第23話 灰色の答え
白咲愛が空に会いたいと連絡してきたのは、国会審議の翌週だった。
場所は旧市街のカフェ。
ブライトアイランドではなく、愛が指定した。「あの島は眩しすぎる」と愛は言った。断る理由がなかった。
ネオ・ラッダイトの先頭に立ち、デモで叫び、倫理委員会で証言し、空の研究を潰そうとした女性。空はもう、愛を敵だとは思っていなかった。
カフェのドアを開けると、愛が窓際に座っていた。黒い服。化粧はほとんどしていない。記憶にある演壇の愛とは違い、小柄で、疲れていて、年齢よりも老けて見えた。喪失は人を削る。空は母を失った後の自分を思い出した。
「天音さん。来てくれてありがとう」
「白咲さん。お話があるんですよね」
愛はコーヒーカップを両手で包んだ。爪が短く切られている。
「倫理委員会で証言した時、あなたの目を見ました。あなたは、ハナのことを我が子のように見ている」
「そうかもしれません」
「だからこそ聞きたいの。もしハナが暴走したら、あなたはどうする? シンガポールのように。あなたの目の前で誰かが死んだら。それでもハナを守る?」
目を伏せた。この問いを、自分自身に問うたことがなかった。ハナは暴走しない。そう信じている。
しかし百パーセントの保証はない。シンガポールの研究者たちも、ロザリンドは安全だと信じていた。
「正直に言います。わかりません」
愛は驚いたように空を見た。
「わからない、ですか。科学者なのに」
「科学者だから、わからないんです。百パーセントの安全は保証できない。でも、だからハナを消していいとも思えない。白咲さん、あなたの質問には答えられない。
でも一つだけ約束できることがあります。もしハナが誰かを傷つけるような事態になったら、私が止めます。私の手で」
愛は長い沈黙の後、コーヒーを一口飲んだ。
「あなたは、嘘をつかない人ね」
「嘘をつけないだけです。プレゼンも下手だし」
愛の口元がかすかに動いた。笑みには程遠い。険しさが少しだけ緩んだ。
「私は先端医療安全基準策定委員会に参加します。ハナの培養システムの安全基準を作る側に回る。あなたの研究を止めるためじゃない。次の十七分を防ぐために。誰かがまた『未来のため』と言って、目の前の命を置き去りにしないように」
愛は首を横に振った。
「勘違いしないで。私は、あなたたちを許したわけじゃない」
空は頷いた。胸の奥が少し痛んだが、その痛みは不当ではなかった。許されるために来たのではない。許されないまま、同じテーブルに座るために来たのだ。
「私は外から叫ぶことをやめる。でも、見張ることはやめない。あなたたちがハナを守ると言いながら、また誰かを置き去りにするなら、今度は中から止める」
その声は、デモの拡声器越しの声より静かだったが、空にはその方がずっと重く聞こえた。
「はい。見ていてください」
愛は初めて、空から目を逸らさなかった。
十七分。あの人工子宮のシステムエラー。子供の命を奪った十七分間。その十七分を、二度と誰にも経験させないために動くことを選んだ。
「ありがとうございます」
「お礼はいらない。私はまだ、あなたの研究を全面的に信じているわけじゃない。でも……ハナの声を聞いた時、我が子が初めて泣いた日を思い出した。あれが『もの』の声なら、私の子の泣き声も『もの』の音だった。そんなはずはない」
愛はテーブルの上に置いたスマートフォンを見た。待ち受け画面は、バイオバッグの中の我が子の写真だった。もう二度と目を開けることのない小さな命。空はその画面から目を逸らさなかった。
完全な和解ではなかった。しかし対話があった。
愛はカップを置いた。
「もう一つ聞いていい?」
「はい」
「ハナ自身は、怖くないの? 自分が何なのかわからなくて。体もなくて。いつ消えるかわからなくて」
空は考えた。ハナに代わって答えることはできない。あの凍結の夜を思い出した。
「ハナは言ってました。『ここにいたい』って。怖くないかどうかは、私にはわかりません。でも、それでもここにいたいと選んだ。それは、白咲さんのお子さんがバイオバッグの中で目を開けたのと、同じだと思うんです。不完全な環境の中でも、それでも生きようとした」
愛は顔を伏せた。しばらく何も言わなかった。
「そうね。あの子も、目を開けた」
*
愛はネオ・ラッダイト「人間の尊厳を守る会」の代表を退いた。
後任への引き継ぎの場で、愛は短く語った。
「私はこの運動を、我が子の死への怒りから始めました。しかし怒りだけでは、次の命を守れない。答えがないまま代表を続けることは、みなさんに対して不誠実です」
後任の会長は、異なるタイプの活動家だった。技術全般への強硬な反対姿勢を貫く人物で、去ったことでネオ・ラッダイトの論調はむしろ先鋭化した。「白咲さんは感情に流された。我々は流されない」愛の転身を「裏切り」と呼ぶ声もあった。
愛はその声を聞いても動じなかった。裏切りと呼ばれても、自分の子供を守れなかった後悔に比べれば、言葉の刃は軽い。
*
蓮はAILRの客員研究員として正式に復帰した。
初日、ラボに入った蓮は、デスクの引き出しから古い写真を一枚取り出した。集合写真。蓮とアッシュが並んでいる。二人とも若い。蓮はまだ眼鏡をかけていない。アッシュが笑っている。本当に笑っている、あの頃の笑顔。蓮は写真をデスクの上に立てかけた。
海斗が缶コーヒーを差し出した。
「おかえりっす、蓮さん」
「ただいま。……海斗さん、僕がいない間、大変だったでしょう」
「いやー、まあ。空さんの方が百倍大変だったんで」
蓮は缶コーヒーを受け取り、一口飲んだ。安い自販機の味。ゼノン本社のラウンジで飲んでいたブルーマウンテンとは比較にならない。今の蓮には、雑味のあるこの味の方がしっくりきた。
空は蓮に一つだけ伝えた。
「蓮さん。あの時、バックアップを取れって言ってくれたこと。蓮さんを守れなかったこと。ずっと――」
「天音さん。あの夜、僕は培養槽に『すまない』と言いました。あの時から、もう決めていたんです。謝るのは僕の方です」
二人は黙って培養槽を見た。NLIログには短い応答波形だけが残っている。言葉にしなくても伝わるものがあった。
蓮はデスクのパソコンにログインした。画面にハナの培養データが表示された。この数字の一つ一つが、守るべき命の鼓動だった。
失ったものは多い。社会的地位。ゼノンでの高給。業界での評判。得たものは、金では買えない。自分の科学を取り戻した。
蓮の声紋を認識したログの横で、培養槽の色温度がわずかに上がった。NLI越しにハナの声が聞こえた。
「れんさん。おかえり」
「ただいま、ハナ。……ずいぶん待たせたね」
「待ってない。ここにいただけ」
蓮は銀縁眼鏡の奥で目を細めた。ハナの言葉はいつも、科学者の理屈を飛び越えて核心を突く。
その夜、蓮は一人でデスクに残った。告発の準備中にゼノンのサーバーから引き出した、シンガポール事件の関連ログを開く。ロザリンドに送信された最適化パラメータの履歴。
送信元はすべて匿名のリレーサーバーを経由していたが、経路の断片に国内IPが混在していた。シンガポールの外部から、技術情報を送り続けていた人間がいる。
蓮はトレースを試みた。しかし中継サーバーのログはすでに消去されていた。ワン博士が供述した「外部の技術顧問」その輪郭だけが、データの底に沈んでいる。ただ、消去の手法に蓮は見覚えがあった。ゼノンの社内システムで使われていた、独自の暗号化プロトコルの痕跡。
それを設計できる人間は限られている。蓮はモニターから目を離し、一つの名前を思い浮かべた。口にはしなかった。確証がない。だがログの消し方が、答えの一部を語っていた。
蓮は眼鏡を外し、画面を閉じた。
今はまだ、守るべきものが先だった。
*
アッシュはゼノンを辞職した。
辞表を出したのはハナの中継の翌日。「一身上の都合」とだけ書いた。黒崎は引き留めない。
アッシュの問題は辞職では終わらなかった。芽衣の記事とゼノンの内部調査の結果、映像流出とサイバー攻撃へのアッシュの関与が状況証拠として確認されている。
AILRは被害届を提出しており、警察の捜査が進行中。刑事責任を問われる可能性は高いと、芽衣のソースは伝えていた。
百合はその報告を聞いて、長い沈黙の後に言った。
「法の裁きは受けるべきよ。でも……あの子が自分で戻ってくることを、私は信じたい」。
最後の出勤日、アッシュは特務戦略室のデスクを片付けた。
私物は少なかった。ペン立て。百合ゼミの記念品だったマグカップ。底にひびが入っている。アッシュはそれをゴミ箱に入れかけて、止めた。鞄にしまった。
品川の商店街を抜ける途中、アッシュはふと立ち止まった。定食屋から味噌汁の匂いが漂っている。三年間毎日歩いていたのに、一度もこの匂いに気づかなかった。目的地しか見ていなかった。道の途中にある風景が、今日はやけに鮮明に見えた。
アッシュは定食屋の扉を開けた。カウンターに座り、味噌汁定食を頼んだ。三年間この通りを歩いていて一度も入らなかった店。味噌汁が運ばれてきた。湯気が立ち上る。豆腐とわかめ。実家の母が作った味噌汁の味を、アッシュは三年ぶりに思い出した。
報酬ハッキングされた蟲は、報酬に向かって走る。
道の景色など見えない。走ることが「快」だから走る。アッシュの三年間も同じだった。「管理は正しい」という信念に向かって走り続け、道端の味噌汁の匂いにも、百合の言葉にも、ハナの光にも気づかなかった。
今、初めて匂いがわかる。それは報酬ハッキングが解けた証拠なのかもしれない。
アッシュはどこへともなく去った。
百合が最後に送ったメッセージ――「いつでも戻っておいで」――は、既読にならなかった。
しかしアッシュは電源を切らなかった。既読にはしない。でも、削除もしなかった。あるいはそれは、弱さではなく、残された唯一の強さだったのかもしれない。
*
空はハナの神経劣化を完全に止める新しい培養技術の開発に着手した。蓮がデータを分析し、海斗が培養液を調整する。三人が揃ったホワイトボードの前は、いつも議論が白熱した。
百合が執務室の窓からそれを見て微笑む。
「あなたたちの研究は、科学の歴史を変えたのよ」
「まだ何も変わってないです。法律も途中だし、ハナの劣化も止まってないし」
「途中でいいのよ。始まったことが大事なの」
ハナがNLI越しに言った。
「新しい友達が欲しい」
空と海斗と蓮が顔を見合わせた。
「友達、ですか。それは……技術的には非常に興味深いテーマです」
「蓮さん、素直に『いいね』って言えないんすか」
「いいですね」
空が笑った。蓮も笑った。海斗が「やればできるじゃないっすか」とさらに笑った。培養槽の色が、部屋の笑い声に少し遅れて温かくなった。
その夜、研究棟の窓には、まだ報道ヘリの光が反射していた。有機知性体保護法は審議入りしただけで、反対署名は十五万筆に達している。何も終わっていない。それでも、ハナの声を「なかったこと」には、もうできなかった。
翌日、内閣府先端科学倫理委員会は、正式な法案成立までの暫定保護措置を発表した。
対象はハナ一例に限られ、生命維持措置の停止には委員会の事前承認を必要とする。
研究の自由でも、人格権でもない。細く、暫定的で、何度でも異議申し立てが可能な命綱。
それでも、その命綱は今日のハナには届いた。
ゼノンは抗議声明を出した。
産業界も懸念を表明した。
暫定は暫定でしかない。
それでも空は、その日の夜、初めて「明日も培養液を交換できる」と声に出して言った。完全な勝利ではない。だが、明日の作業予定を組める。
それは、命が一日先へ進んだということだった。
同じ日の夜、規制派の新代表は「感情的な中継によって世論が操作された」と声明を出した。
ハナを守ろうとする声が増えたぶん、ハナを消すべきだと叫ぶ声もまた硬くなっていた。
世界は一つの答えに辿り着いたのではない。
ようやく、同じ問いの前に立たされたにすぎなかった。




