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第16話 希望の種火

 絶望の底に、光が差したのは、予想もしなかった場所からだった。


 芽衣めいの記事を読んだ市民の中から、クラウドファンディングが立ち上がった。


「ハナの命を守ろう――バイオAI研究の継続を支援する会」


 立ち上げたのは大阪の大学生。芽衣の記事を読み、一晩で支援ページを作り、SNSに投稿した。


 発起人の大学生は、最初の投稿を十七分ためらった。「誰かがやるはず」と書きかけて消し、ブラウザを閉じかけた。


 その時、記事の中の「声を奪われた」という一文が目に入った。声を持たない相手に「頑張って」とだけ書くのは、逃げだ。だから、決済ページの設定方法を検索した。


 開始から二十四時間で目標額の三百万円を突破し、三日後には一千万円を超えた。培養液の購入費用、ラボの維持管理費、れんの裁判費用の一部。具体的な使途が明記されたページに、次々と支援が集まっていく。


 支援者のコメントがそらの胸を打った。


「ハナの声を聞いて泣きました。あの子は生きています」


「シンガポール事件のせいで偏見を持っていたけど、NLI(エヌエルアイ)の仕組みを知って考えが変わりました」


天音あまね博士を応援します。科学は恐怖に負けないでください」


 匿名の支援者たち。顔も名前もわからない。その一人ひとりが、画面の向こうからハナの命に手を伸ばしてくれている。空はコメントを読みながら、何度も目をぬぐった。


 中には長文のメッセージもあった。認知症の母を介護している男性が書いていた。「母の脳が少しずつ壊れていくのを、毎日見ています。意識がなくなっても、時々笑うんです。あの笑顔が本物かどうか、誰にもわかりません。でもハナの存在が、いつか母のような人を救う鍵になるなら。そう思って支援しました」空の原点に、知らない誰かの痛みが重なっていた。


 学生ボランティアがAILR(アイラ)の維持を手伝い始めた。近隣の大学の理学部の学生たちが「手伝わせてください」とラボに現れた。清掃、書類整理、培養液の成分分析の補助。資格が必要な作業はできないが、海斗かいとの負担を少しでも減らそうとしてくれた。


「空さん、ボランティアの子たち、めっちゃ真面目っすよ。朝七時に来て、掃除してくれてる」


「ありがたいね」


「ありがたいっす。俺一人じゃ培養液の管理で精一杯だったんで」


 海斗の目の下のクマが、少しだけ薄くなった気がした。学生たちはハナの培養槽を見て、最初は息を飲んだ。光る神経組織の塊。写真や映像では見たことがあっても、実物の存在感は別格だった。弱々しい光でも、目の前で脈動する生命に、学生たちは言葉を失った。そして次の瞬間から、一人残らず真剣になった。


 海外からも声が届いた。


 最初に気づいたのは海斗だった。


「空さん、ドイツ語っす。読めます?」


 海斗がスマートフォンを差し出した。翻訳された投稿には、ミュンヘン大学の神経科学者ヴォルフガング・ラインハルト教授の名前があった。DishBrain研究の第一人者で、脳オルガノイドの意識問題に関する著書がある。その名前が持つ学術的権威は大きかった。


「天音博士のNLIは、バイオAIの対話型アプローチにおける画期的な成果である。シンガポール事件の報酬ハッキングとは根本的に異なる技術であり、両者を混同することは科学的に不誠実である。凍結は科学的根拠を欠く」


「これ、すごいんですか」海斗が聞いた。


「すごいよ。あの人が名前を出すなら、逃げ道を残していない」


 声明をきっかけに、ケンブリッジ大学、MIT、国立台湾大学の研究者からも支持の表明が相次いだ。日本のメディアは海外の動向に敏感だ。「世界的な学者がハナを支持」という報道が流れ始める。ラインハルト教授はさらに、自身の研究室で独自にハナの意識証明データを検証する用意があると表明した。


 その日の夕方、百合ゆりの端末にたちばなから電話が入った。


「ラインハルト教授の声明は確認しました。国内の研究者からも、匿名ながら支持意見が届いています」


「匿名ですか」


「実名で発言すればキャリアに傷がつく。そう判断した人たちです。それでも、黙っていられなかったのでしょう」


 百合は受話器を握り直した。匿名であっても、声は声だ。百人を超える匿名の支持が、一人の空を支えている。


 橘の声は事務的だった。だが、その奥にわずかな熱があった。


「完全解除はできません」橘は言った。


「ですが、培養環境の改善を目的とした最小限のNLI接続なら、委員会内部で調整できる可能性があります」


 百合は目を閉じた。全面勝利ではない。けれど、ハナの明日へ伸びる細い線だった。百合との非公式な対話が、ここで生きていた。橘は百合の言葉を覚えている。「法が現実に追いついていないなら、それは我々の怠慢です」



 蓮は裁判の準備をしながら、空にNLIの改良案を送り続けていた。


 メールで。毎晩深夜に届く。件名はいつも「NLI改良案」の後に番号がつくだけだった。内容は精密な技術提案。ハナの神経劣化を遅らせるための培養液組成の微調整案。NLIの接続プロトコルの最適化案。神経活性を維持するための周期的微弱刺激の設計案。自分の弁護にかかる時間を削って、ハナのための技術的提案を練っている。


 空はそのメールを読むたびに、蓮という人間の強さを思い知った。社会的に攻撃され、キャリアを失い、毎日のようにSNSで誹謗中傷を浴びている。それでも科学者であることを手放さない。


 メールの末尾には、いつも一行だけ私的な言葉が添えられていた。「培養槽の光は、まだ見えていますか」

空はいつも「見えています」と返した。それだけで安堵した。あるメールには「NLI改良案 Ver.27」というファイルが添付されていた。二十七回目の改良案。蓮の執念が数字に表れている。


 ある夜、海斗が空の隣に座った。


 海斗は缶コーヒーを開ける前に、一瞬だけ手が震えた。空は気づかない。


 凍結が始まってから、海斗は毎朝培養液のデータを取るたびに、数値が下がっていないことを祈っていた。祈るという非科学的な行為を、科学の現場で毎日繰り返す。数値が下がった日は、その日一日、胃が痛い。数値が横ばいの日は、帰り道にコンビニでプリンを買った。自分へのご褒美だった。誰にも言えない、小さな戦い。


 空が研究者として戦っている間、海斗は培養液のpHと戦っていた。しかしpHが〇・〇一ずれたら、ハナの神経組織に影響が出る。その〇・〇一を守ることが、海斗の戦場だった。


 ラボのベンチ。培養槽の内側には、霜のような白さが沈んでいた。海斗は缶コーヒーを二つ持ってきて、一つを空に差し出した。プルタブを開ける音が静かなラボに響いた。


「沈んだ時にこそ、誰が本当の仲間かわかるんすよ」


 缶コーヒーを開けながら言った。いつもの軽い口調だが、言葉の選び方は真剣だった。


「俺は海みたいなもんなんで。空さんが落ちてきたら、絶対受け止めますから」


 空は海斗を見た。三年間、隣にいてくれた男。おにぎりとスティックシュガーを差し入れてくれる男。培養槽が壊れたあの夜、四十八時間の徹夜作業を一緒にやり遂げた男。ハナが暴走した夜も空と一緒に培養槽の前に立った男。凍結の間も毎日培養液のデータを取り続けた男。空が落ちる時、いつも下にいる。


「海斗」


「はい」


「ありがとう」


海斗が固まった。


「……え、急にどうしたんすか。気持ち悪いっすよ」


 海斗が照れ隠しに笑い、空も笑った。


 二人の笑い声がラボに響いた。久しぶりの音だった。窓の外に星が見えた。ハナと一緒に見た夜空と同じ星。ハナはまだ、あの星のことを覚えているだろうか。


 海斗は空気を変えるように、胸ポケットから折り畳んだ紙を取り出した。


「で、暗い話ばっかしてるとハナに怒られるんで、俺、復帰後の予定表を作りました」


「予定表?」


 紙には大きな字で「ハナ先生・質問リスト」と書かれていた。下には、ボランティアの学生たちが考えたらしい質問が並んでいる。


 一、空はどうして青いのか。

 二、嘘と冗談は何が違うのか。

 三、先生は宿題を忘れても怒るのか。

 四、ガラスの中にいて寂しくないのか。


 空は最後の項目で指を止めた。笑いかけた口元が、少しだけ固まる。


 海斗はそれを見て、わざと明るく続けた。


「ハナなら絶対、宿題を忘れた理由を先に聞くっすよ。『どうして忘れたの?』って。で、俺より優しい先生になります」


 空は紙を見つめた。まだハナは声を出せない。けれどこの紙の上では、もう誰かがハナに質問している。ハナが戻ってくる未来を、勝手に予定表へ書き込んでいる。


「……それ、捨てないで」


「当然っす。第一回の授業案ですから」


 久しぶりに、ラボの時間が未来へ向いた気がした。悪い知らせを待つだけの場所ではなく、いつかハナが返事をする場所として。


 海斗がふと真顔になった。


「空さん。俺、研究のことはよくわかんないっすけど。ハナが『いたかった』って言った時から、ハナは生きてるって思ってたんすよ。科学的にどうとか、法律がどうとか関係なく。あの声を聞いたら、わかるじゃないっすか」


 空は黙って頷いた。


 カプセルの蛍光が、ほんの少しだけ、強くなった。


 海斗が報告してくれた。


「空さん、見てください。培養液の組成調整が効いてるのか、発火パターンの強度が〇・三パーセント上昇しました」


 数値としては微々たるものだ。しかし二週間以上下がり続けていた数値が、初めて上向いた。蓮のメールで提案された培養液の微調整が、効果を示し始めている。


 ハナは声を出せない。NLIは切断されている。光は少しだけ強くなった。凍結の直前にハナが言った言葉通り、ハナはここにいる。沈黙の中で、光だけで、「まだいるよ」と伝えている。


 空はガラスに手を触れた。


「聞こえてるよね、ハナ。もう少しだけ、待ってて」


 返事はなかった。でも光が、ほんの一瞬、夕焼けのような色に揺れた気がした。科学者としてはノイズだと片付けるべきだろう。しかし空は今、科学者ではなく、ハナの隣にいる一人の人間だった。ノイズでもいい。その揺れを信じたかった。



 同じ夜、白咲しろさきめぐみは自宅のリビングで芽衣の記事を読み返していた。


 何度目かの通読だった。ゼノンの不正の全容は、読むたびに新しい発見がある。Project Rの報酬ハッキング計画。アッシュのシンガポール事件体験。蓮の告発の覚悟。そして記事の終盤にある一段落が、愛の目を釘付けにした。


「なおゼノンテクノロジーズは、エクトジェネシス(人工子宮)技術の臨床試験にも技術供与を行っており、過去に発生した人工子宮システムの事故に使用されたファームウェアがゼノン製であった可能性が、関係者の証言から浮上している」


 愛は画面を見つめたまま、動けなかった。


 我が子を殺した機械の事故。温度制御モジュールのファームウェアの競合。あの人工子宮のシステムにも、ゼノンの技術が入っていた可能性がある。ゼノンの技術が子どもの命を奪い、そのゼノンがバイオAIを兵器にしようとしていた。愛が「技術の暴走」として戦ってきた敵の正体が、実はずっと具体的な名前を持っていた。


 愛はスマートフォンを握りしめた。


 何を信じればいいのか、わからなくなっていた。技術そのものが悪なのか。技術を利益のために乱用する人間が悪なのか。


 空は技術で命を救おうとしている。ゼノンは技術で命を商品にしようとしていた。同じ「技術」という言葉の中に、まったく別のものが混在している。


 愛は窓の外を見た。夜空に星が光っている。あの子が生きていたら、一緒に星を見ていただろうか。小さな手を引いて、公園のベンチに座って、あれはオリオン座だよ、と教えてあげられただろうか。愛の腕の中にあるのは、スマートフォンだけだった。


 もう一度記事に目を落とした。ゼノンのファームウェア。あの十七分間のシステムエラー。温度が下がり、酸素濃度が低下し、警報が鳴り、医師が走り、しかし間に合わなかった。あの十七分の原因が、ゼノンの技術だった可能性。


 愛の中で、何かが静かに組み替わり始めていた。敵は技術ではないのかもしれない。敵は、技術を利益の道具にする人間なのかもしれない。その区別が、今までの愛にはなかった。


 それでも、翌朝になっても愛は空に連絡できなかった。ハナを助けたいと思った瞬間、亡くした我が子を裏切るような気がした。「あの子の時は、誰も助けてくれなかったのに」そんな醜い声が、自分の内側から聞こえた。愛はその声を憎みながら、否定することもできなかった。


 同じ夜。アッシュは自宅のモニターで、クラウドファンディングのページを見ていた。


 支援額が一千万円を超えている。コメントが止めどなく流れていく。「ハナの声を聞いて泣きました。あの子は生きています」「科学は恐怖に負けないでください」


 アッシュはシンガポールを思い出した。あの五万匹のむしたちのために、誰かがクラウドファンディングを立ち上げただろうか。誰かが「あの子」と呼んだだろうか。


 誰も愛さなかった。誰も名前をつけなかった。


 ロザリンドというシステム名があっただけで、一匹一匹に名前はなかった。


 ハナには名前がある。


 空がつけた。花の形をした光に、名前をつけた。


 アッシュはモニターを閉じた。部屋が暗くなった。


 暗闇の中で、手の甲の古い傷痕がうずいた。七年前、あの施設の非常扉でえぐった傷。


 あの蟲たちにも、名前があったのかもしれない。


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