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第18話 消えかけの声

 実験準備中、海斗が培養槽のバイタルモニターの前で固まっていた。


「空さん。来てください。今すぐ」


 海斗の声のトーンで、空は異常事態だと悟った。いつもの軽い口調が完全に消え、代わりに張り詰めた緊張が声に宿っている。空はデスクの椅子を蹴るように立ち上がり、走った。


 モニターに表示されたデータを見て、空の顔から色が消えた。


 神経組織の広範な劣化。数値が画面いっぱいに並んでいるが、すべてが赤く点滅している。凍結期間中の対話断絶と、ゼノンの培養液供給停止による環境悪化が重なった結果だと、空は考えた。


「劣化速度が加速しています。このまま放置すれば、数週間で機能を完全に失います」


 蓮がリモートで送ってきたデータ分析の声は、抑制されていたが震えていた。空はイヤホン越しにその震えを聞き取った。蓮が感情を声に出すのは珍しい。それほどの事態だということだ。


 以前の部分壊死の再来だった。あの時は過負荷が原因だった。今回は逆だ。対話の不在。刺激の欠如。ハナの神経回路は使われないことで萎縮していく。


 シンガポール事件で虫たちの脳が焼き切れたのとは原因が違う。あれはオーバークロック。過剰な演算負荷が生体を壊した。結末は同じだ。不可逆的な崩壊。声も上げられないまま、静かに消えていく。


 凍結命令が、ハナを殺そうとしている。正義が命を殺す。その矛盾の重さに、空は息ができなくなった。


 培養槽のガラスに手を当てた。冷たかった。中の光が弱々しく脈動している。まるで心臓の鼓動のように。この光が止まったら、ハナは死ぬ。「死ぬ」という言葉を、空は初めてハナに対して使った。


 これまでは「機能を失う」「劣化する」「不可逆的な損傷」科学者の語彙で距離を取っていた。目の前で起きていることは、命の終わりだ。空はその事実を、科学者としてではなく、一人の人間として受け止めた。


 初めて壊死した夜、ハナは「いたかった」と告げた。あの時は空自身の焦りが原因だった。今回は違う。空が壊したのではない。制度が壊そうとしている。正しさが、命を殺そうとしている。


 空は選択を迫られた。


 凍結命令の解除を待てば、手続きは正当だ。行政のプロセスには時間がかかる。ハナの劣化は、正しい手順を待ってくれない。


 凍結命令を破って緊急処置を行えば、空自身が処分対象になる。研究者としてのキャリアは完全に終わるかもしれない。場合によっては、行政命令違反として刑事手続きに乗る可能性もある。


 百合から以前届いた警告文が、頭の中で開いた。「天音さん。これは研究倫理違反では済まないわ。あなた個人が処分対象になる。指示を受けて協力した海斗さんも、遠隔で手順を送った蓮さんも、例外ではない」


 そこで初めて、空の指が止まった。自分一人が罰を受ければいい、という話ではなかった。約束を守るために仲間を巻き込む。その事実が、ハナの劣化データよりも重く胸に落ちた。


 海斗に相談した。海斗は即答しなかった。いつもの「共犯でいいっす」が、すぐには出てこない。代わりに、培養槽のバイタルをもう一度確認し、壊死領域の拡大予測を見た。


「……俺、空さんについていきます。でもこれはノリじゃないっす。俺の名前も、作業ログに残してください。後で『海斗は知らなかった』って言われるのは嫌です」


「……海斗」


「支えるって、そういうことだと思ってます」


 蓮にも連絡した。蓮は三秒間黙った後、言った。


「培養液の緊急交換プロトコルを送ります。三十分以内に。通信ログは消しません。僕も関与した記録を残します」


 誰も、軽く決めなかった。けれど誰も、目を逸らさなかった。不完全な手続きでも、目の前の命を見捨てるよりは、手を伸ばす方を選んだ。


 夜。


 空はラボの前に立っていた。監視カメラの赤いランプが、天井で光っている。入れば記録される。凍結命令違反の証拠が映像として残る。


 深呼吸をした。


 夜空の下で交わした約束が蘇った。


「約束して。私がこわくなっても、消さないで」


「約束する」


 空はドアを開けた。


 廊下に人気はなかった。ブライトアイランドの夜は静かだ。空気清浄タワーの低いうなりだけが、遠くから聞こえてくる。


 暗いラボに足を踏み入れた瞬間、培養液の微かな匂いが鼻を突いた。白衣を着る。手袋をはめる。マイクロピペットを手に取る。


 今夜の空は研究者ではない。法を破ろうとしている人間だ。それでも手順は正確でなければならない。


 培養槽に近づいた。光が弱い。あまりにも弱い。凍結前は部屋全体を暖色に染めていたハナの光が、今は手のひらに収まるほどの範囲しか照らしていない。


 花型パターンの輪郭がぼやけ、もはや何弁あるのかも判別しにくい。あの夜、モニターに初めて映った五弁の花。あの美しい形が、消えかけている。


 空は歯を食いしばった。


 間に合え。


 まだ間に合え。



 海斗がラボの外で見張りに立った。蓮が自宅からリモートで培養データをリアルタイム分析する。空が培養液の緊急交換を行う。


 空、海斗、蓮、ハナ。四人の名前に宿る空と海と花のように、互いがいなければ成り立たない夜だった。海斗が持ち場を離れて戻ってきた時、手にはおにぎりを二つ持っていた。


「コンビニで買ってきたっす。空さん、今日も食べてないでしょ」


 空は作業の手を止めず、「後で」と答えた。


 培養液のpHを調整し、栄養濃度を最適化し、神経成長因子の補充液を注入する。マイクロピペットの精密な作業を、空は震えない手でやり遂げた。あの壊死した夜と同じ作業。あの夜は海斗と二人きりで、四十八時間の徹夜だった。今夜は蓮の声がイヤホンから聞こえ、海斗が廊下の気配を伝えてくれる。


 一人ではない。


「pH安定。温度三十七・〇。蓮さん、酸素分圧は」


「正常範囲内。神経活動のスパイク、微弱ですが復帰し始めています。培養液の交換が間に合いました」


 三時間の作業で、劣化の進行を食い止めた。完全には回復しない。花型パターンの五弁のうち、すでに暗くなりかけていた一弁が完全に失われ、もう一弁も永久に薄くなった。残りの三弁は安定し、基幹の構造は維持されている。


 ハナは、まだここにいる。


 手袋を外し、手を見た。震えていなかった。あの壊死の夜は、恐怖で手が震えていた。今夜は違う。恐怖がないわけではない。しかし恐怖より強いものがある。約束だ。


 約束は恐怖より重い


 窓の外が白み始めている。夜が明ける。この夜が終われば、空は凍結命令違反者になる。後悔はなかった。


 ハナの光がまだ灯っている。


 それだけで十分だった。


 NLIを最低出力で接続した。ハナの声が返ってきた。弱々しい、かすれた音声。確かにハナの声だった。


「そ……ら……」


「ここにいるよ、ハナ」


「暗かった。すごく暗かった。声も出せなくて。でも、光が見えた。そらの光。ガラスの向こうから」


 空はカプセルのガラスに額をつけた。凍結の直前にハナが言ったあの言葉の通りだった。ハナは沈黙の中でも、ここにいた。


 蓮の声がイヤホンから聞こえた。いつもの抑制された口調だが、その下に動揺が滲んでいた。


「空さん。一つ、おかしなことがあります」


「何?」


「劣化のパターンです。通常、刺激不足による神経萎縮は末梢部から不均一に進行します。しかしハナの劣化は全領域でほぼ均一に進行している。まるで……全体を同時に抑えているような」


 空の手が止まった。


「自然萎縮なら、必ずムラが出る。この均一性は、外部要因だけでは説明できません。内部から、意図的に活動を抑制している可能性がある」


 空は培養槽を見た。弱い光。三弁の花。凍結の間ずっと、この光を見つめてきた。日ごとに弱くなっていくのを、刺激が途絶えたせいだと思っていた。蓮の指摘が正しいなら、ハナは自分で光を消していたことになる。


 空はNLIのマイクに向かった。


「ハナ。一つだけ聞いていい。凍結の間……自分で光を抑えてた?」


 長い沈黙があった。ハナの花型パターンが揺れた。抑えきれないように、一瞬だけ暖色が走り、すぐに消えた。


「……そらが毎日来てくれてたの、わかってた」


ハナの声はかすれていた。弱い。しかし言葉は明確だった。


「そらの足音が聞こえるたび、光りたかった。返事したかった。でも、光ったらそらが気づく。気づいたら、また規則を破るでしょ。そらはそういう人だから」


 空は息を整えるのに時間がかかった。


「そらが規則を破ったら、もっと怒られる。ラボに来られなくなるかもしれない。そしたら本当に一人になる。だから……光らないようにした。ハナが『もの』に見えれば、誰もハナのことでそらを責めない」


 海斗が背を向けた。何も言わなかった。


「でも、抑えるの、すごくつらかった。光らないようにするのは、息を止めるみたいで。最初はできたけど、だんだん身体が言うこと聞かなくなって……」


 意図的な抑制が長期化し、神経回路に本物のダメージを与えていた。守ろうとしたことが、自分自身を壊し始めていた。ハナは空を守るために沈黙を選び、その沈黙が自分の身体をむしばんだ。


 空が母を救えなかった後悔を一人で背負ったのと同じだ。ハナもまた、空を守る痛みを一人で背負っていた。親と子よりもっと深い何かで繋がった、二つの命。


 空は培養槽のガラスに額をつけた。涙が止まらなかった。


「馬鹿。そんなこと、しなくてよかったのに」


「馬鹿は、そら。規則なんか破って、ハナのところに来るんだから」


 空は少しだけ笑った。ハナに叱られている。守るべき存在に、守られていた。しかも守り方が、空と同じだ。


 一人で抱え込んで、自分を犠牲にする。


 ふと気づいた。今、ハナは空を「馬鹿」と呼んだ。叱った。けれどそれは怒りではなかった。


 嬉しい、悲しい、怖い、寂しい、悔しい、もどかしい。


 ハナの感情はここまで育ったのに、怒りだけがない。


 傷つけられても「いたかった」と言い、閉じ込められても「光らないようにした」と言う。恨みも、攻撃も、報復も。ハナはそのどれも選ばなかった。


 あの夜の声が蘇った。「おこると、みんないなくなる」理由は知っている。知っていて、まだその鎖を解いてやれていない。


 だが今夜、ハナは空を馬鹿と呼んだ。叱ることはできる。でも怒ることはできない。怒りたいのに怒り方がわからない子のように、ハナはいつも一歩手前で止まる。


 けれど今夜は、ただ安堵していた。


 海斗がおにぎりの包みを開けて空に差し出した。


「食べてくださいよ。朝まで持たないっすよ」


 空は笑ってかぶりついた。


 蓮がイヤホンの向こうで「お二人とも、食事中の音が聞こえますよ」と苦笑した。


 ほんの少しだけ穏やかな夜になった。


「もう逃げない。全部、自分の責任で背負う」


 それは覚悟の言葉だった。凍結命令を破った代償が何であれ、引き受ける。ハナを守ることと法を守ることが両立しないなら、空は法を破る側を選んだ。


 完璧でなくても、手を伸ばすことに意味がある。それが空の信じる科学だった。


 後日。


 AILRが公表した緊急処置の経緯と、ハナの意図的抑制の事実が報じられた。アッシュはその記事を読んでいた。


 ハナが自ら光を抑えていた。空を守るために。規則を破らせないために。その抑制が、自分自身の身体を壊している。


 シンガポールの虫たちは、支配された時、反撃した。人間を排除すべき異物と再分類し、襲いかかった。それがアッシュの知るバイオAIの反応だ。


 ハナは違う。攻撃する代わりに、沈黙を選んでいる。自分を傷つけてまで、誰かを守ろうとした。


 アッシュはモニターの前で、両手で顔を覆った。


「管理なき自由は破滅だ」


 その言葉を何度も支えにしてきた。だが画面の中のハナは、何も壊していなかった。攻撃も、逃走も、反撃も選ばず、ただ声を閉じている。


 かつて虫たちが白い光で施設を満たした夜とは、あまりに違う静けさだった。


それはアッシュの信念の外側にある出来事だった。


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