: 冬川東
掲載日:2026/09/26

ペットを飼っている人ならば

「虹の橋」という話を聞いたことがあるだろう。


虹の橋のたもとには、広い草原があるらしい。

飼い主より先に死んだペットたちは、そこで元気だったころの姿に戻り、いつかやってくる飼い主を待っているという。

犬は走り回り、猫は寝転がる。

みんな穏やかに、その日を待っている。


ただし、それは犬や猫の話だ。


鯉には、水がいる。

仕方がないので、鯉たちは少し離れた三途の川の下流で暮らしていた。

幸い、水は豊富だった。

流れの穏やかなところを見つければ、暮らし心地も悪くない。


生前、大きな屋敷の庭で暮らしていた何匹かの錦鯉も、そこで飼い主を待っていた。


ある日、知らせが届いた。


飼い主が死んだ。


鯉たちはすぐに川を上り始めた。

流れに逆らって、一匹、また一匹。

赤、白、金、黒。


何匹もの大きな錦鯉が、三途の川を遡上していく。

大好きだった飼い主を、迎えに行くために。



*



男は死んだとき、

「俺は地獄に行くんだろうな」

と思った。


男は会社をいくつも経営していた。

大きな家を建て、広い庭を造り、庭師を入れた。

池には、値の張る錦鯉を何匹も泳がせていた。


家族には不自由をさせなかった。

妻にも子どもにも、優しかったと思う。

だが、善人だったかと聞かれれば、男自身、そうだとは言えなかった。


金を稼ぐために、人を追い込んだことがある。

泣いて頼む者を切り捨てたこともある。

誰かが損をするとわかっていても、自分の利益を優先したこともある。


違法なことはしていない。


それが男の言い分だった。


だが、法律に裁かれなければ善人というわけでもないことくらい、男にもわかっていた。

恨んでいる人間は、ずいぶんいるだろう。


だから三途の川にたどり着いたときも

「まあ、そうだろうな」

と思った。


ところが、川を渡ろうとしたときだった。


下流のほうが、妙に騒がしい。

水面がばしゃばしゃと波立っている。

何かがこちらへ向かってくる。


一匹。

二匹。

三匹。


男は目を凝らした。


「……おい」


見覚えがある。


いや、見覚えがあるどころではない。

毎朝、見ていた。

男が池の縁に立つと、餌をもらおうと水面に集まってきた、あいつらだ。


「おまえら……」


鯉たちは男の姿を見つけると、いっそう激しく水面を跳ねた。


「なんでここにいるんだ」


答えはない。


鯉だから、しゃべらない。


一匹の大きな鯉が男のすぐそばまで来て、背中を水面から出した。


男はしばらくその背中を見つめた。


「乗れってことか?」

鯉は答えない。


「俺を迎えに来たのか?」

やはり答えない。


それでも男には、そうとしか思えなかった。


「……おまえら、俺のこと、飼い主だと思ってたのか」

当たり前である。


男にとって鯉は、立派な庭に泳がせるために買った、高価な錦鯉だった。


もちろん大切にはしていた。

毎朝、餌をやった。

水の状態を気にした。

病気になれば専門家を呼んだ。

一匹死ねば、何日か池を見るのが嫌になった。


けれど、自分が鯉たちからどう思われているかなど、一度も考えたことがなかった。


男は笑った。


そして、死んでから初めて少し泣いた。

「そうか」


大きな鯉の背中を撫でた。


「迎えに来てくれたのか」

男は、その背中に乗った。


鯉たちは来た道を引き返さなかった。

鯉たちは男を向こう岸にも連れて行かなかった。


さらに上流へ向かった。

男を乗せて、三途の川を上り始めた。


*


鯉たちは、男のことが好きだった。


毎朝やってくる人。

餌をくれる人。

池をのぞき込む人。

ときどき何かを話しかけてくる人。

その人が庭に現れると、鯉たちは水面へ集まった。


けれど鯉たちは、男についてもう少しだけ知っていた。


池のほとりには、ときどき男の妻もやってきたからだ。


妻は池の縁に座り、鯉を眺めながら、ひとりで話した。


「あの人、またひどいことをしたのよ」

「家では優しいのにね」

「どうしてあんなことができるんだろうね」


妻が何を言っているのか、鯉たちにすべて理解できたわけではない。


ただ、悲しいことがあったのだとわかった。

妻が泣いている日もあった。


男の子どもが池の前で、

「父さんは間違ってるよ」

とつぶやいたこともあった。


それでも翌朝になれば、男はいつものようにやってきた。


餌をまいた。

鯉たちは集まった。

男は満足そうに笑った。

鯉たちは男が好きだった。

自分たちを大切にしてくれたことも、知っていた。


だから、迎えに行った。


けれど。


男が誰かを苦しませていたのなら。


悲しいということを。

苦しいということを。

自分ではどうすることもできないということを。


この人は、もう少し知ったほうがいい。


鯉たちは、そう思っていた。


*


三途の川をどれほど上ったのか、男にはわからなかった。


川はだんだん細くなり、流れは激しくなった。

それでも鯉たちは上った。

男を背中に乗せて。


やがて、上流に強い光が見えた。


男は思った。


もしかすると、天国なのかもしれない。

そんなわけがない。


自分がどんな人間だったかくらい、自分が一番よく知っている。

それでも鯉たちは光へ向かって泳いでいく。


「おまえら」


男は、自分を乗せた鯉の背中を撫でた。


「俺を助けてくれるのか」


鯉は何も答えない。

ただ、上り続ける。

男はしばらく黙って、その背中に揺られていた。


「ありがとうな」


光が男を包んだ。


*


次に目を覚ましたとき、男は水の中にいた。


妙に体が軽い。


声を出そうとして、口から泡が出た。

目の前を、赤と白の大きな魚が横切った。

男はその姿を目で追った。

水面に映った自分を見る。


鯉だった。


「…………」


声は出ない。


そういうことか。

来世は鯉か。


男は池の中をゆっくり泳いだ。


悪くない。


水は澄んでいた。

池は広かった。

庭も立派だった。


毎朝、決まった時間になると人がやってきて、餌をくれた。


その人の姿が見えると、男はほかの鯉たちと一緒に水面へ向かった。


何もしなくても食べ物がもらえる。

会社もない。

会議もない。

金を稼ぐ必要もない。

誰かを出し抜く必要もない。

誰かを切り捨てる必要もない。


ただ泳ぎ、腹が減れば餌を食べる。


これはこれで、悪くない人生かもしれない。

男はそう思った。


何年かが過ぎた。


ある朝。


池に、大きな網が入った。

男は驚いて逃げた。

けれど、網は追ってくる。

必死に泳いだ。

逃げても、逃げても、追ってくる。

やがて体が網に絡まった。


水面から引き上げられる。


男は暴れた。

逃げたかった。


まだ、この池にいたかった。

けれど、誰も男に、どうしたいかとは聞かなかった。


男はそこで初めて知った。

追われるということを。

逃げても逃げても追われるということを。

自分ではどうすることもできないということを。


そして、自分の意思とは関係なく、自分の行き先が決められてしまうということを。


*


その日の夕方。


山あいの料理屋で、立派な鯉こくが客に供された。


客は湯気の向こうに椀を見ながら、

「こんなところまで来られるようになったんだな」

と、ぽつりと言った。


かつて男の会社と取引をしていた人だった。


男の決断ひとつで仕事を失い、ずいぶん長い間、苦しい暮らしをした。


恨んだ。

何度も恨んだ。

あの男さえいなければ、と何度思ったかわからない。


それでも長い年月が過ぎた。


仕事を見つけた。

暮らしを立て直した。


今日ここへ来たのも、久しぶりの旅行だった。


客は鯉こくをひと口すすった。

温かかった。


「うまい」

と言った。


もちろん、何も知らない。


自分を苦しめた男が、いま自分の腹を温めていることなど。




三途の川のずっと下流。

虹の橋から移り住んだ何匹かの錦鯉が、静かに尾びれを揺らしていた。

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