ナイコウカモンキョウ
「聞けばその者たちは――異教の神の使いだとか!」
ナガツの声が、社の天井を震わせた。
「そのような者を村に入れることこそが、アマテラス様への叛意と見なされるのだ!」
アマテラス。
その名を聞いた瞬間、胸の奥がひやりと凍った。
日本神話の最高神――天照大神。その名を、この時代、この宮崎の地で聞く日が来るとは思ってもみなかった。
炎の向こうで、アシカビが立ち上がった。
「異教の神の使いだと? 彼らは“鹿光”の使いだと言っている。
鹿光は、我らが童の頃から共に祀ってきた神さんではないか!」
「古き神々など、我らに何ももたらしてはこなんだ!」
ナガツが祠を指す。
「これからはアマテラス様だけを祀るべきなのだ!」
その言葉に、私は息をのんだ。
太陽信仰――天孫族の系譜。この地にすでに、アマテラスを掲げる新しい信仰が芽吹いている。
鹿光を祀るヒムカの民とは、異なる神の血脈。
この社の空気が、ゆっくりと緊張を孕んでいく。
「ナガツよ! 今宵は祭りの夜じゃ。控えよ!」
カヤ姫が前に出た。
「……カヤ姫」
ナガツの瞳が光り、ゆっくりと彼女へ歩み寄る。
「そなたを、いずれ我が妻とすることは、前の長との約だった。
それは今も変わらぬことを忘れるな」
カヤ姫がわずかに身を引いた。
その顔に、怯えが宿る。
気づけばユキヒコが彼女の前に立っていた。
「!」
ナガツが少年の顔にぐっと近づく。
「なんだ? 童よ。俺に文句があるのか」
ユキヒコは何も言わず、じっと見上げた。
小さな肩の震えを、私は見逃さなかった。
「いい加減にしろ、ナガツ」
アシカビが腰の剣に手をかける。
「カヤが巫女となった以上、お前に嫁ぐことはない」
ナガツの唇が歪んだ。
「偽りの神との契約を盾に、古き盟約を破るのか!」
刃が抜かれようとした瞬間、私は思わず声を上げた。
「待ってくれ!」
ポケットからスマホを取り出し、画面を点灯させる。
白い光が闇を裂き、篝火の赤を押し返した。
◇
ナガツが思わず目を細めた。
白光が社の梁を照らし、煙が波のように揺れる。
「我々のせいで争うのは望んでいない」
喉が乾いていた。声が掠れる。
「偽りの神の使い……一体それは何だ」
「これは――我が神、鹿光から賜った“太陽の鏡”だ」
スマホの光が炎に重なり、社の中を昼のように照らす。
ドグリが声を上げた。「あの光やっちゃ!」
マグリが目を覆う。「まぶしかねー!」
ナガツは腰袋を探り、怒鳴った。
「そ、それがどうした! 俺だって鏡を持っておる!」
彼が掲げたのは、古びた銅鏡。
赤錆が光を吸い込み、篝火の中で濁った反射を返す。
内行花文鏡――弥生末期から古墳期にかけて、九州各地で出土する青銅鏡。
私はその形を一目で理解していた。
だが、同時に感じる。
私の手の中のスマホこそ、遥か未来の“鏡”なのだと。
光の文明と、祈りの文明。
それらが今、ひとつの社の中でぶつかり合っている。
「……!」
ナガツがたじろぐ。
その頬が赤く染まり、唇が震える。
「ナガツよ、ここは引け」
アシカビの声が低く響いた。
「これからは、この村のことは“長”である俺が決める」
ナガツは沈黙し、やがて鼻を鳴らす。
「いいだろう。だが言っておく――」
ゆっくりと周囲を見回した。
「東の国の者たちは、すでにヒムカに“都”を作り始めておる。
従えぬときは……」
「――戦になるだろうな」
アシカビの言葉は、夜の空気を割った。
「ふん。せいぜい選択を間違えぬことだ。お主は“長”なのだから」
ナガツは背を向け、闇の中へ消えた。
その背中に、時代の亀裂が走っているように見えた。
静寂が戻る。
カヤ姫が息をつき、ユキヒコの肩が震えを止めない。
アシカビは掌を叩き、声を張った。
「さあ、皆のもの! 気を取り直して祭りを始めるぞ!」
◇
夜。
大きな社の前に篝火が灯る。
太鼓の音が山に反響し、村人たちが輪を描いて踊り始めた。
ドグリとマグリが笑いながらユキヒコの隣に座る。
皿の上には岩魚の串、山菜のタラの芽、コシアブラ。
香ばしい匂いが立ちのぼる。
一段高い場所で、私はアシカビと並び、村全体を見下ろしていた。
「ずいぶん豪勢なご馳走だな」
「神々への供物だ。
この夏の豊漁を願い、神々に感謝するのだ」
アシカビが器を差し出す。
「飲め。米で作った酒だ」
白濁した液体が揺れる。
どぶろくのような甘い香り。
一口飲むと、舌に重く荒々しい味が広がり、喉の奥で熱が弾けた。
「ぷはーっ……!」
アシカビが笑い、共に飲む。
「いい飲みっぷりだな!」
祭りの音が広がり、頭が少しずつ霞んでいく。
久しぶりの酒が、あっという間に回った。
押さえつけていた好奇心が、酔いとともにほどけていく。
「アシカビよ……」
器を置き、声が自然と漏れる。
「お前たちは今、他国からの侵略の危機にあると見た」
アシカビがゆっくりと目を細めた。
篝火の光が瞳に二つの火を宿す。
ここには、長年知りたかった“答え”が眠っている。
「その“アマテラス”を信仰するという東の国……」
息を吸い込み、声を張った。
「それは――“邪馬台国”のことではないのか?」
その瞬間、太鼓の音が一拍遅れ、篝火の炎が高く跳ねた。
周囲のざわめきが止まり、風が鳴る。
アマテラス、天孫族、邪馬台国――。
すべてがこの地、高千穂で交わろうとしている。
私は炎の中に、鹿光の幻を見た。
あの赤い瞳が、まるで笑っているようだった。
この祭りの夜が、やがて“倭国の乱”の始まりになることを、
この時の私は、まだ知らなかった。




