第13話 川辺の捕食者
最初に異変に気づいたのは、音だった。
——静かすぎる。
本来なら、川辺はもっと騒がしい。水の流れる音に混じって、鳥の声が響き、小さな虫が草を揺らす。
だが今日は違った。
聞こえるのは、水の音だけ。
さらさらと流れるその音が、やけに大きく感じられる。
レオンは手にした枝をゆっくり下ろした。
胸の奥で、捕食者が目を覚ます。
何かいる。
見えないだけで、確実に。
「どうしたんだよ、レオン?」
振り向くと、トーマが不思議そうな顔をしていた。
川に糸を垂らしながら笑っている。
隣ではミナが靴を脱ぎ、水に足を入れてはしゃいでいた。
「冷たーい!」
ケイルは必死に魚を追いかけている。
いつもの光景。
安全な場所。
——そのはずだった。
ここは森から少し離れている。大人たちも「この辺りなら問題ない」と言っていた場所だ。
だから子供だけで来ている。
だが。
レオンの背筋を、冷たいものが撫でた。
風が止んでいる。
鳥が鳴かない。
虫の音もしない。
世界が、息を潜めている。
「……帰ろう」
思わず口から出た。
トーマが笑う。
「えー?まだ全然釣れてないぞ」
「なんか変なんだ」
「変って?」
言葉にできない。
だが本能が叫んでいる。
ここは危ない。
その瞬間。
対岸の茂みが、わずかに揺れた。
レオンの視線が吸い寄せられる。
そして——見た。
金色の瞳。
低い位置から、こちらを射抜いている。
呼吸が止まる。
全身の毛穴が開く。
理解した。
あれは——狩る側だ。
次の瞬間、瞳が消えた。
だがもう遅い。
捕食者の本能が、絶叫する。
——逃げろ。
「走れ!!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
子供たちが固まる。
「は?どうし——」
「いいから走れ!!村まで止まるな!!」
声が違ったのだろう。
トーマの顔色が変わる。
ミナが震え始める。
その時だった。
対岸の茂みの奥から、低いうなり声が響いた。
空気が震える。
子供たちが一斉に振り向いた。
そして見てしまった。
灰色の影。
水面の向こう、木々の間に立つ巨大な狼。
普通の狼ではない。
一回り——いや、二回り大きい。
肩が人の腰ほどもある。
「な……に、あれ……」
ミナの声が震える。
レオンの喉が乾く。
だがさらに恐ろしいことに気づいた。
一匹じゃない。
森の方からも、気配がある。
やばい、捕まったら、、、死ぬ。
「走れぇぇぇ!!」
叫ぶ。
ミナの手を掴む。
トーマがケイルの背を押す。
全員が一斉に駆け出した。
背後で、水音が跳ねる。
渡ってきた。
速い。
だが追いつかない距離を保っている。
本気じゃない。
遊んでいる。
狩りの前の——確認。
レオンの背中を汗が流れる。
振り向くな。
振り向いたら足が止まる。
「レオン……!!」
ケイルが叫ぶ。
次の瞬間、転んだ。
膝を擦り、動けない。
舌打ちする暇もない。
レオンは抱き上げた。
重い。
だが止まれない。
遠くに柵が見えた。
もう少し。
その時。
遠吠えが響いた。
さっきより近い。
鼓膜が震える。
ミナが泣き出した。
「やだ……やだぁ……!」
「泣くな!走れ!!」
叫びながら、レオンは理解する。
——間に合わないかもしれない。
その瞬間。
村の門が開いた。
父が飛び出してくる。
斧を構え、前に立つ。
父が一言。
「急げ」
低い声。
絶対の響き。
子供たちと転がるように柵の中へ入る。
レオンも膝をついた。
父は動かない。
灰牙狼を睨んでいる。
静寂。
やがて森の方からも、灰牙狼の群れが姿を現した。
そして——その一番後ろ。
一歩遅れて姿を見せた個体を見て、父の目が細まる。
大きい。
異様に。
毛並みは灰というより、銀に近い。
全身に走る無数の古傷。
左目が潰れている。
だが残った右目が、静かにレオンを見ていた。
逸らさない。
値踏みするように。
父が低く呟く。
「……群れの主か」
銀狼は動かない。
ただ見ている。
やがて、ゆっくりと踵を返した。
群れも続く。
音もなく、森へ溶けていく。
父が息を吐いた。
「見逃されたな」
背中が冷える。
あれは本気ではなかった。
もし本気なら——
ぞっとする。
父が振り返らずに言った。
「縄張りに入ったのは、俺たちの方か」
レオンは答えられない。
ただ一つ、確信していた。
あの銀の狼は、自分を覚えた。
胸の奥で、捕食者が静かに脈打つ。
恐怖の奥に、わずかな昂揚が混ざる。
理解してしまったのだ。
あれはいつか越えなければならない壁だと。
遠くの丘の上に、銀の影が一瞬だけ現れる。
風に毛並みが揺れる。
黄金の瞳が、再びレオンを射抜いた。
そして消えた。
捕食者の本能が告げる。
——次に会えば、逃げ場はない。
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