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最後の手紙は、まだ届かない

作者: やはうぇ
掲載日:2026/03/15

 序章 五月の机

 五月の教室は、黄緑色の光に満ちている。

 窓の外の欅が一斉に葉を広げて、午前の日差しをやわらかく砕いて落とす。その光の中で、蒼井陽斗はいつものように一番後ろの席に座り、誰とも目を合わせないようにしながら、ノートの端に文字を書いていた。文字というより、言葉の断片だ。物語になる前の、まだ形を持たない何か。

 陽斗には、声に出せない言葉が多かった。

 代わりに書いた。中学のころから、ずっとそうしてきた。書けば、言葉は逃げない。紙の上に置いておけば、自分の内側を通り過ぎたものが、ちゃんとそこに残る。それが陽斗にとっての、世界との唯一の接触方法だった。

 一時間目が始まる前、教科書を机の中に押し込もうとして、指が何かに触れた。

 紙だった。

 折り畳まれた、白い便箋。

 陽斗は首を傾けた。昨日の放課後、この机は空だった。確かめたわけではないが、そういう確信があった。

 広げると、罫線のない白い便箋に、几帳面な文字で一行だけ書いてあった。

 君は今日、まだ大切な人に出会っていない。

 差出人はなかった。

 陽斗はその紙を三秒ほど眺め、几帳面な悪戯だと思って机の奥に押し込んだ。その文字が、どこか自分の筆跡に似ていることに、陽斗は気づかないふりをした。でも指先に、かすかな震えがあった。その震えの理由を、陽斗はうまく説明できなかった。

 窓の外で欅が揺れた。光が教室の床に、複雑な模様を描いて揺れた。

 その模様を見ていたから、扉が開く音に気づくのが遅れた。

「失礼します」という声がして、陽斗は顔を上げた。

 担任の中村が戸口に立っていた。その隣に、見知らぬ女の子がいた。

 セーラー服。少し不揃いな前髪。左手に、一冊の文庫本を抱えていた。窓からの風を正面に受けて、髪が静かに揺れている。教室中の視線が集まっているのに、その子は少しも怯まなかった。ただ、まっすぐ前を向いていた。背筋が伸びていた。怖くないのではなく、怖くても立っていられる——そういう種類の真っ直ぐさだった。

「白瀬透花さんです。今日から皆さんのクラスメートになります」

 その名前を耳にした瞬間、陽斗の胸の奥で、何かが微かに鳴った。

 鐘の音ではない。もっと小さい。しかし確かな、何かが始まる音。

 理由は、わからなかった。

 透花は教室を見渡して、一瞬だけ陽斗の方を見た。見た、というより——見つけた、という顔をした。長い時間をかけて誰かを探していて、やっと見つけた人間の顔を。

 小さく口が動いた。

 陽斗には読めなかった。でもその唇が作った形は、どこかで見たことがある気がした。夢の中で、あるいはまだ書かれていない物語の中で。

 ずっと後になって、その形の意味がわかる。

 やっと会えた。


 一章 雨の予言

 透花の席は、陽斗の二つ前になった。

 最初の数日、陽斗は彼女を観察した。観察、というのが正確かどうかわからないが、目が向いた。意識していなくても、気づくと透花がいる方向を見ていた。

 彼女はよく笑う子だった。誰にでも、同じように。でも笑いながら、どこか遠くを見ているような目をすることがあった。教室の窓の外、欅の向こうの空。そこに何があるのかわからないが、透花には見えているものがある気がした。見えている、というよりも——知っている、という目だった。

 転校初日の昼休み、透花は陽斗の前に来た。

「蒼井くん」と呼ばれた。名乗ってもいないのに。

「……知ってるの、俺のこと」

「名簿で覚えた」と彼女は言った。「あと、顔を見ればわかる」

「何が」

「書く人の顔」

 陽斗にはその意味が分からなかった。でもその言葉を言うとき、透花は陽斗をまっすぐ見ていた。品定めではなく、確かめている目だった。何かを確かめて、そっと安堵したような——。

 机に目を向けた。

 はっとして陽斗はノートを閉じた。開いたまま置いていた、言葉の断片を書き込んだノートを。

「国語の教科書、忘れたんだけど」と透花は言った。「今ちょっと見せてもらえる?」

 それだけのことだった。でも透花は教科書を横から覗き込みながら、ページをめくるたびに何か小さなことを言った。この書き出しは好き。この詩は難しい。この随筆、書いた人どんな顔してるんだろう。

 陽斗は返事をするのが苦手なはずなのに、気づけば少し話していた。

 昼休みが終わるとき、透花は「ありがとう」と言って席に戻った。その背中を見ながら、陽斗は机の奥の紙のことを思い出した。

 君は今日、まだ大切な人に出会っていない。

 出会っていない、という言葉が、今なら違う意味に読めた。


 次の手紙は、一週間後に来た。

 朝、机の中に手を入れると、また白い紙があった。折り方まで同じだった。几帳面な文字も、同じだった。

 来週の雨の日、彼女を一人で帰らせるな。

 陽斗は今度は捨てなかった。

 来週の雨の日。天気予報を調べると、木曜日に雨マークがついていた。彼女、というのが透花を指すのかどうかわからなかった。でも他に思い当たる「彼女」がいなかった。

 木曜日、その日は朝から雨だった。

 放課後、透花は傘を持っていなかった。昇降口の前に立って、降り続ける雨を見ていた。困っている、というより、眺めている顔をしていた。

「傘」と陽斗は言った。「一本しかないけど」

 透花は振り返った。少し驚いたような顔をした。驚いた、というより——安堵した顔だった。ずっと張っていた何かが、少しだけ緩んだような。

「いいの?」

「駅まで同じ方向だから」

 二人で一本の傘に入って、雨の中を歩いた。傘が小さくて肩が触れる。陽斗の反対の肩が半分濡れた。透花は気づいて「もっとこっちに」と言って、傘を自分の方から陽斗の方へ傾けた。今度は透花の肩が濡れた。

「逆じゃないか」と陽斗は言った。

「いいの」と透花は言った。「慣れてるから」

 何に慣れているのか、聞く間もなかった。

 陽斗はちらりと透花の横顔を見た。雨が前髪を湿らせていた。透花は気にする様子もなかった。むしろ、少し——幸せそうだった。こんな小さなことで幸せになれる人間の顔をしていた。それが何故なのか、陽斗にはわからなかった。

 交差点で透花は立ち止まった。「私、こっちだから」と言って、角を指した。

 踵を返しかけて、止まった。

 一秒か、二秒か。

 風が吹いて、雨の音が少し大きくなった。その一秒の間、透花の肩が、ほんのわずかに揺れた。

「気をつけて」と陽斗は言った。

 透花はきっぱりと角を曲がった。振り返らなかった。

 陽斗はその角を、しばらく見ていた。透花がもう見えなくなってからも、見ていた。

 その夜、陽斗はノートに書いた。雨の音のこと。傘が傾いたこと。交差点で透花の肩が揺れたこと。うまく書けなかった。でも書かずにいられなかった。

 書く、ということは、残したい、ということだ。

 その気持ちに気づいたのは、その夜が初めてだった。


 二章 透花という謎

 六月になった。

 陽斗と透花は、自然に一緒にいるようになった。

 正確には、透花がいつも陽斗を見つけた。図書室に陽斗がいると透花が来た。屋上のベンチに陽斗がいると透花が来た。まるで陽斗の居場所を最初から知っているように。

「どうして俺を探すんだ、いつも」とある日陽斗は聞いた。

「探してないよ」と透花は言った。「いるところにいるだけ」

「同じところが好きなんだろうね、私たち」

 それだけ言って、透花は持ってきた文庫本を開いた。次の言葉が必要ない、という静けさが来た。

 その静けさが、陽斗にはすこし心地よかった。

 ある六月の午後、図書室で透花は一冊の文庫本を手に取って、ページを繰り、静かな声で読んだ。司書にも聞こえないくらいの、ほとんど息に近い声で。

「——どんな人間も、誰かに読まれることで、初めて存在する。書かれた言葉は、読まれて初めて生きる。だから書くことは、誰かを生かすことだ。」

 陽斗は本の表紙を見た。知らない作家の名前だった。

「好きな一文?」

「うん」と透花は言った。本を閉じて、棚に戻した。「でも今日は、君に聞いてほしかっただけ」

 なぜ今日、なぜ自分に。そう問い返す前に、透花は別の本を手に取っていた。

 透花はよく物語の話をした。好きな作家のこと。好きな一文のこと。どんな物語が心に残るか。語るとき、透花の目は少し遠くなった。物語の中の景色を見ているような目。

「どんな物語が好き?」と陽斗は聞いた。

 透花は少し考えた。

「届かなかったものが、最後に届く話」と言った。

「届かなかったもの」

「手紙でも、気持ちでも。間に合わなかったものが、時間をこえて届く話。そういうの読むと、なんか」

 透花は言葉を止めた。窓の外を見た。

「なんか、よかったって思える気がして」

 よかった、というのが何に対してなのか、陽斗にはわからなかった。透花はそれ以上何も言わず、ただ窓の外を見ていた。

「透花」と陽斗は言った。

「なに」

 何、と言いたかったわけではなかった。ただその横顔を、もう少し見ていたくて、名前を呼んだ。

 透花は振り返って笑った。「なんでもない、って顔してる」

「……そうかもしれない」

「正直だね」

 遠くを見ているのに、今ここにいる。そういう顔で笑う人間を、陽斗はそれまで知らなかった。後から思えば、その笑い方が好きだった。


 その夜、陽斗は手紙をもう一度読んだ。

 来週の雨の日、彼女を一人で帰らせるな。

 その言葉の裏に、もし一人で帰らせたら、という前提がある。何かが起きる、ということが前提にある。

 誰が知っていたのか。

 そして、あの几帳面な筆跡のことを考えた。

 似ている。確かに似ている。でも自分が書いたはずがない。

 陽斗は考えることをやめて、ノートを開いた。書くことだけが、答えを持たない問いに耐える方法だった。透花のことを書いた。声に出せない言葉を、全部。


 三通目の手紙は、七月の初めに来た。

 夏祭りの日、君は後悔する。

 後悔する。

 過去の二通は行動を示す命令形だった。でも三通目はただ告げるだけだった。防ぎ方を教えない。

 陽斗はその紙を机の奥深くに押し込んだ。

 見たくない言葉というものがある。

 でも目を閉じると、白い紙の上の几帳面な文字が浮かんだ。その文字が、やはり自分の筆跡に似ていることに、陽斗はもう一度、気づかないふりをした。


 三章 夏の重力

 七月が深くなると、虫の声が窓から入ってくるようになった。そのころから透花は、ときどき不思議なことを言うようになった。

「もし私がいなくなったら、どうする?」

 放課後の図書室で、突然そう言った。

 陽斗は本のページから目を上げた。「転校するのか」

「そういう意味じゃなくて」

「どういう意味だ」

 透花は答えなかった。窓の外を見た。夏至も過ぎ、少し傾いた太陽が放つ光が、青々とした欅の葉を透かして揺れていた。透花の目が、少しだけ赤くなっている気がした。陽斗は気のせいだと思った。思うことにした。

「陽斗はちゃんと前に進める人だから」と透花は言った。

「別に、そんなことはない」

「ある」透花は静かに言った。「私には見えるよ」

「何が」

「先のこと」

 透花は少しだけ笑った。悲しいのに笑っている——という種類の笑い方だった。陽斗はその笑い方を、この夏初めて見た気がした。

「透花」

「なに」

 言いたいことが、言葉になる前に消えた。手を伸ばしそうになって、止めた。透花の横顔があまりに真剣で、言葉を差し込む隙間がなかった。

 その夜、陽斗は長い時間、ノートの前に座っていた。

 透花が言った言葉を書き留めた。全部。転校初日の「書く人の顔」から、今日の「先のことが見える」まで。並べてみると、何かの輪郭が見えそうで、見えなかった。

 透花は何かを知っている。

 なぜか、その確信だけが、くっきりとあった。


 四通目のそれが机の中にあったのは、八月の最終土曜日、夏祭りのある日の朝のことだった。

 今日は必ず彼女を家まで送れ。途中で別れるな。

 陽斗は封筒を探した。いつも折り畳まれた紙だけで、封筒はなかった。消印を確かめる方法が、最初からなかった。

 その日の午後、陽斗は透花の家を訪ねた。

 チャイムを押して、出てきた透花に「夏祭り」とだけ言った。

 透花は少し笑った。

「一緒に行く?」と聞いた。

 陽斗は頷いた。透花がほっとしたように見えた。


 夏祭りの夜は、むっとするほど蒸し暑かった。

 神社の参道に並ぶ提灯の光の中で琥珀色に照らされた透花は浴衣を着ていた。白地に薄い青の朝顔。髪を上げていて、陽斗は透花の顔をはじめてまともに見た気がした。見慣れているはずなのに、見慣れていなかった。夏の夜の光の中で、透花はどこか輪郭がはっきりして見えた。あるいは——最初から知っていたように見えた。

「どうしたの」と透花は言った。

「なんでもない」と陽斗は答えた。

 縁日を歩いた。金魚すくいの前で透花が足を止めた。やらないまま、金魚をしばらく見ていた。水面に提灯の光が揺れていた。透花の顔も、水面に映って、揺れていた。

「すくわないのか」

「見てるだけで好きなんだ」と透花は言った。「すくったら、持って帰らなきゃいけないから」

 その言葉が、なぜか陽斗の胸に刺さった。

 少し行ったところに、風鈴を売る店があった。透花が足を止めた。並んだ風鈴の一つに、そっと指先で触れた。澄んだ音が一つ鳴った。透花はその音が消えるまで、動かなかった。消えた後も、しばらく動かなかった。

「好きなの、風鈴」

「音が好き」と透花は言った。「消えても、しばらく空気の中に残る気がするから」

 花火が上がった。

 夜空に大輪が開いて、散って、川面に映って、二重に消えた。透花は空を見上げていた。光が消えるたびに、少し目を細めた。

 次の花火が上がったとき、陽斗はふと視線をずらした。

 透花の頬に、光るものがあった。

 涙だった。

 笑っていた。確かに笑っていた。でも、泣いていた。花火の光の中で、静かに、泣いていた。

 聞けなかった。聞いてしまったら、何かが壊れる気がした。この夜が、終わる気がした。

 透花は手の甲で頬を一度だけぬぐった。さりげなく。陽斗が気づいたことに、気づかせないように。

「きれいだね」と透花は言った。声は揺れていなかった。

「ああ」と陽斗は言った。

 その「ああ」の中に、見た、と伝えたかった。聞けなかった、と伝えたかった。でも全部が、その一音に押し込まれたまま、出てこなかった。


 祭りが終わって、人波の中を歩いた。参道を抜けると、急に人が減った。街灯の少ない道に入った。透花の足が遅くなった。

 透花が不意に陽斗を見た。

 少し笑った。

「やっぱりだ」と言った。

「何が」

「書く人の顔」

 最初に言った言葉と同じだった。でも今夜の声は、最初のときより低く、静かだった。まるで長い時間をかけて、やっと言えた言葉みたいに。

 透花が立ち止まったのは、川沿いの小さな橋の手前だった。

 欄干にもたれて、下の川を見た。祭りのざわめきが遠くなって、水の音だけが聞こえた。街灯が川面に一本、細く揺れていた。

「ありがとう」と透花は言った。

「何が」

「今日、送ってくれて」透花は川を見たまま言った。「一人で帰らせなかったこと」

 その言葉の選び方が、陽斗の背筋に触れた。

「透花」

「これで未来が変わる」

 振り返らずに言った。

 声が、いつもより低かった。静かだった。泣いているのではなく、泣き終えた人の声みたいだった。

「何の話をしているんだ」

 透花はようやく振り返った。

 笑っていた。遠くを見ない目で、まっすぐ陽斗を見て、笑っていた。その目に、橋の上の街灯が映っていた。揺れなかった。

 そして——一瞬だけ、透花の指先が陽斗の袖に触れた。

 触れた、というより、確かめた、という感じだった。ここにいる、ということを。本当にいる、ということを。

 すぐに離れた。

「書き続けてね」と言った。「何があっても」

 少しだけ黙ってから、もう一度言った。

「私のことも、忘れないで」

「透花——」

「——ありがとう、陽斗」

 名前を呼ばれたのは、初めてだった。

「もう行くね」

 それだけ言って、透花は橋を渡った。

 陽斗は渡れなかった。

 透花の後ろ姿が街灯の光の中で遠ざかって、角を曲がって、消えた。

 消えた、という言葉がそのまま当てはまる消え方だった。

 橋の上に、風鈴の音に似た静けさが残った。


 四章 名前のない席

 夏休みが明けて、陽斗は早く学校に着いた。

 教室に入ると、透花の席があった。でも何かが違った。最初はわからなかった。席はある。窓から二列目、前から三番目。透花がいつも座っていた席。

 名札がなかった。

 引き出しの中を見ると、空だった。

 おかしい、と思いながら席についた。他のクラスメートが来始めた。陽斗は何気なく「白瀬は今日休みか」と隣の男子に聞いた。

「白瀬?」と男子は言った。

「白瀬透花」

 男子は首を傾けた。「誰それ」

「転校生だろ。五月に来た」

「五月? 五月に転校生なんて来たっけ」

 陽斗は笑い飛ばそうとして、できなかった。

 中村が来たとき、陽斗は手を上げた。「先生、白瀬さんは」

 中村は怪訝な顔をした。「白瀬? 誰のことを言ってるんだ?」

「転校してきたじゃないですか、五月に」

「五月に転校生は来ていない」

 中村は名簿を出した。クラスの生徒、三十二名。どこにも白瀬透花という名前はなかった。

 陽斗は教室を見回した。

 透花の席だった場所に、別の男子が当たり前のように座っていた。


 昼休み、陽斗は図書室へ行った。

 六月のある日、透花が読んで聞かせてくれた文庫本を探した。棚のどのあたりにあったか、覚えていた。少し背の高い棚の、目線よりやや低い段。

 あった。

 手に取った。ページを開いた。

 透花が読んだ一文を探した。見つけた。

 どんな人間も、誰かに読まれることで、初めて存在する。書かれた言葉は、読まれて初めて生きる。だから書くことは、誰かを生かすことだ。

 余白に、何も書かれていなかった。折り目もなかった。透花がページを繰るときの癖——右の親指でそっと角を持ち上げる、あの動きの跡が、どこにもなかった。


 陽斗は本を棚に戻した。戻してから、しばらく手が動かなかった。

 透花がここにいた。確かにいた。この本を手に取った。この一文を読んだ。でも本は何も覚えていない。

 棚にもたれて、陽斗は目を閉じた。

 保健室に行った。ベッドに横になって、天井を見た。

 透花がいた。確かにいた。図書室で隣に座った。一本の傘で雨の中を歩いた。夏祭りで花火を見た。彼女は泣きながら笑っていた。川沿いの橋で、背中を向けたまま、でも笑っていた。最後に名前を呼んでくれた。袖に触れてくれた。

 全部、陽斗の記憶の中にある。消えない。消せない。

 でも誰も覚えていない。名簿にもいない。本も覚えていない。

 陽斗は起き上がって、鞄の中の手紙を取り出した。四通、全部持ってきていた。読んだ。文字は確かにあった。紙は確かにある。

 帰り道、川沿いを歩いた。透花と渡った橋の前に立った。欄干に触れた。冷たかった。

 透花がもたれていた場所。透花の指先が触れた、欄干の縁。

 私のことも、忘れないで。

 その声が、また耳の奥で鳴った。

 忘れない、と陽斗は思った。

 書く限り、忘れない。お前が存在した証を、俺が書く。


 五章 最後の手紙

 翌朝、机の中に手紙があった。

 五通目だった。今までで一番、分厚かった。

 陽斗は教室ではなく、屋上に持っていった。

 風が強かった。紙が飛ばないように両手で押さえながら、読んだ。

 陽斗へ。

 これが最後の手紙だ。

 俺は——お前は——三十二歳になっている。今、小さな町の古いアパートで、この手紙を書いている。夜中の三時で、外は雨が降っている。お前が好きな、静かな雨の音がしている。

 全部話す。

 透花は、十四年前のあの夏祭りの夜、事故で死んだ。

 帰り道、川沿いの橋を渡って、暗い交差点で、車に撥ねられた。即死だったと聞いた。

 俺の世界では、お前は彼女を一人で帰らせた。橋の手前で別れた。そして彼女は一人で橋を渡り、交差点で、逝った。

 俺はその夜のことを、十四年間、毎日思い返した。

 街灯の光の中で遠ざかっていく透花の後ろ姿を。暗かった。振り返ったかどうかも、見えなかった。最後に笑っていたのか、泣いていたのか、わからなかった。その「わからない」が、十四年分、俺の中に積もった。

 書くことをやめた。人と関わることもやめた。透花が生きた世界に、自分が生きていることへの罪悪感だけが残って、それが十四年続いた。

 三十二歳の冬、過去へ手紙を届ける方法を見つけた。詳しくは言わない。ただ、届いた。それだけが全てだ。

 一つだけ説明する。

 俺の世界では、透花は五月にお前のクラスに転校してきた。そして夏祭りの夜、お前に一人で帰らせたあの橋の先で、事故に遭って死んだ。

 俺はそれを変えたかった。だから手紙を書いた。

 ただ、過去に手紙を送ったことで、時間の流れに少しだけ歪みが生まれた。その歪みのせいで、お前の世界の透花は「本来そこにいない人間」として現れることになった。だから誰も覚えていない。名簿にもいない。お前だけが、彼女と過ごした時間を持っている。

 透花はそのことを、最初から知っていた。自分が歪みの中に生きていることも、夏が終わったら消えることも。それでも来た。

 目的は一つだった。

 あの夜、橋まで送ってもらうこと。

 お前が橋まで送ったことで、透花は事故に遭わなかったはずだ。少なくとも、俺の世界とは違う道を、彼女は歩いていったはずだ。俺にはもう確かめる方法がない。お前の世界と俺の世界、そして彼女の世界は、もう繋がっていないから。

 ただ、一つだけわかることがある。

 お前の世界では、あの橋で透花は笑っていた。

 俺の世界の透花は、橋の手前で一人になった。笑っていたかどうか、俺には知る方法がない。暗かったから。振り返る間もなかったから。

 お前は見たはずだ。橋の上で振り返った顔を。

 それが答えだと思っている。俺が十四年、知りたくてたまらなかった答えを、お前だけが持っている。

 書いてほしい。透花が生きた証を、お前の言葉で書いてほしい。

 書くことで、人は存在する。書かれた人間は、誰かの記憶がなくなっても、紙の上に残る。その本を手に取った、見知らぬ誰かの胸の奥に残る。

 透花が最初にお前に言った言葉を覚えているか。

「書く人の顔」

 彼女には、最初から見えていたんだと思う。お前がどんな人間になるか。お前の言葉が誰かに届くことを。だから来たんだと思う。

 そしてもう一つ。

 転校初日、透花が教室でお前を見つけたとき、口が動いたのを覚えているか。

 俺は今もそれが何だったのか、知りたくてたまらない。でもお前には見えたはずだ。お前だけに届く言葉が、あったはずだ。

 蒼井 陽斗より



 屋上で、陽斗は長い間、手紙を持ったまま立っていた。

 風が止んだ。

 空が高かった。夏の終わりの、透き通った青。

 透花の浴衣の地色に似た青だった。

 陽斗はもう一度、最後の段落を読んだ。

 転校初日、透花が教室でお前を見つけたとき、口が動いたのを覚えているか。

 覚えていた。

 読めなかった、と思っていた。でも今、屋上の風の中で目を閉じると、読めた気がした。

 透花が、陽斗だけに向けて動かした唇の形。

 やっと会えた。

 四ヶ月前の五月の朝、教室に差し込んだ黄緑色の光の中で、透花はすでに知っていた。陽斗のことを。陽斗がどこへ向かうかを。そして自分がなぜそこにいるかを。

 知っていて、笑っていた。

 知っていて、来た。

 私のことも、忘れないで。

 橋の上で言った言葉が、また耳の奥で鳴った。

 忘れない、と陽斗は思った。

 書く限り、お前を忘れない。

 陽斗は手紙を胸に押し当てた。泣いているのか、泣いていないのか、自分でもわからなかった。ただ、何かが胸の奥からゆっくりと動き始める感覚があった。長い間、固まっていたものが。あるいはそれは、扉が開く音だったかもしれない。

 書くことで、人は存在する。

 階段を降りて、教室へ戻った。

 誰も透花を覚えていない教室に。透花の名前のない名簿がある教室に。

 席に着いて、ノートを開いた。

 白いページの上に、ペンを置いた。

 一行目を書いた。


 終章 届いた手紙

 三年後。

 冬の朝刊の文化面に、小さな記事が載った。

 新人文学賞の受賞者発表。各選考委員のコメントと、受賞者のポートレート写真。黒縁の眼鏡をかけた、どこか内向的な顔の青年。

 名前は、蒼井陽斗、二十歳。

 デビュー作のタイトルは、

「最後の手紙は、まだ届かない」


 担当編集者は、二十代の女性だった。

 初稿を読み終えた夜、彼女は原稿から目を上げて、しばらく動けなかった。

 物語の中のヒロインが、夏祭りの夜に橋を渡るシーン。泣きながら笑っていた、という一文。それを読んだとき、なぜか自分が泣いていることに気づいて、驚いた。こんな小説を、二十歳が書いた。信じられなかった。信じられないが、ここにある。

 打ち合わせの日、彼女は陽斗に聞いた。

「この物語のヒロインの名前、どうして透花なんですか」

 陽斗は窓の外を見た。

 冬の欅が、葉をすっかり落として、枝だけになっていた。その枝の向こうに、白い空があった。

「さあ」と陽斗は言った。「覚えていないんです。最初からその名前で書いていた気がします」

 編集者は少し微笑んで、原稿に目を落とした。「透花というヒロインが」と彼女は言った。「とても、本物みたいです」

 陽斗は何も言わなかった。

 ただ、窓の外の枝を見ていた。五月になればあの枝に葉が戻る。黄緑色の光が教室の床に、複雑な模様を作って揺れる。


 その夜、陽斗はアパートに帰った。

 机に向かって、次の原稿の一行目を書こうとして、引き出しを開けた。

 ペンを探して、奥まで手を伸ばした。

 指が、紙に触れた。

 取り出すと、白い封筒だった。

 封はしてあった。開封されていない。

 表に、宛名が書いてあった。

 蒼井 陽斗くんへ

 筆跡を見た瞬間、陽斗の手が止まった。

 几帳面な字ではなかった。もっと柔らかい。もっと温度のある筆跡。どこかで見たことがあった。名前を呼ばれる前から、知っていた気がする筆跡。

 差出人の欄を見た。

 白瀬 透花

 陽斗はしばらく、封筒を持ったまま動かなかった。

 窓の外に、雪が降り始めていた。音もなく、静かに、白いものが落ちていた。

 陽斗は封筒を机の上に置いたままにして、キャラメル色の外套を手に取った。

 川沿いの橋まで歩こうと思った。あの夜、透花が渡っていった橋まで。

 手紙はまだ、開けなかった。

 それはきっと、世界で一番遅く届いた手紙だった。


 雪の中を、陽斗は歩いた。

 橋の欄干に手を置いた。冷たかった。透花がもたれていた欄干。透花の指先が触れた縁。

 川面に雪が落ちて、すぐに溶けた。溶けて、流れて、どこかへ行く。でも確かに、落ちた。

 陽斗は上を向いた。雪が顔に触れた。冷たくて、すぐに消えた。

 冬の空気を吸い込み、ヒリつく喉で、透花、と呼んだ。

 空は、答えなかった。

 でも雪は、降り続けた。

 陽斗は胸ポケットに触れた。硬い感触があった。アパートを出るとき、無意識に持ってきていた。白い封筒を。

 橋の上で、陽斗はそれを取り出した。雪がその上に落ちて、すぐに溶けた。

 開けよう、と思った。ここで開けなければならない気がした。透花が渡っていったこの橋の上で、川の音だけが聞こえるこの場所で。

 指が、封を破った。

 中に、便箋が一枚だけあった。薄い紙だった。雪が当たらないように体で庇いながら、陽斗は読んだ。


 陽斗くんへ。

 こんにちは、と書くべきか、さようなら、と書くべきか、ずっと迷っていました。

 日付を書きます。八月三十一日。夏祭りの朝です。

 あなたが今これを読んでいるということは、今夜のことがうまくいったのだと思います。私のお願いを、叶えてくれてありがとう。

 全部話します。

 私はずっと前から、このことを知っていました。未来のあなたが手紙を送ってきたこと。私があなたの時間軸では「本来いない人間」として現れること。夏が終わったら消えること。

 全部、知っていました。

 それでも来ました。

 怖くなかったか、と聞かれたら、嘘になります。怖かった。消えることより、あなたに会えないまま消えることが、ずっと怖かった。

 でも、初めて教室であなたを見たとき、来てよかったと思いました。

 書く人の顔、というものがあります。言葉を体の中で転がしている人間の、独特の目の形。あなたはその目をしていました。一番後ろの席で、ノートの端に何かを書いていた。誰にも見せないつもりの言葉を、それでも書かずにいられない人間の顔を、していました。

 その顔を見た瞬間に、わかりました。

 この人の言葉は、誰かに届く。

 雨の日のこと、覚えていますか。傘が小さくて、あなたの肩が濡れたこと。私が傘を傾けたら、今度は私の肩が濡れたこと。逆じゃないか、ってあなたが言ったこと。

 正直に言います。あの三十分、私はずっと泣きそうでした。

 うれしくて、泣きそうだった。消えることが決まっているのに、あんなにうれしかった。傘の下で、あなたの肩に触れるたびに、ここにいる、と思った。本当にここにいる、と思った。

 交差点で別れるとき、角を曲がる前に一度だけ振り返りそうになりました。でも振り返ったら、うまく笑えなかったかもしれないから、行きました。

 あの一秒の間に、気づいていましたか。

 あの三十分が、私の一番好きな時間です。

 図書室で並んで本を読んだこと。あなたに読んで聞かせた一文を、あなたが黙って聞いていてくれたこと。屋上で空を見ていたこと。互いに何も言わなくてよかったあの静けさ。

 花火が上がるたびに、あなたが少しだけ空を見上げたこと。

 それから、私の方を見たこと。

 気づいていました。あなたが見ていたこと。泣いているのを、見られたこと。聞かなかったこと。

 聞かなくてよかった、と思っています。聞かれていたら、うまく笑えなかったから。あの夜、花火の光の中で笑っていられたのは、あなたが聞かなかったから。

 きれいだったね、と私が言ったとき、あなたが「ああ」と言ったこと。

 その「ああ」の中に、あなたのすべてが入っていました。言葉を大事にしている人間は、短い返事にも全部を込める。「見た」も、「聞けなかった」も、「それでもいい」も、全部その一音の中にありました。

 その「ああ」を聞いたとき、今度こそ本当に泣きそうになりました。花火の光があってよかった。あなたに空を向かせることができて、よかった。

 橋の上で、あなたの袖に触れました。

 覚えていますか。ほんの一瞬だけ。

 何かを確かめたかった。あなたがここにいること。本当にいること。それだけ確かめたかった。

 私は幸せでした。消えることが決まっていた夏に、こんなに幸せになれるとは思っていなかったから、少し驚いています。

 一つだけお願いがあります。

 書いてください。

 私のことでなくていい。あなたが書きたいものを、書いてください。ただ、いつかその言葉の中に、雨の日のことや、図書室のことや、花火のことがあったら——私はそこにいます。書かれた場所に、ずっといます。

 最後に、本当のことを言います。

「やっと会えた」と言いました。教室で、あなたを見つけたとき。あなたには聞こえなかったと思うけれど、確かに言いました。

 本当のことを言うと、私はずっと前から、あなたに会いたかった。

 あなたの言葉を、私は読んでいたから。

 どこで読んだのかは、説明が難しいです。ただ、読みました。誰かの言葉が、遠いところから私のところまで届いていました。その言葉の中に、雨の日のことがありました。花火のことがありました。橋の上で笑った女の子のことが、ありました。

 その女の子が、私だとわかりました。

 だから私は来ることができた。

 あなたの言葉が、私を呼んだ。

 それはつまり——あなたが書いてくれるから、私は来られた。あなたが書き続けてくれるから、私はこれからも、どこかに存在できる。

「やっと会えた」は、本当のことです。

 これが最後の手紙です。でも、あなたが書き続けてくれるなら、返事はいりません。

 あなたの書くものすべてが、私への手紙になるから。

 白瀬 透花より

「……遅すぎるよ」



 あなたの言葉を、私は読んでいたから。

 透花はそう書いていた。その言葉を陽斗は頭の中で反芻する。

 透花が読んだ言葉は、まだ陽斗が書いていない言葉だ。これから書く言葉だ。書かなければ、どこにも存在しない言葉だ。

 つまり透花は、陽斗がこれから書くことを、知っていた。書くと、信じていた。

 橋の上で笑った女の子のことが、ありました——透花はそう書いた。

 透花が橋の上で笑ったのは、あの夏祭りの夜のことだ。あの夜、陽斗はノートに書いた。橋の上で振り返った顔のことを。泣きながら、笑っていた顔のことを。

 透花はその言葉を、どこかで読んだ。

 陽斗がまだ書いていない言葉を。これから書く言葉を。

 だから来た。

 陽斗はコートのポケットに手を入れた。ペンがあった。いつもある。書く人間は、どこにいてもペンを持っている。

 封筒を裏返した。白い面を、橋の欄干に当てた。

 透花の指先が触れた縁に、ペンを置いた。

 雪が手の甲に落ちた。冷たかった。すぐに溶けた。

 一行、書いた。


 五月の教室は、黄緑色の光に満ちている。


 その一文が、透花を呼んだ。

 陽斗が書くから、透花は来られる。透花が来るから、陽斗は書ける。

 どちらが先か、もうわからない。たぶん、最初からどちらが先でもなかった。

 二人は、互いを呼び合いながら、時間をこえて、ずっとここにいる。

 雪が、降り続けた。

 川面に落ちて、溶けて、流れて、消えた。

 でも確かに、落ちた。




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