ニホンザル
清流の音が心地よく響いていた。
私は川辺にしゃがみこみ、岩の陰に手を差し入れた。
ぬるり、と指先に感触がある。
一気にすくい上げると、銀色の体が跳ねた。
「よし、今朝の分は確保……!」
水しぶきが光を弾く。
カゴの中に放り込むと、イワナがぴちぴちと跳ねた。
「すごい! めっちゃ上手じゃん」
ユキヒコが笑う。
カゴには八匹。数日前よりもずっと安定して獲れるようになっていた。
「だいぶカンを取り戻してきたな」
「お父さん、ちょっと不思議なところ見つけたんだ」
「ん?」
◇
斜面を登りながら、ユキヒコが指をさした。
「ほら、ここ!」
地面の隙間から透明な水がこんこんと湧いている。
「……湧水か! 助かる!」
思わず声が出た。
「これなら煮沸しなくても飲める。天然の濾過水だ」
「やった! ペットボトルに入れて持って帰ろう!」
「まず飲むのが先だな」
二人で笑い合い、冷たい水をすくう。
口に含むと、喉の奥まで透き通るように冷たかった。
(……生きている)
久しぶりに、心からそう思った。
だが次の瞬間、視界の端に動く影。
「……!」
鹿だ。
川辺に四頭ほど、群れている。
茶色の背中が陽にきらめく。
「……鹿だ」
思わず呟く。
ユキヒコも息を飲んだ。
「今、あれを獲れれば……」
私はユキヒコから矢を受け取り、静かに弓を構えた。
「鹿光が怒らないかな? 鹿の神って言ってたし」
「知るもんか。こんな場所に置き去りにしたのはアイツだ」
弦を引き絞る。狙いを定め、息を止める。
しかし――
パッと、鹿たちが一斉に散った。
「……!」
藪の奥に消えていく影。
風が残り香だけを運んできた。
「……行っちゃった」
「……あいつら、弓を知ってたな。人間に狙われることに慣れている」
私は矢を下ろした。
手の中に残るのは、狩り損ねた重さだけ。
◇
何度か試したが、獲物は逃げるばかりだった。
鳥を狙っても矢は外れ、枝に突き刺さる。
「……くそ。動かない的とは全然違う」
「足場も悪いし、風の流れも掴めない……」
「ねえ、もう帰ってイワナ食べようよ」
ユキヒコの言葉に、肩の力が抜けた。
「……そうするか」
◇
帰り道。
山の斜面を歩いていると、目に柔らかな緑が入った。
「お、タラの芽だ。これは食える」
「お父さんって、なんでも詳しいね」
「田舎育ちだからな。これくらい――」
その時、背中のカゴが引かれた。
「ユキヒコ、引っ張るなって」
「え? 僕、引っ張ってないよ?」
「……は?」
振り向いた瞬間。
「キシャアアアアアッ!」
目の前に、牙をむいた日本猿がいた。
カゴにしがみつき、イワナを奪おうとしている。
「うわああああああああ!」
「うわっ! 猿だ!」
私はカゴを引っ張り返した。
だが次の瞬間、木々の上から複数の影が落ちてきた。
十匹近い猿たちが、枝を叩き、牙を見せ、取り囲む。
「ギャア! ギャア!」
音が地鳴りのように響く。
「くそ、こんな猿どもくらい――」
「ユキヒコ、槍で威嚇しろ!」
「う、うん!」
ユキヒコが震える手で槍を構える。
周囲では猿たちが地面を叩きながら、目を光らせていた。
「ゆっくり……後ずさりだ」
一歩ずつ下がる。
汗が頬を伝う。
――その瞬間。
一匹の猿が跳んだ。
鋭い叫び。
歯が腕に食い込む。
「ぎゃあああああああああ!」
血の匂い。痛みで視界が赤く染まる。
「お父さん!」
ユキヒコの叫び。
彼の顔が決意に変わる。
「お父さんを離せえっ!」
少年の体が飛び出した。
槍の先が一直線に突き出される。
ドスッ。
猿の背中に突き刺さる。
「ぎぃいいいいいっ!」
叫び声とともに、猿が地面に転がった。
辺りに血が散る。
「はぁ……はぁ……」
ユキヒコの肩が小刻みに震えていた。
だが、猿たちはまだ囲んでいる。
枝の上から光る無数の瞳。
(――終わっていない)
森の中の静寂が、次の暴発を待っているようだった。
猿に噛まれたことあります。




