「時を超えた時に、世界は分岐し、新しく生まれたのだ。」
「ユキヒコが――王の器?」
言葉の意味を理解するまで、数秒かかった。
目の前の光がゆらめく。
鹿光の姿が、息子の輪郭を透かして見える。
「そうだ」
神の声は低く、谷に響くように重かった。
「お前の息子はいずれ王となり、国を作るのだ」
「な、何を言ってるんだよ……!」
私は思わず叫んだ。
光は答えず、ただ穏やかに続けた。
「そしてお主は、この息子を王へと導き、育てるがよい」
「ユキヒコが……王? そんなわけないじゃないか!」
笑ってやろうとしたが、喉が乾いて声が出なかった。
「ほう。では問おう。貴様がユキヒコの何を知っている?」
「な、何をって……」
言葉が詰まる。
頭の中が白くなる。
「俺の息子で……」
そこまで言って、口が止まった。
(……あれ?)
(ユキヒコって、どんな奴なんだろう?)
学校の成績、好きなアプリ、最近の口癖。
思い出そうとするほど、断片的にしか出てこない。
鹿光が静かに笑った。
「ほれ、答えられぬではないか」
「ユ、ユキヒコは――現代人の普通の男の子だ。こんな場所で生きていけるもんか!」
神は顎に手を添え、考え込むように頷いた。
「ふむ。それもそうだな」
「はあ!? いや、そうだなって――」
「この体も、我の依代としては細く弱い。
まずは、我の力なしでこの地で一ヶ月、生きてみよ」
「な、何を――!」
光がうねる。
鹿光の形がゆっくりとユキヒコから離れ、夜空に舞い上がった。
「話はそれからだ」
「待って! 俺たちを元の時代に戻してくれ!」
鹿光は振り返らなかった。
「それは叶わん。時を超えた時に、世界は分岐し、新しく生まれたのだ。
其方たちは、この世界で生きるほかない」
「そんな……!」
「それで死ぬなら死ぬがよい。それもまた運命よ」
光は薄くなり、声だけが残った。
「――では、健闘を祈る」
静寂。
風が止まり、草の音も消えた。
私はただ、そこに立ち尽くした。
◇
どれくらい時間が経ったのか分からない。
気づけば私は、ユキヒコの隣で座り込んでいた。
息子の胸が、かすかに上下している。
「……良かった。生きてる」
「う……」
ユキヒコが目を開けた。
その瞬間、胸の奥の緊張が一気にほどけた。
「目を覚ましたか。体は大丈夫か?」
「う、うん」
彼は上体を起こし、少し笑った。
「僕、全部聞こえてたよ。全部見えてた。
一ヶ月、生き残らなきゃ、なんでしょ?」
その言葉に、息が詰まった。
「ユキヒコ……怖くないのか?」
「怖くないよ。だって僕、冒険が楽しみだもん」
その笑顔に、胸が痛くなる。
「冒険……。いや、これはそんな生易しいもんじゃない。
山の中で、親子二人きりだぞ」
「それはそうだけどさ」
「だろ?」
「でも、お父さんと一緒なら、ワクワクするよ」
「ワクワク……?」
「お父さんは、ワクワクしないの?」
「……!」
彼の言葉が胸に刺さる。
ワクワク――。
それは、いつから忘れていた言葉だろう。
「だっていつも言ってたじゃない。
お父さんは昔の日本のことが知りたいって」
脳裏に、書斎の本棚が浮かんだ。
邪馬台国の本。考古学の資料。
そして、大学時代――アカリと一緒に発掘現場に立っていた記憶。
土の匂い。手の震え。初めて出土した土器の重さ。
「……ユキヒコ」
彼は小さく頷く。
「それより、水と食べ物を探そうよ。
お茶とおまんじゅう、もう少ししかないでしょ」
「ああ……」
私は深く息を吐いた。
夢なのか現実なのか、もう分からない。
――でも、息子といる。
それだけが確かだった。
(ならば、進むしかない)
◇
崖の前に立ち、私は言った。
「まず、この崖を降りるのは無理だ」
「じゃあ、森の方に行こう。水を探すんでしょ?」
「そうだな」
私たちは車へ戻り、使えそうなものを探した。
幸い、ユキヒコとデイキャンプをするつもりで色々積んでいた。
(これは……不幸中の幸い、か)
ライター、携帯燃料、BBQセット。
小ぶりのナイフとハサミ。
ビニールシート、小さな折りたたみ椅子。
「食料さえ手に入れれば、なんとかなるかもしれん」
「うん!」
ユキヒコは嬉しそうに頷いた。
「行くぞ」
しかし――心の中の声は冷たかった。
(もし本当にここが西暦240年なら……
文明の力なんて、ここではほとんど役に立たない)
◇
森の中を歩く。
風の匂いが濃く、鳥の声が近い。
「現代と、それほど植生は変わらないな」
木々の間に、見慣れた名前が浮かぶ。
(ツブラジイ、カシ、クスノキ、ワラビ、ゼンマイ……)
自然観察の癖が、無意識に蘇る。
そのとき、ユキヒコが上を見上げて息を呑んだ。
「お父さん、あれ……鹿?」
「……ウサギだよ」
崖の上に、大きな影が立っていた。
異様に大きい――まるで鹿と見間違えるほどの体格。
「でも、デカいな。
あれを狩れれば、食糧問題は解決だろうけど……」
私は苦笑しながら言った。
その時の私はまだ知らなかった。
――狩ろうとしていたのが、こちらの方だったということを。
崖の上。
草むらの陰に、弓を構えた男がいた。
もう一人、槍を握る影。
その背後には、少女が立っている。
黒髪が風に流れ、瞳だけが光を宿していた。
彼らの視線の先には、私たち。
だが、私たちはまだそれに気づかない。
「行こう、ユキヒコ。森に入る」
「うん!」
二人の足音が、草をかすめて消えていく。
その上で、弓の弦が静かに鳴った。
――音はまだ、誰の耳にも届いていない。




