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山田幸彦10歳。

ユキヒコ目線です。

森の中を、ただ走った。

風が頬を叩いていく。息が焼けるみたいに熱い。

転びたくないのに足がもつれる。転べない。あの車に戻らないと、お父さんが――。


木々の隙間から差す光が細く揺れる。獣の匂いが濃い。鳥が飛び立ち、鹿が横切り、藪の奥で猪が低く鳴いた。目が追っても、体は見ないふりで前に出た。立ち止まったら、怖さが背中から這い上がってきそうだった。


蔓に足が絡んだ。

あっと声が出た瞬間、体が前に投げ出され、地面に転がった。ひじに石が当たって強い痛みが走る。土の味が口に広がる。泣くのはあとにする、と決めて、すぐに立ち上がった。息を整える余裕なんてない。


湧水の場所に着いたとき、太陽は真上に来ていた。

その明るさが憎らしい。世界はいつもみたいに動いているみたいで、僕たちだけが取り残されている。膝をつき、ペットボトルを取り出す。澄んだ水が絶えず流れていて、音がやたら大きく聞こえた。指が震えてうまく口を当てられない。それでも何度もやり直して、水を詰めていく。いまの僕にできることは、これだけだ。


間に合う、と思い込もうとする。間に合う、間に合わないと困る。

そのとき、頭の奥で白い部屋が開いた。

消毒の匂い。天井の四角い蛍光灯。細くなった指。ベッドの上で静かに呼吸をするお母さん。僕が名前を呼ぶたびに、少しだけ笑ってくれた気がする。笑わなくなったあとも、笑ってくれているはずだと思い込んだ。そうしないと、胸の真ん中が空洞になって立っていられなかった。


水の冷たさが指先に戻る。

違う、と思う。今はお父さんだ。怪我をしただけ、助けられる怪我。僕は首を強く振った。ペットボトルを握り直し、立ち上がる。何を考えている。走れ、戻れ、と自分に言い聞かせる。僕ならできる。できないと困る。


太陽が傾きだす。影が長く、地面に縞模様を作る。喉が痛い。足は棒みたいになって、膝が笑うという感覚がやっと分かった。それでも止まらない。止まったら、間に合わない。

森の切れ目に車の形が見えた。胸の中で何かがはじける。


「お父さん!」


叫ぶ声が自分のものじゃないみたいに高い。運転席のドアを開けると、助手席にもたれたお父さんがいた。汗で額が濡れていて、息が浅い。いつもよりずっと小さく見えた。


「お父さん……」


ふたをひねって、口元にペットボトルを当てる。喉がわずかに動く。水が少しこぼれて顎を伝った。


「ああ……すまん。暑くてな……」


かすれた声でも、生きていることが分かった。肺に空気が入って、少し泣き笑いみたいな息が漏れてしまう。

腕に視線が吸い寄せられた。蠅が黒い輪をつくっていて、赤黒い液が包帯から滲み出ている。腐った匂いが薄く漂った。手の甲で蠅を払う。何度でも払う。薬を塗って、布で巻き直す。呼吸を忘れないように、わざと大きく吸って、大きく吐いた。


夕方。焚き火の炎が風に揺れ、影が土の上に踊る。

お父さんは横になって、何かをうわ言のように繰り返していた。

あかり、という音が、熱の向こうから漏れてきた。僕の胸の内側が揺れた。お母さんの名前。僕が呼ぶときと、お父さんが呼ぶときとで、響きが違う。同じでも違う。焚き火を見つめて、膝を抱えた。木がはぜるたびに、夜が近づく。


額に手を当てる。灼けるみたいに熱い。

お父さん、と何度も呼ぶ。肩を揺すっても、言葉が返ってこない。

死ぬ、という字が頭の中に浮かぶ。僕はそれを消したかった。消せないことも知っていた。

目の奥が熱くなり、涙が勝手に出てくる。泣いてはいけないと思う。でも泣かないやり方が分からない。


夜。

星が近い。信じられないくらいの数が、黒い森に散っていた。

宮﨑に来てから、空の広さを何度か見上げた。人は優しいのに、学校では上手にしゃべれない。教室の空気の入り方が分からない。笑うタイミングが分からない。休み時間の輪の入り方も。

大人たちは「そのうち慣れる」と言ってくれた。僕も、そうだと頷いた。嘘じゃない。ただ、いつ、という約束のない「そのうち」は、いつまでも胸を冷やした。


お父さんは、遠くにいるみたいな顔で眠っている。

僕は立ち上がり、空を見上げる。喉の奥が痛い。泣き声がうまく出ない。

助けてよ、と小さく言ってみる。誰に届くか分からない。届かなかったら、それはそれで怖い。


「……鹿光」


名前を呼ぶ。風が一瞬だけ止まったように感じた。焚き火がふっと揺れて、星が強く瞬いた。

だけど、夜は夜のままだ。森は答えない。

僕は両手で顔を覆った。嗚咽が自分の体から出る音だと、少し遅れて理解する。涙が掌に落ちるたび、土の匂いが強くなった。


今年、お母さんを亡くして、僕はお父さんの実家に預けられた。

宮﨑の人たちは優しい。ご飯をくれて、名前を覚えて、話しかけてくれる。

それでも学校の教室で、誰の席も僕の席みたいに感じられない日が続いた。

だから、今日くらいは、世界のどこかにある席にたどり着きたい。

それが車の助手席でも、焚き火の前でも、お父さんの隣でもいい。


星空の下で、泣きながらそう思った。

涙が尽きたら、もう一度水を汲みに行こう。

明日の朝までに、何度でも。

お父さんが戻ってこられる場所を、僕がつないでおく。

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