第15話 出発前夜
村から、音が消えていた。
昼間はあれほど慌ただしかったというのに、夜が更けるにつれ、人々は言葉を失っていった。
武器を研ぐ音だけが、ときおり静寂を裂く。
金属の擦れる乾いた響き。
それが逆に、この夜の重さを際立たせていた。
レオンは家の前に座り、暗い森を見ていた。
風は弱い。
だが冷たい。
あの奥に、銀の狼がいる。
そう思うだけで、胸の奥がざわついた。
背後で扉が開く。
父だった。
すでに外套を着込み、斧は手入れを終えている。
月明かりを受け、その刃が鈍く光った。
父は何も言わず、レオンの隣に立つ。
同じ方向——森を見る。
しばらく沈黙が続いた。
やがて父が口を開く。
「怖いか」
レオンは少し考え、頷いた。
「……うん」
嘘はつかなかった。
父は小さく息を吐く。
「それでいい」
一拍。
「恐怖を知らん奴から死ぬ」
どこかで聞いた言葉だった。
だが今は重みが違う。
父は続ける。
「だが、恐怖に飲まれるな。目を逸らすな。それだけで生き延びる確率は上がる」
レオンは森から視線を外さなかった。
逃げない。
それが狩る側の条件だ。
父が不意に言う。
「お前は来るな」
分かっていた。
だが胸の奥が少しだけ痛む。
父は静かに続ける。
「今回の相手は、お前が越えるにはまだ早い」
否定ではない。
時期の問題だ。
レオンは拳を握る。
悔しさよりも、理解の方が勝っていた。
あの銀の瞳を思い出す。
本能が告げていた。
——今戦えば、死ぬ。
父がレオンの頭に手を置いた。
重く、大きな手だった。
「だが、いつか越えろ」
胸が強く打つ。
それは命令ではない。
願いだった。
---
家に入ると、母がまだ起きていた。
灯りは小さい。
無駄に油を使わないよう、芯を絞っているのだろう。
だがその小さな光が、やけに温かく見えた。
「スープ、温めてあるわ」
父は短く礼を言い、椀を手に取る。
湯気が静かに立ち上る。
誰もすぐには飲まない。
時間を引き延ばすように。
やがてレオンが寝床へ向かうと、母の声が背中に届いた。
「ちゃんと、寝なさい」
振り返る。
母は笑っていた。
いつも通りの笑顔。
だがその指先は、わずかに震えている。
レオンは何も言わず、横になった。
目を閉じる。
だが眠れない。
静かな家の中で、声が聞こえた。
父と母だ。
小さな声。
聞くつもりはなかった。
だが——耳が拾ってしまう。
---
「……無茶はしないで」
母の声だった。
震えている。
父は少し間を置いた。
「するつもりはない」
「でも、あなたは前に出る人だから」
沈黙。
母は分かっているのだ。
父がどんな男か。
「覚えてる?」
母が続ける。
「昔、大猪を一人で止めた時のこと」
父が小さく息を吐いた。
「あれは他に誰もいなかった」
「今回も同じ顔をしてる」
また沈黙。
長い沈黙。
やがて母が言った。
「……帰ってきて」
それだけだった。
父はすぐに答えない。
だが椀を置く音がした。
そして。
「帰るさ」
短い。
だが揺るがない声。
母が何かを差し出す気配。
布だろうか。
「これ、持っていって」
「……まだ持っていたのか」
「当たり前でしょう」
少しだけ、笑う気配がした。
父が言う。
「死ぬつもりはない」
母が静かに返す。
「知ってる。あなたはそういう人だから」
その声は、もう震えていなかった。
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どれほど時間が経ったのか。
やがて外が、わずかに白み始める。
夜の終わりだった。
父が立ち上がる音がする。
装備を整える気配。
母も立つ。
扉が開く。
冷たい空気が流れ込む。
レオンは起き上がった。
父と目が合う。
言葉はない。
だが父は頷いた。
レオンも頷き返す。
それで十分だった。
父が外へ出る。
母は追わない。
ただ、戸口に立つ。
朝の光が、父の背中を照らしていた。
大きい。
揺るがない背中。
レオンは思う。
——あの背中に、いつか追いつく。
父は振り返らなかった。
狩る者は、前だけを見る。
遠くで非常鐘が鳴る。
討伐隊が集まり始めているのだ。
静かな朝だった。
だがその静けさの下で、確実に何かが動いている。
父の背中が、小さくなっていく。
捕食者の本能が、静かに告げた。
——あの背中を越える日が、必ず来る。
夜が終わる。
戦いの朝が、始まる。
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