コウセイブッシツ
承知しました。
石橋式ver.3で、説明見出し(ヨモギ/ドクダミ)も含めて**すべて地の文へ統合**し、感情と五感を深く掘り下げて再構成しました。
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血の匂いが、まだ地面に残っていた。
猿の死体は温かく、皮膚の下で筋肉がわずかに痙攣している。
周囲の木々から、仲間の猿たちの叫びが飛ぶ。
「ギャア! ギャア!」
鋭い声が森に反響し、鼓膜を刺した。
ユキヒコは槍を構えたまま、一歩も引かない。
「もし来るなら、全員こうなるぞ!」
か細いのに、震えよりも怒りの成分が濃く混じっていた。
牙を剥いた一匹が、地を蹴る。威嚇のうねりが返ってくる。
ユキヒコは目を見開いて睨み返した。
見合う眼と眼。風が一筋、冷たく頬を撫でる。
その一瞬に、猿たちは一斉に枝を鳴らして跳び、木々の裏側へ消えた。
「……行った」
槍が下ろされ、肩で荒い息。
その手の震えを見て、胸の奥が熱くなった。
「お父さん!」
駆け寄るユキヒコの背後で、森の匂いが揺れる。
私は座り込んだまま、破れた袖口から滲む血を見下ろした。
「お前……すごいな。初めての狩りで類人猿を倒すとは」
「そんなの、すごくないよ! お父さん、腕が!」
ペットボトルを受け取り、蓋をひねる。
「まず洗うぞ」
冷たい水が傷に触れ、白い泡がにじむ。痛みが刃のように走った。
「幸い、ヨモギとドクダミがそこら中にある。薬にできる」
「ヨモギとドクダミ?」
「野の薬だ」
私は立ち上がる。草むらをかき分けるユキヒコの声が弾んだ。
「これだよね!?」
「それだ。葉脈が太い方がヨモギだ。いっしょに潰す」
ヨモギは、指の腹に青い匂いを残す。
葉を揉み砕けば、油分がじわりと立ち、血の匂いを押し返すように広がった。
昔から止血と消炎に使われてきた、と教授が言っていた声が耳の裏で蘇る。
ドクダミも見つけた。鼻をつく強い匂い。
だが、そのきつさの中に“効き目”が潜んでいる。
生の葉を潰して塗れば膿を抑える、と祖母が庭先で語っていた。
教科書と台所の知恵が、一本の脈になって掌の上で脈打つ。
車のそばに戻り、小鍋に葉を放り込み、ナイフの背で叩き潰す。
焚き火の炎が草の青を揺すり、湯気の奥で匂いが混ざり合った。
「すごい匂いだね……」
「効くはずだ」
刃先ですくったペーストを傷に塗り込む。ひりつく痛みが熱に変わり、熱がゆっくり鈍っていく。
「これで治る?」
「……治る。ありがとう」
強がりの笑みを浮かべて、ユキヒコの頭を撫でた。
(本当は抗生物質が欲しいが――いまはこの世界のやり方で、私たちを守る)
「さあ、腹が減ったろう。夕飯にしよう」
◇
焚き火の火がゆらめき、脂の焦げる匂いが風に流れる。
「ようやくイワナも食えるな」
「うん、おいしいよ!」
こうして火の前で食卓を囲む時間が、どれほど貴重か。
私はその重さを噛みしめた。
「たくさん食べろ。今日はユキヒコの祝勝会だ。初めて獲物を仕留めたんだからな」
ユキヒコが箸を止め、焚き火を見た。
「……じゃあ、あの猿も食べちゃえばよかったのかな」
私の手も止まる。炎の音が、ひと呼吸、重くなった。
「猿は、人に近い病を持つ。やめた方がいい」
「……そっか」
森の奥から、遠吠え。
――ワオーン。
狼の声だった。
「……やっぱり、この時代にもいる」
この世界の食物連鎖の頂点は、人間ではない。オオカミだ。
煙の先で、ユキヒコがこちらを見る。恐怖よりも、決意の色が濃い。
「……車に入ろう」
◇
夜明け。
ぼんやりとした光が窓を透け、湿った空気が肌に貼りつく。
汗で全身が重い。
目を開けると、世界が少し遠い。
寒気。呼吸が浅い。腕をめくると、赤く腫れ上がった傷口が光を弾いた。
膿がにじみ、皮膚が焼けるように痛む。
「くそっ……化膿したか」
痛みは腕から肩、背中へと移り、体が自分のものではないようだ。
「お父さん!」
ユキヒコが飛び起きる。
「大丈夫……いや、あまり良くない」
「腕、すごく腫れてるよ!」
「猿の牙に菌があった。このままだと熱が上がって……倒れるかもしれない」
ユキヒコの顔色が変わる。
「お父さん、僕はどうすればいい?」
「水を。できるだけ湧水を汲んで来てくれ」
「わかった!」
槍を手に、ユキヒコが外へ飛び出す。
森へ吸い込まれる小さな背中。
(……まいったな。まったく、ユキヒコに助けられてばかりだ)
息が荒い。胸の奥が熱く、世界が波打つ。
助手席にもたれ、目を閉じた。
◇
森の奥を、ユキヒコが走る。
枝越しの陽光が地面にまだら模様を作り、足音が水の気配へ伸びていく。
槍の先がわずかに揺れ、小さな背筋は真っすぐだった。
――生き残る。
その言葉だけが、朝の冷たい空気の中で、確かな温度を持っていた。
野生動物の雑菌はやばいそうです




