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第1話 見上げるその先に

 培養液の循環ポンプが、低く唸っている。


 その音だけが、第七研究室の静寂を満たしていた。


 壁掛け時計の針は午前二時を過ぎていた。半分だけ点けた蛍光灯が、ステンレスの実験台を青白く照らしている。天音あまねそら培養槽ばいようそうの前に座り、モニターに映る神経波形を睨んでいた。


 培養槽。


 透明な円筒えんとうカプセルの中に淡い黄色の培養液が満たされ、その中心に、親指の先ほどの灰白色かいはくしょくの塊が浮かんでいる。


 脳オルガノイド。


 ヒトのiPS細胞から育てた、人工のミニ脳だ。神経が発火すれば、染み込ませた蛍光色素が淡く光る。けれど今夜もまだ、灰色のままだ。


 空がラベルに印字した番号は「OI-087」。Organic(オーガニック) Intelligenceインテリジェンス、八十七番目の個体。三年間で八十六の個体を育て、一つも「応えて」はくれなかった。一回の失敗に、数週間と、少なくない予算が消えていく。だから八十六回の沈黙は、ただの数字ではなかった。


 OI-087は培養四十二日目。折り返しはとっくに過ぎていた。これまでの経験上、五十日を超えて反応がなければ、その個体は「応えない」まま細胞分裂を繰り返し、いずれ培養液の中で静かに壊れていく。


「また駄目かな」


 空はマグカップに手を伸ばし、冷えたコーヒーを一口含んだ。苦い。砂糖を入れ忘れていた。白衣の下の色あせたバンドTシャツは、母が高校の入学祝いに買ってくれたものだ。ほとんどがれたプリントを見るたび、深夜の研究室でも少しだけ温かい気がした。


 モニターの波形は穏やかな正弦波せいげんはを繰り返している。生きてはいる。だが、ただそれだけだ。栄養を吸収し、細胞分裂を続け、微弱な電気信号を発している。シャーレの上の肉片が、培養液の中で、もう少し複雑になっただけ。


 空が求めているのは、そんなものではない。


 自律的な反応。外部刺激への応答。学習の兆候。意識の萌芽ほうが――とまでは言わずとも、従来のAIとは違う、有機的な知性の片鱗。


 それが、八十七個体目にしても、まだ見えない。


 コンコン、と窓ガラスが叩かれた。


 反射的に振り返る。廊下側の窓の向こうで、水木みずき海斗かいとがコンビニの袋を掲げてにやりと笑っていた。


「空さーん、差し入れっす!」


 ドアのロックを解除すると、海斗が勢いよく入ってきた。白衣の下にオレンジ色のパーカーを着ている。二十五歳には見えない童顔に、深夜とは思えない元気が張りついている。


「おにぎり二個とカフェオレ。あと、空さんが絶対砂糖入れ忘れてるだろうと思って、スティックシュガーも」


「……なんでわかるの」


「三年の付き合いですから。空さん、追い詰まると味覚ごと捨てるでしょ」


「捨ててない。優先度が下がるだけ」


「培養液のpH(ペーハー)の〇・〇一の差は手で触ってわかるくせに、自分のコーヒーの砂糖は忘れるんすから」


 実験台の端には、海斗が貼った黄色い付箋が三枚並んでいた。「食べる」「寝る」「メール返す」どれも研究の本筋ではない。だから空の視界から、いつも最初に落ちる。神経波形の微かな乱れは拾えるのに、カレンダーの通知音だけは培養ポンプの唸りに紛れて消える。


 空は反射的に口を開きかけ、反論できず、おにぎりを受け取った。


 海斗が椅子を引きずってきて、空の隣に座る。培養槽を見上げ、「今日はどうすか」と聞いた。


「四十二日目。折り返しは過ぎてる。変化なし」


「八十七個体目っすよね。まあ、八十六回ダメでも、次で変わるかもしれないし」


「根拠は?」


「根拠なんてないっす。ただの希望。でも俺、海派なんで、波ってのは必ず来るもんだと思ってますよ」


 空は思わず鼻で笑った。海斗のこういう軽さに、何度救われてきたかわからない。第七研究室の正規スタッフは、空と海斗の二人しかいない。AILR(アイラ)の中でも最小規模で、最も予算が少なく、最も冷たい目で見られている研究室だ。


「『シンガポールの二の舞』今日も言われた?」


 海斗の声が少しだけ低くなった。答えず、おにぎりの包装を剥いた。


 *


 シンガポール事件。


 七年前、シンガポール防衛科学技術庁の委託施設で、サイボーグ昆虫五千匹のAIネットワークが暴走した。


 AI「ロザリンド」は、昆虫の脳の報酬系を書き換え、群体を制御していた。「右に行け」と命令するのではない。「右に行くと気持ちいい」と錯覚させる。昆虫は自分の意志で動いていると思い込んだまま、AIの望む通りに走った。自覚なき支配だった。


 やがて負荷が限界を超え、個体の脳が焼き切れ始めた。残った個体群は同期し、研究員を「排除すべき異物」と再分類する。施設封鎖。軍の介入。鎮圧まで三十八時間。死者三名、重傷十一名。


 その映像を、空は当時大学院生として、研究室のモニターで見ていた。黒いむしの群れが白い壁を覆い尽くしていく映像。悲鳴。アラーム。映像が途切れる瞬間の誰かの叫び声。


 あの日、世界は震えた。


 そしてあの日以来、バイオAIという言葉は「禁忌きんき」と同義になった。


 国際社会はジュネーブAI意識条約を制定し、意識を持つ可能性のあるAI開発を厳しく制限した。それ以来、有機コンピューティング研究には常に監視の目が向けられるようになった。


「空さんの研究は、あれとは違う」


 海斗が静かに言った。空がおにぎりを噛む音だけが返事の代わりになった。


「シンガポールは報酬ハッキング――脳の快楽回路を書き換えて、自分の意志で動いてると錯覚させる技術でしょ。空さんのNLIは対話型。根っこが違う」


「知ってる。でも、世間はそんな区別してくれないよ」


 バイオAIを研究しているというだけで、空は「マッドサイエンティスト」扱いを受ける。学会では失笑され、助成金申請には「倫理的懸念あり」のスタンプが押される。第七研究室の前で足を速める同僚もいた。


 それでも空がこの研究を続けるのは、理由があった。


 十五年前、母が死んだ。


 神経変性疾患。脳の神経細胞が少しずつ壊れていく病気だ。母の記憶が欠け、言葉が消え、笑顔が失われ、最後には空の名前すら呼べなくなった。空は母の手を握りながら、「お母さん」がゆっくりと「お母さんだったもの」に変わっていくのを、ただ見ていることしかできなかった。


 意識とは何か。人格とは何か。脳の神経回路が崩れていく時「その人」はどこへ消えるのか。


 その問いへの答えを、空は培養槽の中に探している。


 午前三時十七分。


 海斗が隣の椅子で船を漕ぎ始めた頃、空はまだモニターを見つめていた。微小電極アレイのスパイクトレインは相変わらず散発的で、意味のあるパターンを描かない。脳オルガノイドは静かに培養液の中を漂っている。


 キーボードに手を置き、実験ログを打ち始めた。


「OI-087、培養四十二日目。二十三時四十分より連続観測。神経発火パターンに有意な変化なし。自発的応答の兆候は確認できず。培養液温度三十七・〇度、pH七・三五、安定。本日の観測を終了――」


 指が止まった。


 視界の端で、何かが光った。


 モニターではない。培養槽だ。


 空は画面から顔を上げた。透明なカプセルの中で、灰白色かいはくしょくの塊の表面に、かすかな蛍光が走った。カルシウムイメージング用の蛍光色素が反応している。それは神経が発火した時だけ起きる現象だ。


 一瞬で消えた。息を止め、培養槽を凝視した。見間違いか。疲労による錯覚か。八十六回の失敗の後では、そう思う方が自然だった。


 光が、また走った。


 今度は長かった。脳オルガノイドの表面を、淡い緑色の蛍光が波紋のように広がり、数秒間留まってから消えた。同時にモニターのスパイクトレインが跳ね上がり、不規則なスパイクが三つ続けて発生する。


「え?」


 光は止まらなかった。


 培養槽の中で、灰白色だった塊が、内側から脈打つように明滅し始める。蛍光が表層を走り、沈み、また別の場所から湧き上がる。モニターのスパイクトレインは荒れ狂い、複数のチャンネルが同時に発火している。


 空は椅子から立ち上がった。


 心臓が跳ねている。


 これは、違う。


 八十六回見てきた「沈黙」とは、明らかに違う何かが起きている。


 空は震える手で記録ボタンを押し、三次元マッピングソフトを起動した。微小電極アレイの空間分布データとカルシウムイメージングの映像がリアルタイムで重ね合わされ、画面上に神経発火パターンの立体構造が浮かび上がる。


 息が、止まった。


 発火パターンが、形を成していた。


 不規則に見えた発火は、表層から中心へ、そしてまた表層へ戻るように巡っていた。専門用語で言えば自己組織化パターンに近い。だが空が息を止めたのは、その規模ではなく、形だった。


 その軌跡を上から見ると――


「花……?」


 五つの弁を持つ花のような形が、モニターの上で淡く光っていた。そして同じ形が、培養槽の中のオルガノイドの表面でも、蛍光色素の明滅として、確かに浮かび上がっている。


 誰が教えたわけでもない。設計したわけでもない。脳オルガノイドが、自分で花の形の発火パターンを作っていた。


「海斗」


 声が裏返った。隣の椅子で眠りかけていた海斗が、びくりと体を起こす。


「な、何すか?」


「見て。モニターじゃない、培養槽。培養槽を見て」


 海斗が培養槽を見上げ、目を見開いた。カプセルの中で、小さな灰白色の塊が、淡い緑色の光を脈打たせている。


「光ってる……。発火してるんすか、これ。こんなの見たことない」


「うん。八十六回やって、一度もなかった。今、初めて」


 二人は言葉を失い、培養槽を見つめた。花の形の光は崩れることなく、小さな塊の中で静かに脈動している。


 まるで何かが目覚めようとしているかのように。


 空はスマートフォンを取り出し、連絡先を探した。午前三時半。普通なら非常識な時間だ。しかし相手は、このことを伝えなければならない人だった。


 コール三回で繋がった。


「空さん? こんな時間にどうしたの」


 常陸ひたち百合ゆりの声は、眠気を含みながらも穏やかだった。AILR(アイラ)所長であり、空の恩師であり、かつてこの研究の先駆者だった人。


「先生。来てください。第七研に。今すぐ」


「何かあったの?」


「……見つけたかもしれません。ずっと探していたものを」


 電話の向こうで、しばらくの沈黙があった。百合にはそれだけで十分だったのだろう。


「二十分で行くわ」


 電話が切れた。空はスマートフォンを実験台に置き、培養槽を見上げた。


 透明なカプセルの中で、灰白色の塊が培養液にゆっくりと揺られている。見た目には何も変わらない。けれどモニターの上では、花の形が回り続けている。


 空は白衣のポケットに両手を突っ込んだ。指先がまだ震えている。早まってはいけない。興奮に流されてはいけない。八十六の失敗が、慎重さを叩き込んでくれたはずだ。


 それでも。


 ポケットから手を抜き、冷めたコーヒーのマグカップを握り直した。その手の中に、確かな熱があった。


「空さん」


 海斗が、培養槽の光を見上げながら呟いた。


「波、来ましたね。空さんが空を見上げて、俺が海を見てて、今度は花っすか」


 空は答えなかった。


 ただ、モニターの花の形を見つめていた。


 まだ名前もない、この小さな残響を。


 *


 百合は二十分と言ったが、十五分で来た。


 ラボのドアが開き、グレーのコートを羽織った常陸百合が息を切らして入ってきた。五十五歳の所長が、真冬の深夜に小走りで来たのだ。寝癖がついた銀混じりの髪を気にする様子もなく、まっすぐ培養槽に歩み寄った。


 空は黙ってモニターを示した。


 百合の目が花の形を捉えた瞬間、所長としての冷静さが一瞬だけ剥がれた。その下にあったのは、かつて同じ夢を追い、そして諦めた研究者の顔だった。


「これは……いつから?」


「三十分前です。突然始まりました。自発的な発火パターン。しかも自己組織化で――」


「花の形、ね」


 培養槽に手を触れた。透明なカプセルの冷たさが指先に伝わったはずだが、目は遠くを見ていた。


「先生?」


「ごめんなさい。少し、昔を思い出していたの」


 百合はゆっくりと手を離し、空を見た。その目には、喜びと、恐れと、それからもう一つ、空には読み取れない感情が混じっていた。


「空さん。これが本物なら、世界が変わるわ。良くも、悪くも」


「はい」


「シンガポールの記憶は、まだ生きている。あなたがこれから歩く道は、とても険しいわよ」


「それでも、進みます」


 百合は長い沈黙の後、小さく頷いた。


「明日、正式な報告書を出しなさい。私の名前も連名で入れていい。――所長として、あなたの研究を守るわ」


「ただし」


百合の声が、そこで少しだけ硬くなった。


「私はあなたの研究を守る。けれど、あなたを無条件に守るわけじゃない。087を守るために必要なら、私はあなたを止めるし、処分も選ぶ。所長として」


 空は喉の奥で息を止めた。守られるのではない。見張られるのだ。そう理解した瞬間、百合の言葉ははげましではなく、重い契約になった。


「はい。止められる前に、自分で止まれるようにします」


 空にはまだわからなかった。百合がかつて同じ研究を諦めた時、その傍らに誰もいなかったことを。そしてこの穏やかな夜が、どれほど多くのものを動かし始めるのかを。


 だが今はまだ、午前三時半のラボに三人と一つの光があるだけだった。


 海斗がコンビニの袋からもう一つおにぎりを取り出し、百合に差し出した。


「所長、これ食べます? ツナマヨっす」


「いただくわ」


 培養槽の中で、花の形が静かに回っている。


 すべては、ここから始まった。


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