第31話 静かな森
森へ踏み込んだ瞬間、世界が一段沈んだ。
街道に満ちていた乾いた空気は消え、代わりに湿り気を帯びた冷たい空気が肺へ流れ込む。
頭上では枝葉が幾重にも重なり、陽光を細く裂いていた。
木漏れ日が地面にまだらな模様を描く。
その中に立ちながら、レオンは動かなかった。
まず聞く。
それが森で生きる基本だ。
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土の匂い。
若い葉の青さ。
腐葉土の甘い香り。
懐かしい。
村の周囲の森と、よく似ている。
だが——
(静かすぎる)
違和感が喉の奥に引っかかった。
本来あるべき音がない。
小動物の走る気配。
枝を揺らす鳥。
遠くで響く羽音。
森とは命の重なりだ。
だが今、この場所には空白があった。
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ゆっくりと息を吐く。
(まだ焦るな。)
森の異常と決めつけるのは早い。
自分はまだ冒険者になりたての新人だ。
経験不足が恐怖を大きく見せているだけかもしれない。
そう思考を整える。
だが——胸の奥の感覚は消えなかった。
捕食者の直感が胸のざわめきを掻き立てる。
理由は分からないが、知らない森での行動。
狩りをしていた森との共通点を探す。
だが確実に、何かが違うと森の静けさだけが確かに感じている。
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慎重に森の中に足を進める。
踏み込む位置を選ぶ。
枝を踏まない。
落葉を避ける。
音を殺す。
体が自然に動く。
眠っていた感覚が、次第に研ぎ澄まされていく。
視界が広がる。
空気の流れが読める。
匂いが層になって感じ取れる。
(……落ち着くな)
不思議だった。
危険を感じているはずなのに、徐々に心は静まっている。
これが自分の本質なのだろう。
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腰の剣に触れる。
剣を振れる位置を確認。
すぐ抜ける。
戦闘も問題ない。
指先の力を抜く。
緊張と恐怖は反応を遅らせる。
灰牙狼の夜に見て学んだことだった。
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やがて小さな沢に出る。
透明な水が石を撫でて流れていた。
灰青草はこうした沢のほとりや森の半日陰に群生しているらしい。
視線を落とす。
森と沢の間の日陰を探す。
そして歩き進めて数分でそれを見つけた。
葉の縁が灰色に染まる草。
「……あった」
膝を折る。
指先だけで根元を掴む。
慎重に引き抜く。
料理人だった頃の繊細な手の動きが、こんなところでも役に立つとは思わなかった。
保存袋へ入れる。
もう一つ。
さらにもう一つ。
順調だ。
順調すぎる。
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手が止まる。
水面を見る。
揺れていない。
風がない。
葉も動かない。
森が、また止まっている。
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立ち上がる。
耳を澄ます。
やはり何も聞こえない。
胸の奥の警鐘が、少し強く鳴る。
(引くべきか……)
迷いが生まれる。
だがまだ確証がない。
撤退するには理由が弱い。
新人が過剰に怯えて逃げ帰る。
それは避けたい。
だから慎重に進む。
決して深追いはしない。
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数歩進んだところで、地面に目が止まる。
足跡。
小さくない。
狼でも鹿でもない。
もっと重い。
しかも乱れている。
方向がばらばらだ。
(これは逃げる跡だ……)
四方へ散っている。
動物が恐慌状態で逃げた時の痕跡。
喉がわずかに乾いた。
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さらに進む。
そして見つけた。
鹿の死骸。
倒れたまま、動かない。
腹が裂かれている。
だが妙だった。
ほとんど食われていない。
捕食ではない。
殺しだ。
しかも一撃。
争った跡が少ない。
つまり——圧倒された。
そして死んでから、まだそんなに時間が経っていない。
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背中を冷たいものが走る。
視線を巡らせる。
木々の隙間。
影。
何もいない。
それなのに周囲から異様な雰囲気を感じる。
(見られている……)
確信に近い感覚である。
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そっと臨戦態勢をとり、剣の柄を握る。
呼吸を落とす。
音を消す。
体温さえ隠すように。
灰牙狼の夜が蘇る。
本能が静かに叫んでいる。
ここは狩場だ。
しかも——自分のではない。
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その時。
枝が鳴った。
極小の音。
だが耳が捉える。
身体が反射的に振り向く。
何もいない。
風もない。
だが確かにそこで音が鳴った。
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後退する。
一歩。
また一歩。
視線は逸らさない。
逃げない。
間合いを測る。
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影が揺れる。
次の瞬間——
殺気が落ちてきた。
頭上。
反射だけで体が動く。
横へ跳ぶ。
直後、地面が爆ぜた。
土が舞う。
鼓動が耳の奥で暴れる。
視線を上げる。
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黒い影。
低い唸り。
黄金の瞳。
狼ではない。
もっと重い。
もっと大きい。
そして——異様なほど静かだ。
気配が薄い。
まるで闇が形を持ったようだった。
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魔物がゆっくりと立ち上がる。
四肢に無駄がない。
筋肉が滑るように動く。
一歩踏み出す。
地面が沈む。
重い。
強い。
直感が告げる。
灰牙狼より上だ。
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逃げるか?
一瞬だけ考える。
正解はそれだ。
新人なら迷わず退くべき相手。
だが。
足は動かなかった。
恐怖ではない。
理解だった。
背を向けた瞬間、狩られる。
なら——向き合うしかない。
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ゆっくりと剣を抜く。
刃が淡く光を弾く。
呼吸が整う。
視界が狭まる。
余計なものが消える。
世界に残るのは、自分と魔物だけ。
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魔物の瞳が細まる。
品定めしている。
捕食者の目。
胸の奥で何かが熱を帯びた。
恐怖と混ざる、高揚。
理解する。
自分もまた——捕食者だ。
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魔物の後肢が沈む。
来る。
空気が張り詰める。
一瞬が永遠のように伸びる。
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そして。
魔物が、消えた。
(速——)
思考が追いつくより先に、影が迫る。
戦いが、始まる。
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